N2 スライム生活、わりと悪くない
スライムになってから三日ほど経った。
正確に三日かどうかは分からない。時計もカレンダーもないので、明るくなって暗くなるまでを一日として数えているだけだ。それでも、初日に比べればずいぶんこの身体にも、この森にも慣れてきた。
まず食べ物には困っていない。最初に見つけた赤い実は相変わらず美味いし、他にも黄色い小さな実や柔らかい草、倒木の陰に生えている白いキノコなど、食べられるものはいくつか見つかった。
その代わり、何でも食えるわけではないことも早々に思い知らされた。
二日目に見つけた黒紫色の実がそうだった。
艶があって見た目はかなり美味そうだったのだが、触れた時から何となく嫌な感じがした。それでも「スライムなら多少の毒くらい平気なんじゃないか」という根拠のない期待が残っていて、ほんの少しだけ取り込んでみた。
すぐに後悔した。
取り込んだ辺りからじわじわと感覚がおかしくなり、身体の一部が思うように動かなくなったのだ。人間だった頃の痺れに近い感覚だったが、今は身体全体が一つにつながっているせいか、放っておけばもっと広がりそうな嫌な感じがした。
慌てて取り込んだものを外へ押し出し、しばらくじっとしていると何とか元へ戻った。
「毒あるじゃん。危なっ」
創作物にありがちな「スライムだから毒無効」という都合のいい話はなかったらしい。
ただ、そのあと少しだけ気になることがあった。念のためもう一度、今度は食べずに黒紫の実へ触れてみると、最初の時よりも「これは危ない」という感覚がはっきりしていた。それだけなら一度痛い目を見たせいだと思えるのだが、触れた部分だけが自然に縮み、実を内側へ取り込まないような動きをしている。
自分でそうしようとしたわけではない。
「……覚えてるのか?」
もう一度触れてみても同じだった。
だからといって、毒が平気になったわけではない。試しにもう一度食べてみようとはさすがに思わなかったが、一度失敗したものに対して身体の反応が少し変わったことだけは覚えておくことにした。
今のところ、食べられるものは他にいくらでもある。わざわざ痺れる実へ挑む理由はない。
それよりも、森を歩き回る方がずっと面白かった。
◇
初日に見つけた四つ耳のウサギは、この辺りではそれほど珍しい動物ではないらしい。歩き回っていれば一日に何匹かは見かける。
向こうもスライムには慣れているようで、少し離れているだけならこちらを見ても逃げない。草を食べながら一度こちらを確認し、また何事もなかったように食事へ戻る。
ただし、近づきすぎれば普通に逃げる。
その辺りは何度か試して分かった。相手にとってスライムは、見つけた瞬間に全力で逃げるほど危険な存在ではないが、わざわざ近づかれてまで平気でいられる相手でもないらしい。
この世界では、それが当たり前なのだろう。
人間だった俺だけが、青いぷるぷるを珍しいものとして見ている。
「異世界人なの俺だけだもんな」
考えてみれば当然のことだった。
その四つ耳ウサギについて、もう一つ分かったことがある。
何匹かが残した毛へ触れてみると、初日に感じたのと似た印象が残った。特に後ろ脚の辺りが強く、縮んでから一気に伸びるような感覚が共通している。
それを思い出しながら自分の身体を動かしてみると、普通に跳ねるよりずっと強く地面を蹴れるようになった。
最初は木へ激突したが、何度か試すうちにだいぶ扱いやすくなった。今では低い岩くらいなら一気に飛び越えられる。
「やっぱり、あいつらの真似してるよな」
どういう仕組みなのかは分からない。ただ、何匹か見ても同じ感覚がある以上、偶然とも思いにくくなってきた。
そこで一度、完全にウサギの脚らしいものを作ろうとしたこともある。
結果は使いにくかった。
見た目だけそれらしく整えても、俺には骨も筋肉も本来のウサギとは違う。だったら必要なところだけ真似した方がいい。今のところ、身体の下側に太めの突起を二本作り、そこだけ強く縮めて跳ぶ形が一番使いやすかった。
見た目はひどい。
だが、誰に見せるわけでもない。
「スライムだしな。格好つける必要ないか」
そう思うと気が楽だった。
別の日には、木の幹をするすると上っていく灰色のトカゲを見つけた。黄色い斑点があり、俺が近づいても慌てる様子はなく、そのまま高いところへ逃げていった。
翌日、同じ辺りで薄い抜け殻を見つけた。
触っているうちに、身体の表面をざらつかせるような感覚が妙に気になったので試してみると、木の幹へ身体が引っかかりやすくなった。
最初は少しずつしか登れなかったが、それでも十分だった。
跳べる。
張りつける。
登れる。
数日前まで地面をぽよぽよ移動するだけだったのに、行ける場所が急に増えた。
そうなると、森を歩き回ることそのものが面白くなってくる。
昨日まで届かなかった木の実を取れる。遠回りしていた斜面も越えられる。少し高い場所まで登れば、今まで見えなかった景色も見える。
スライムというのは、思っていたよりずっと自由だった。
◇
一週間ほど経った頃には、俺なりの生活圏までできていた。
水の流れる場所。赤い実がよく落ちている木。雨を避けられる倒木の下。四つ耳ウサギがよく集まる草地。灰色のトカゲを見かける岩場。
森のほんの一部にすぎないのだろうが、「こっちへ行けば何がある」という感覚が少しずつできてくる。
寝床も毎日変える必要はなかった。岩の下にちょうど身体一つ分くらいの隙間を見つけ、そこを仮の拠点にしている。
荷物もないし、鍵もいらない。家というほど大げさなものではないが、戻る場所が決まっているだけで意外と落ち着いた。
「無職で家賃ゼロ、食費もほぼゼロか」
前世の俺が聞けば、少し羨ましがるかもしれない。
住所も戸籍も人権もないので、総合的に得をしているのかはかなり怪しいが、その辺は今のところ考えないことにした。
そして、その頃になってようやく、俺以外のスライムを見つけた。
◇
最初に見た時は、思わずその場で止まった。
青くて、丸くて、ぷるぷるしている。
俺とよく似たスライムだった。
大きさも似たようなものだし、二匹並べたら初見では見分けがつかないかもしれない。
「……いた」
妙に嬉しかった。
転生してからずっと一人だった。動物も虫もいるが、自分と同じ姿の生き物を見るのは初めてだ。
とりあえず近づいてみる。
相手も俺に気づいたらしく、身体を少し震わせた。
さらに距離を詰め、身体の一部を伸ばしてみると、向こうも少しだけ形を変えた。
「お?」
何か通じているような気がして、今度は左右へ揺れてみた。
相手も揺れる。
ちょっと楽しい。
そのまま二匹の身体が軽く触れた。
何か起きるかと思って少し身構えたが、特に劇的なことはなかった。
ただ、自分とよく似た柔らかさがあり、その中に何か小さくまとまった部分があるような感覚だけが残った。
相手から言葉のようなものが伝わるわけでもない。
俺が少し離れると、そのスライムは何事もなかったように地面へ落ちていた葉を包み込んで食べ始めた。
しばらく眺めてみたが、食べて、移動して、また食べる。それくらいだった。
「……同族との感動の再会って感じではないなあ」
少し期待していた。
触れたら話せるとか、群れへ案内してくれるとか、何なら長老スライムみたいなものが出てくるとか。
そんなイベントはなかった。
ただ、俺の方が相手よりずいぶん色々考えているように見える。
もちろん一匹見ただけで決めつけるのは早い。
それでも、「自分は普通のスライムと少し違うのではないか」という疑いは、前より強くなった。
◇
問題が起きたのは、それから二日ほど後だった。
森の中を移動していると、茂みの奥からじっと見られていることに気づいた。
これまで小動物に見られることは何度もあったが、今回は少し違う。
細長い顔。
黒っぽい毛。
口元から見える細い牙。
イタチに似た動物だった。大きさは柴犬より少し小さいくらいだろうか。
目が合っても逃げない。
むしろ、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
「……何?」
身体を少し大きく見せてみても、相手は止まらなかった。
嫌な予感がする。
次の瞬間、そいつが地面を蹴った。
速かった。
反射的に横へ飛ぶと、直前まで俺がいた場所へ牙が突き刺さる。
そこでようやく理解した。
「食う気じゃねえか!」
四つ耳ウサギが俺をそれほど警戒しなかったのと同じ理由で、この肉食獣も俺を恐れていない。
ただし、こいつの場合はもっと分かりやすい。
スライムは餌なのだ。
「最弱扱い、そういう意味かよ」
二度目の突進を跳んで避ける。
三度目は少し遅れた。
身体の前側へ牙が食い込み、一部を引きちぎられそうになる。
初日に木へぶつかった時とは違って、ちゃんと痛い。
慌てて身体を縮めて抜けると、噛まれた部分が少し欠けていた。
ただ、しばらくすると傷口らしい場所がゆっくり埋まり始める。
「治るのか……助かるな」
安心したのも束の間だった。
傷が塞がるほど、身体から力が抜ける。
跳ぶ時も、身体を硬くする時も、さっきまでより重い。
どうやら傷が勝手に治るからといって、何の負担もないわけではないらしい。
相手はまた来る。
逃げ続けても、そのうち捕まる。
なら、こちらから何かするしかない。
身体を尖らせても、相手の毛皮を貫けるほど硬くはならない。
そこで四つ耳ウサギから真似した跳び方を思い出した。
攻撃力がないなら、速度を乗せればいい。
俺自身も潰れるだろうが、この身体なら多少は戻る。
「……やるしかないか」
相手が身体を低くした。
こちらも身体の下側を縮める。
同時に地面を蹴った。
真正面からぶつかった。
俺の身体は派手に潰れたが、相手も地面を転がった。
立ち上がった時には、明らかにふらついている。
「効いたな」
もう一度。
今度は少し横からぶつかる。
また俺は潰れたが、相手も大きく転がった。
これなら勝てる。
そう思って三度目に飛ぼうとしたところで、身体から急に力が抜けた。
うまく縮めない。
さっきから傷を塞ぎ、身体を硬くし、何度も強く跳んでいる。
どうやら使える力には限りがあるらしい。
「ここでかよ……」
相手もかなり弱っているが、まだ動ける。
ゆっくりこちらへ近づいてくる。
逃げても追いつかれる。
牙へ対抗する硬さもない。
咄嗟に思いついたのは、相手の口を塞ぐことだった。
近づいてきた顔へ身体を広げ、一気に覆い被さる。
相手が暴れた。
身体を振られ、引っかかれ、噛まれる。
それでも離さなかった。
しばらく耐えていると、妙なことに気づいた。
触れている場所が少しずつ身体の中へ沈んでくる。
赤い実を食べた時と似ていた。
毛が崩れ、その下へ少しずつ身体が入り込んでいく。
「……これ、食えるのか?」
今さら躊躇している場合ではなかった。
相手は俺を食おうとしている。
だったら、こっちが食っても文句はないだろう。
身体全体で包み込む。
暴れ方はしばらく激しくなったが、やがて少しずつ弱くなり、最後には止まった。
◇
その場でしばらく動けなかった。
初めて、自分で生き物を殺した。
肉や魚を食べること自体には慣れていたが、自分で仕留めた相手となると少し感覚が違う。
身体の中には、さっきまで生きていたものがある。
それでも、しばらく考えた末に出た結論は単純だった。
「まあ、俺を食おうとしてたしな」
森の中で相手に食われるくらいなら、返り討ちにする。
それでいい。
そう割り切ると、今度は別のことが気になった。
肉は木の実よりずっと効率が良かった。
身体へ力が戻るのが早い。欠けていた部分も、さっきより滑らかに埋まっていく。
「肉、効率いいな……」
身も蓋もない感想だった。
さらに、食べ終わったあとには例の妙な感覚も残っていた。
牙の硬さ。
顎が閉じる感じ。
身体を一気に前へ投げ出す動き。
鼻の辺りにある、何かを拾う感覚。
全部が分かるわけではない。
ただ、いくつかは妙に印象に残る。
試しに身体の一部を細く伸ばし、さっきの牙を思い浮かべながら固くしてみた。
木へ押し当てる。
今までより深く跡がついた。
「……マジか」
嬉しい。
同時に、少し怖い。
ウサギの跳び方。
トカゲの張りつき方。
今度は牙。
俺はどうやら、他の生き物から何かを拾っている。
仕組みはまだ分からないし、どこまでできるのかも分からない。
ただ、普通のスライムと同じではない。
そのことだけは、前よりずっと確かになってきた。
◇
その日の夜、いつもの岩陰へ戻る頃にはかなり疲れていた。
それでも気分は悪くなかった。
初めて自分を食おうとする相手と戦って、何とか勝った。食われるどころか、最後にはこちらが食った。そして、また新しくできることが増えたかもしれない。
森にはまだ知らない生き物がいくらでもいる。
危険なものもいるだろうが、それ以上に気になるものも多い。
普通のスライムがどうやって暮らしているのかも、もう少し見てみたい。あの黒紫の実だって、今は食えないが、一度触れただけで身体の反応が変わったのは少し気になっている。
明日は何を見つけるだろう。
そんなことを考えている自分に気づき、少し笑いたくなった。
人間だった頃より、明日の予定を考えるのが楽しい。
誰かに決められた仕事ではない。
自分が知りたいから見に行く。食べたいから探す。行きたいから進む。
それだけでいい。
「……やっぱ、悪くないな」
元の世界に未練がないわけではない。
けれど今は、もう少しくらいこの生活を続けてみたかった。
スライムとして何ができるのか。
この森には何がいるのか。
まだ分からないことの方が多い。
だからこそ、しばらくは退屈しそうになかった。




