それが大切だったのに
ハハッと乾いた笑いがこぼれる。
空虚で寂しさだけを感じられる。
止めるべきなんじゃないかと、心の何処かがストップをかける。
それでも、俺はもう、止められない。
見せつけられた光景に心が砕けそうになった。
奈美に魅せられた笑顔。
あの無邪気な笑顔はもう、向けられることはないかもしれない。
でも、あの笑顔を手に入れられないとしても、俺は奈美自身が欲しい。
その為には、彼女を壊してしまうほど傷つけたっていい。
そう、決めたじゃないか・・・・。
座席に沈み込んだままの身体を奮い立たせる。
そして、窓から見える光景を見つめる。
温かい雰囲気の手の届かない幸せ。
壊そう。
彼女には俺さえいればい良い。
結局、俺にはそれしか出来ない。
車を降り、店へと向かう。
店員は入ってきた俺を見て無言で奈美たちの元へと案内した。
店内には音量を押さえたジャズが流されていたが、
今の俺には聞こえない。
ただ無音の中を二人のテーブルへと歩いて行った。
最初に気づいたのは香野だった。
近づく俺に気がつくと、立ち上がり礼をした。
俺はそんな香野に鷹揚に頷くと奈美を見た。
いつもは弱弱しげに、何かを求めるように俺を見つめているのに、
その日の奈美は違っていた。
憎々しげに俺を見つめている。
でも、その憎しみの中に悲しみも感じられた。
俺は何処かおかしいのかもしれない。
その瞳を見て、喜びを感じてしまった。
高揚していく感情を抑えられない。
今、この瞬間、奈美は俺のことしか考えていない。
俺しか見えていない。
いや、もしかしたら、香野との食事中でさえ俺のことを思っていたの
かもしれない。
きっと、そうなのだろう。
乾ききった砂に水がしみ込むようだ。
少しだけ、心に余裕が戻る。
けれど、それもあくまで少しだけだ。
「香野」
「はい」
香野には言い聞かせておかねばならない。
奈美の優しさに、弱さに絆されるなと。
ジッと俺の背後を見つめる奈美の視線を感じながら店の奥まった
箇所に足を運ぶ。
「忠告しておいたはずだぞ、香野」
「承知しております」
「その割には随分と甘い顔してたな、お前」
「・・・申し訳ありません」
場所柄を考えて派手には出来ない。
けれど、この殊勝な振りをするのが上手い男にはそれなりの対応を
するべきなのだ。
我が部下ながら扱いの難しい男だ。
頭を下げていた香野の首元をつかみ上げ、壁に押し付ける。
「うぐっ」
うめき声が聞こえるが、そのまま締め上げる。
「二度目は無い。
お嬢さんに色目を使う真似はするな」
「ぐっ、はっ、わ、解りました」
最後にもう一度、ひねり上げ、唐突に手を放した。
香野は壁沿いにずるずると座り込むと俯いている。
「もう、帰れ」
俺は座り込む香野に一瞥をくれ、奈美の元へと戻った。
奈美は俺が香野を連れていった時のまま、俺を見つめていた。
俺の後ろに香野がいないことに気づくと眉を顰めた。
「香野は?」
「帰らせました」
「勝手に?」
「えぇ、いけませんでしか?」
奈美は俺の態度が気に入らないらしい。
先ほどよりも憎々しげに俺を見ている。
「別に。
・・・食事はもういいわ」
「解りました」
彼女をエスコートし、会計を済ませる俺を見つめる瞳に宿っている
のは憎しみだ。
彼女を苦しませ、試してばかりいる俺への憎しみ。
あの頃、何よりも大切で、何よりも俺の心を癒してくれた無償の
愛は浮かんでいない。
その代わり、消えることのない執着と憎しみがそこにはある。
俺にはそれでいい。
いつか消え失せてしまう愛なんて不確かなものより余程、信じられる。
愛憎なんて言葉がある。
確かに、愛と憎しみは紙一重なのだろう。
なら、俺は憎しみを取る。
生温い愛ではなく、憎しみを。
俺にはそれで充分だ。
車へと向かう、奈美の手を取る。
触れた指先は氷のように冷たい。
優しい恋人ならその指先に触れ、口づけを落とし、温めるのだろう。
だが、俺にはそんな真似は出来ない。
分け与える温もりさえないのだから。
こんなにも心も身体も冷え切った男に囚われたことを後悔すればいい。
優しさも温もりも、愛情も望みどおりにはやれない。
けれど、ずっとそばにいる。
貴方のそばに、空気のように当たり前に。
そして、決して手放せないように。
奈美だけを、心も、身体も縛り付ける。
ずっと、ずっと・・・。