バラ風呂(後編)
「アン! 見てくれて! 薔薇の花だ!」
「さようでございますね。……どうしてそんなに嬉しそうなんです? まさかエレン様、あのような男がお好みなんですか?」
機嫌のいいエレンとは違って、アンの機嫌はすこぶる悪かった。
「ど、どうしたんだ、アン。……怒っているのか?」
「別に怒っていませんけれどもー。全然怒っていませんけれどもー」
とは言いつつ、完全に機嫌は悪い。
どうしたものかと、ポリポリと頭をかいたエレンは、いいこと思いついたぞ! とばかりに目を輝かせて、バラの花束をアンの前に差し出した。
突然目の前に赤いバラの花束を掲げられてアンは目を点にさせた。
「いい香りだ。アンも嗅いでみるといい」
そして言われるまま、アンは花の香りを吸い込んだ。
花から薔薇の濃厚な香りが胸に入り、アンは、先ほどまでのイライラが落ち着いて、華やいだ気持ちになった。
「本当にいい香りですね。……エレン様、本当に機嫌がよさそうですけれど、この花のお返事は、どうされるおつもりなんですか?」
アンはそう心細そうに尋ねると、エレンが首を傾げた。
「返事? 何か返事が必要なのか?」
「え。ですから、薔薇の花束の……薔薇の花といえば、愛の……」
と言いかけてアンは口を噤んだ。
バラの花束を抱えて嬉しそうにしているエレンに、てっきり殿方からの愛の告白に喜んでいるからだと思ったアンであったが、そういえば、エレンは何かと世俗に疎いと気づいた。
赤いバラの意味を理解していない可能性がある。
恐る恐るアンはエレンに問いかけた。
「エレン様は、どうしてそんなに機嫌がよろしいのですか?」
「よく聞いてくれたな! アン! 私は、先の桜湯の折に、気づいたのだ。風呂に何かを入れるという行為のすばらしさに!」
「お風呂に、何かを入れる?」
「そうだ! この薔薇の芳香。大変素晴らしい。この花を湯に浮かべたら、最高じゃないだろうか!?」
「確かに、そうで、ございますね。確か、大昔の女王が、薔薇風呂なるものをされていたというのも聞いたことがございます!」
「そうか! やはり、既に先達はいらっしゃるのだな。だめだ。もうこうしてはいられない。もう風呂にはいる!」
「まだお昼でございますよ!? それに、このバラは、飾らないのでございますか?」
好きな異性に花束を捧げるのは、その花を見るたびに、相手のことを思い出すからだとか言う話を聞いたことがある。
しかもこの花束は、愛の告白でよく使われる赤いバラだ。
「飾らないと、ダメだろうか?」
エレンは、不安そうにそう尋ねてきた。
花を愛でる習慣はないエレンであるが、バラが高級な花であることはなんとなく知っている。
そして、普通ならば、その場限りの風呂に使うのではなく、花瓶に生けて大事に愛でるものなのであろうことも何となく分かっている。
でも、それでも、エレンはバラ風呂を堪能したかった。
アンは、色々と一応考えたが、「いえ、全然問題ありません。つかっちゃいましょう」と即断した。
-----------
それからエレン邸の使用人達が忙しく働く。
湯を沸かし、薔薇を花の部分だけを丁寧に刈り取るメイド達の顔は明るい。
それもそのはずエレンが入った後の湯は、使用人達も自由に使っていいと、言われている。
自分達も、王侯貴族ぐらいしか体験できないバラ風呂を堪能できるのだ。
「私、エレン様の屋敷に奉公できて本当に良かったぁ。残り湯とはいっても、薔薇風呂だよ!? 楽しみ―!」
エレンの屋敷に働いているメイドの一人、ソーヤが作業をしながらも嬉しそうに声を上げた。
隣で同じようにバラの花の部分だけを綺麗に刈り取っているメイドのナタリーも嬉しそうに頷いた。
「本当にね。それにエレン様のお世話も楽しいわ。いつ見ても素敵なんですもの。だけど、こんなに綺麗に咲いているバラをお風呂に使っちゃうなんて……なんだかもったいない気もするわぁ」
「確かに、気後れしちゃうけど、でもエレン様だもの。これぐらいの贅沢は当然よ。しかも噂によれば、あの静寂の白鳥騎士団の方々から頂いたらしいわよ!」
「白鳥騎士団って、銀髪の貴公子ジョルジュ様がいらっしゃる騎士団よね? わあ! 素敵だわ! あれ? でも、殿方から頂いたバラを、その、その日のうちにお風呂に使っちゃうってこと?」
ナタリーがそういうと、二人は気まずそうに顔を下に向けた。
「……あまり深くは考えないようにしましょう。ほら、バラの準備も終わったし、風呂場に持って行くわよ」
ソーヤの言葉で、二人はバラの花の入ったかごを抱えて、風呂場に向かう。
そして、まだ湯が沸きあがっていない湯船にバラを丁寧に入れていき、そして、気づいた。
「どうしよう。お風呂の広さとバラの数があっていない気がするわ」
ナタリーはそう言って、眉を寄せた。
ジョルジュが用意したバラの花束は、大変立派なものではあったが、エレンの風呂は人が5,6人ぐらいゆったり入れるほどの湯船である。
一抱えほどのバラを浮かべたとしても、隙間の方が多い。
「香りは確かにいいけれど、正直、これじゃないって感じがすごいわね。桜湯の時は、たくさんお花があったから、ほとんど隙間なんてなかったし……」
湯船を前にして悩む二人の背中に、メイド長のアンの声がかかった。
「二人して、どうしたの?」
首をかしげて、二人に向かってアンが歩く。
アンは、エレンに近寄る邪魔な虫が二度と来ないように念入りに塩を撒いたので、手を洗いにきたところだったが、湯の用意をしているはず二人の様子がおかしいことに気付いて声をかけたのだ。
二人はメイド長であるアンが来てくれたので、これ幸いとばかりに、ナタリーたちはアンに風呂場の様子を見せた。
「アン様! あの、これ、みてください! バラを浮かべてみたんですけれど、多分、エレン様が想像されているのと違うんじゃないかって、思って……」
二人の言葉にアンも、難しい顔で頷く。
「そうね。これじゃない。こんなのを、あんなにお風呂を楽しみにされているエレン様にお見せすることはできないわ!」
アンの力強い言葉に二人のメイドも大きく頷く。
「急いで、薔薇を用意しましょう! エレン様は、薔薇風呂をそれは大層楽しみにされているわ! 急いでバラを用意するのよ! ナタリー、ソーヤ、いいわね!?」
アンの言葉にナタリーもソーヤも大きく頷いた。
湯が沸くまでの間に風呂場いっぱいのバラの花びらを求めて3人のメイドが王都に繰り出した。
王都にある花屋に必ずバラがあるとは限らない。
バラは高級である。そうやすやすと手に入るものでもないのだ。
しかし、メイド立は主のため、そして自分たちもそのバラ風呂を堪能するためと、花屋という花屋に、顔をだし、「エレン様がバラをご所望よ! お店にあるだけのバラを持ってきて!」と鼻息荒く求めて歩く。
それだけ騒ぎながら回れば、周りの人達も気づく。しかも勇者エレンが求めているというのだから、人々も興味津々だ。
なんだかんだで、王都の住民たちもメイド達に協力して、薔薇を探し回る。
そして、うだうだとエレンの屋敷の近くで反省会をしていたジョルジュもその騒ぎに気付いた。
「坊ちゃん、なんか、エレン殿がバラの花を探してるみたいですよ」
「え? バラ? なら、エレン殿に、渡したはずでは? ……エリアムが」
と最後の方、いじけて答えるジョルジュにエリアムは苦笑いを浮かべた。
「まあまあ、そんなに根に持たないでくださいよ。あの時坊ちゃん、緊張のあまりただの銅像みたいになってたんですから」
「そ、そうだとしても、直接、渡したかった……! なんてふがいない私なんだ!」
盛大に嘆く、ジョルジュの方にエリアムがポンポンと肩を叩いて慰める。
「それにしても、なんでまたエレン殿は、薔薇を探してるんですかね?」
エリアムの疑問に、ジョルジュは、ハっと気が付いた。
「きっと、エレン殿は、私から渡す花束を待っているのだ! 私から直接バラの花束を貰いたくて、それで……!」
「いや、それなら、メイドが探しに来ないと思いますけどね」
「そうか、エレン殿、私から渡す花束を待ってくれているのか……」
「坊ちゃんって、変なところでポジティブだなぁ」
等とエリアムが呆れながら言いう言葉も耳に入らない様子のジョルジュも、メイド達と一緒になって、薔薇を求めて王都の花屋に繰り出した。
メイド達の奮闘、王都の住民たちの協力のおかげで、続々とバラの花が集まってきていた。
「これぐらいで、十分でしょう。多少は隙間はあるかもしれませんが、さすがに、バラの花を集めるのもここまでが限界です」
アンは、籠いっぱいに入ったバラを見てそう言った。
ナタリーとソーヤも額の汗をぬぐいながら、頷く。
思いのほかにたくさんのバラが短時間で集まった。
とはいえ、あの大きい風呂を埋め尽くすほどではない。
だが、これだけあれば、エレンもがっかりはしないだろうと、メイド達は薔薇を抱えて、屋敷に戻ると、玄関前に二人組の男を見つけた。
アンは、見覚えのある二人組に、目を鋭くさせる。
「お二人は、一体、何をしに……!」
と、問い詰めようとしたアンだったが、二人の腕の中で大輪のバラの花束が抱えられているのをみて、思わずそちらに視線を向けた。
「エレン殿が、私のバラをご所望と聞いて、再度参上いたしました!」
ジョルジュが、胸を張ってそう答えると、ナタリーとソーヤが、「わ! ジョルジュ様よ! 素敵!」と黄色い声を出す。
塩が足らなかったか! と少し、眉を寄せたアンだったが、目の前には、ジョルジュの腕の中には、さきほどからずっと探し回っていたバラの花が抱えられている。
「ジョルジュ様、でしたね。なかなかどうして、気の利くお方。私、少し誤解をしてしておりました。あなたは虫は虫でも、益虫に近い類だったのですね!」
アンはそういうと、ジョルジュから花を奪った。
「え?」
と困惑した顔を見せるジョルジュにアンは嬉しそうに笑顔を見せる。
「ありがとうございます! 助かりました! では!」
と言って、バラを抱えたアンは、ジョルジュを見てきゃあきゃあ騒ぐメイドを引き連れて屋敷に戻っていった。
「あ、その、私が直接エレン殿、に渡す、はず、で……」
そんなことをつぶやいて、ぽかんとした顔でたたずむジョルジュとそんなジョルジュに、エリアムが元気だせよという感じで、肩を叩いたのだった。
----------------------
「うわーん! いい香り! お姫様になったみたい!」
そう言いながらソーヤは、腕を広げて風呂場の空気を吸い込んだ。
薔薇の濃厚な香りが胸いっぱいに広がる。
「ちょっと、ソーヤ、女だけだからって、はしたないわよ。少しは前を隠そうという気持ちを持ちなさいったら」
そう言って、ナタリーが腕で胸を隠しながらソーヤの隣を歩く。
二人は、念願のバラ風呂の残り湯を楽しみに来たのだ。
既に先客としてアンが湯船につかっている。
「アン様、失礼しますね」
といいながら、ソーヤとナタリーが湯船に入っていく。
増えた体積分湯が流れていく。その流れにバラの花達も揺蕩っていくが、その様子さえ美しい。
ソーヤとナタリーは肩まで湯につかると、「はあああああああ」と気持ちのいい息を吐いた。
「ソーヤにナタリー、今日はご苦労様。エレン様は大変満足されていたわよ」
「本当ですか!? 良かったです。頑張って、良かったです……!」
「本当に! 赤いバラだけじゃどうしても数が集められないから、白や黄色いバラも集めたけれど、逆に見た目が鮮やかになって、良かった気がする!」
「そうですね。色々な色のバラが入っていることに、エレン様も大層ご満悦のご様子でした」
アンがそういうと、手で白いバラを掬って、その柔らかい花弁の感触を楽しんだ。
またナタリーもソーヤも同じようにバラを鼻の近くまで引き寄せると、その芳醇な香りを楽しむ。
「幸せ! 幸せって、こういうことを言うんですね!」
ソーヤはそう言って、花弁を自分の頬に擦りつけている。
「あなたの幸せって単純ね」
「いいじゃない、幸せっていうのは単純なものなのよ! ああ、でも、これも一夜限りの夢だと思うと、すごいわね。これほどのバラ風呂が」
と改めてソーヤがバラ風呂を見渡した。
必死でかき集めてきたバラたちだ。一夜限りのバラ。
一般人の感覚としては、やっぱりもったいないという気持ちが出てしまう。
「その件に関してですが、エレン様から許可をもらって、薔薇に関しては風呂の後に、好きに使ってもよいというお話をいただきました」
「え、好きに、ですか……?」
「はい。このバラは後で乾燥させてポプリにでもするつもりです。王都の方々にもバラを集める際には、お世話になりました。お礼にバラのポプリをお渡ししようと思います」
「バラのポプリ! 素敵ですね! エレン様の使われたバラですからね、とんでもない付加価値つきそうですよ! 皆さん喜びます! あ、ということは、ジョルジュ様にも差し上げるんですか?」
無邪気なソーヤの言葉にアンは、一瞬口を噤んだ。
しばし考えるそぶりをしたが、ふうと一言息を吐き出すと再び口を開く。
「そうですね。ジョルジュ様にも……お渡しする予定です」
「わあ! じゃあ、私ジョルジュ様にお渡ししに行きたいですー! 噂通りちょうかっこよかったですよね!」
ソーヤがきゃっきゃとはしゃぐと、ナタリーが「えー、私はどちらかというと隣にいた副団長が渋くて素敵だと思ったけれど」
「ナタリーって、おじさん好きよねぇ……」
「おじさんってほどの年齢でもないでしょ? でも、やっぱり男は渋さが出てからが本番よ」
「渋さねぇ。私はやっぱりあまーいフレッシュなのがいいな。あ。アン様は、どういう方が……」
「私はエレン様一筋ですから」
アンが、ソーヤの質問にほぼかぶせる形で答えると、二人のメイドは「ですよねー」と、分かり切ったことでしたとばかりに相槌を打つ。
本日のエレン邸では、薔薇の香りに包まれて、華やかな気分になったメイド達の恋バナが咲き乱れたのだった。