N1 気づいたら、ぽよぽよしていた
目が覚めた。
少なくとも、最初はそう思った。
ただ、少し時間が経ってから考えると、それが本当に「目を覚ました」と呼べるものだったのかは怪しい。瞼を開いた感覚がないし、身体を起こした覚えもない。それなのに周囲の景色だけは妙にはっきり認識できていた。
背の高い木々が並ぶ森だった。
枝葉の隙間から柔らかな光が差し込み、地面には湿った土と苔、茶色くなった落ち葉が広がっている。少し離れた倒木の上では、黒い甲虫らしいものがのそのそと歩いていた。
見覚えのあるような、ないような森だ。
植物にも虫にも詳しくないので、日本のどこかへ放り出されたと言われても、すぐには違いを説明できなかったと思う。
問題は森ではなく、俺の方だった。
声を出そうとしてみた。
何も起こらない。
寝起きで喉でも潰れたかと思い、首元へ手をやろうとして――そこで初めて気づいた。
手がない。
いや、手だけじゃない。
腕がない。足もない。肩もなければ腰もなく、そもそも頭がどこにあるのかすらよく分からない。
「……ん?」
そう思っただけで、やっぱり音は出なかった。
何が起きているのか確かめようとして身体を起こそうとすると、自分の全身らしきものがむにっと縮んだ。
次の瞬間、地面を弾くようにして前へ跳ねる。
視界が少し進んだ。
俺はその場で止まった。
もう一度、前へ進もうと意識してみる。
身体が少し潰れ、それから弾む。
今度も進んだ。
嫌な予感がする。
というより、かなり分かりやすい予感だった。
自分の身体へ意識を向ける。
丸い。
柔らかい。
中に骨のようなものは感じない。身体全体が一つの柔らかな塊としてまとまっていて、色は薄い青。完全な透明ではないが、向こう側がうっすら透けるくらいには半透明だった。
身体の端を伸ばしてみると、にゅるりと細長く伸びた。
横にも広がる。
平たくもなれる。
元の形を思い浮かべれば、ぷるんと丸く戻る。
ここまで来ると、他の答えを探す方が難しかった。
「……スライムじゃん」
もちろん、実際には声になっていない。
だが、どう考えてもそうとしか思えなかった。
ゲームなら最初の草原に出てきて駆け出し冒険者に殴られるやつ。ファンタジー作品なら、「魔物の中でも最弱」とか「子供でも倒せる」とか、だいたい散々な扱いを受ける、あのスライムである。
まさか自分がなる側になるとは思っていなかった。
◇
そこでようやく、自分がどうしてここにいるのか考えた。
日本にいたことは覚えている。
男。
四十歳。
仕事はエンジニア。
会社員をやっていた時期もあるし、転職もした。とにかくパソコンに向かって何か作ったり、直したり、動かない理由を探したりして金をもらう側の人間だった。
ところが、死ぬ直前のことだけが妙に曖昧だった。
大事故に遭った記憶もないし、病院のベッドで息を引き取った覚えもない。最後に何をしていたのか思い出そうとしても、その辺りだけ霧がかかったようにぼやけている。
とはいえ、気づけば森の中で青い塊になっている。
元の身体で普通に生き続けていると考える方が無理がある。
「転生……ってやつか?」
そう考えたところで、今度は別の意味で引っかかった。
転生。
しかもスライム。
この組み合わせには、さすがに聞き覚えがある。
四十歳にもなって漫画もラノベもまったく知らないような人生ではなかったし、「一見弱そうな魔物に転生したら実は便利能力持ちでした」なんて話だって珍しくない。
となると。
「もしかして俺にも、そういうイベント来た?」
急に少しだけ期待が湧いてくる。
最弱モンスターに転生したと思わせておいて、実は妙に便利な能力を持っている。何か食えば強くなるとか、倒した相手の力を使えるとか、そのうち人間にも化けられるとか。
何なら、その先で魔王だの勇者だのと知り合う。
そこまで考えてから、自分でも少し笑いたくなった。
まだ森で目覚めて数分しか経っていないのに、期待だけは立派だ。
ただ、本当に何の能力もない最弱スライムだった場合、この森で数時間後には鳥か何かに食われて人生二周目終了という可能性もある。
それは困る。
「で、こういう時に能力の説明とかしてくれる賢者様はいないわけ?」
少し待ってみた。
当然ながら返事はない。
頭の中に文字も浮かばない。
謎の声も聞こえてこない。
「……いないか。全部自分で調べろってことね」
そういうところだけ妙に現実的だった。
仕方がないので、まず自分の身体で何ができるのか試すことにした。
◇
移動は思ったほど難しくなかった。
最初は跳ねるしかできないと思っていたが、身体の前側だけを伸ばし、地面へ張りつけるようにしてから後ろを引き寄せると、這うようにも動ける。
見た目はあまり格好よくないが、跳ね続けるより楽だった。
次に、人間の腕を思い浮かべながら左右へ身体を伸ばしてみる。
棒のようなものが二本できた。
そこから指を作ろうとすると、一、二本目までは何とかなる。三本目あたりから怪しくなり、五本揃えた頃には手というより海藻みたいになっていた。
「人間の手って、意外と面倒なんだな」
今まで何の疑問もなく使っていたが、考えてみれば骨があって、関節があって、筋肉や腱があって、それを細かく動かしている。
今の俺には、そういう中身がない。
だから手の形だけを真似ることはできても、人間と同じように動かすには別の工夫が必要らしい。
次に、身体の一部を尖らせてみた。
見た目だけなら小さな槍のようになる。
そのまま近くの木へ突き出す。
ぐにゃり。
普通に潰れた。
「まあ、そうだよな」
形が刃物でも、中身が柔らかいままなら切れるわけがない。
なら、硬くはできないか。
身体の先端へ意識を集中し、ぎゅっと締めるようなつもりで力を入れてみる。
少し感触が変わった。
柔らかいゼリーが、弾力の強いゴムになったような感じだ。
もう一度木へ押し当てると、今度は表面にほんの少し跡がついた。
大したことではない。
それでも、自分の身体が思った以上に自由に動くことは分かった。
調子に乗って縦に長く伸びてみたら、そのまま支えきれずに倒れた。
地面へべちゃっと広がる。
痛くはない。
身体を丸め直しながら、俺は少し機嫌が良くなっていた。
少なくとも、何もできない雑魚モンスターというわけではなさそうだった。
◇
しばらく遊んでいると、身体の内側から妙な感覚が湧いてきた。
腹が減った。
腹がどこにあるのかは分からないし、胃袋らしいものも感じない。それでも身体全体が「そろそろ何か入れろ」と訴えているのだけは分かった。
周囲を探すと、木の根元に赤い実がいくつか落ちている。
知らない実だ。
人間の身体なら絶対に食べない。
だが、今はスライムである。
「……毒とか効くのかな」
何の根拠もなく、何となく大丈夫な気がしてしまう。
創作物に毒されている。
とはいえ、いきなり丸ごと飲み込むほど無謀でもないので、まず身体の先端だけを伸ばして実へ触れてみた。
すると、少し妙な感じがした。
見た目だけでは分からなかったはずなのに、水分が多いことや、中心に硬いものがあることが何となく分かる。
甘そうだ、という感じもした。
匂いを嗅いだわけではない。
舐めてもいない。
ただ、触れていると「多分こういうものだ」という印象が身体の中に残る。
「何だこれ」
もう一度触れてみる。
やっぱり同じだった。
理屈はまるで分からない。
それでも、少なくとも身体はこの実を嫌がっていないようだった。
なら食べてみるか。
身体を覆い被せるようにして実を包み込む。
すると、少しずつ外側から崩れ始めた。
皮が溶け、果肉が柔らかくなり、そのまま自分の身体へ混ざっていく。
噛んだ感覚もなければ、飲み込んだ感覚もない。
それでも、ちゃんと美味かった。
人間の舌で感じる甘さとは少し違う。
何かが身体へ取り込まれ、自分の力に変わっていく。その感覚そのものが心地よかった。
「おお。普通にうまい」
二個目も食べた。
三個目も食べた。
気づけば、周囲に落ちていた分を全部平らげていた。
食べ終わる頃には、さっきまでより身体を動かしやすくなっている。変形も少し滑らかになった気がする。
どうやら食べたものは、そのまま身体を動かすための力になるらしい。
次に草も試した。
これは食える。
落ち葉はあまり美味しくない。
小石はさすがに食べ物という感じではなかったが、中には触れた時に何となく気になるものもあった。
「割と何でも試せるな」
こうなってくると、食事というより宝探しに近い。
何が食えて、何が食えないのか。
何を食えば身体がどう変わるのか。
少しずつ、この身体が面白くなってきた。
◇
森の中をもう少し進むと、小さな動物を見つけた。
ウサギに似ている。
ただし、耳が四本あった。
前に短い耳が二本、その後ろに長い耳が二本。
丸い身体で草を食べている姿は、普通のウサギより少しだけ奇妙で、それ以上に妙にかわいかった。
思わず少し近づく。
相手はこちらを見た。
四本の耳のうち、長い方がぴくりとこちらへ向く。
だが逃げない。
しばらく俺を見たあと、また草を食べ始めた。
「お? 逃げないな?」
少し意外だった。
スライムの姿を見て即座に逃げ出すわけではないらしい。
なら、もう少し近くで見てみたい。
俺はゆっくり距離を詰めた。
一度目は大丈夫だった。
もう一歩。
今度は四本の耳が全部こちらを向いた。
「お、警戒した?」
それでも逃げない。
調子に乗って、さらに近づいてみる。
そこでようやくウサギが身を翻した。
草を蹴り、驚くほど軽やかに茂みの向こうへ跳んでいく。
「あ、そこまでは駄目か」
別にスライムを見た瞬間から怖がっていたわけではない。
ただ、さすがに近づきすぎれば逃げる。
それだけの話らしい。
そう考えると、妙に納得した。
この世界にスライムが普通にいるのなら、動物だって見慣れているはずだ。
少なくとも、あのウサギにとって俺は見つけた瞬間に全力で逃げるような相手ではなかったらしい。
「……最弱扱い、思ったより本物か?」
少しだけ複雑な気分になる。
とはいえ、かわいかったので良しとする。
ウサギがいた場所を見ると、白い毛が一本落ちていた。
何となく触れてみる。
赤い実に触れた時とは違う感覚がした。
もっと複雑で、うまく言葉にできない。
ただ、その中で妙に印象に残るものがあった。
地面を蹴る感じ。
強く縮んで、一気に伸びる感じ。
さっき逃げていったウサギの後ろ脚が頭に浮かぶ。
「……脚?」
なぜそう思ったのかは、自分でもよく分からなかった。
でも、何となく試してみたくなった。
身体の下側を少し細長くする。
そのままだとただの柔らかい突起なので、さっき身体を硬くした時の感覚も混ぜる。
さらに、伸びたり縮んだりするようなつもりで形を整えてみる。
見た目はとても脚とは呼べない。
それでも、地面を押してみた。
次の瞬間、身体が予想以上の勢いで前へ飛んだ。
「うおっ!」
声は出ない。
そして止まり方も分からない。
そのまま木へ激突し、身体がべちゃっと広がった。
しばらくしてから丸い形へ戻る。
痛みはほとんどなかった。
俺は木の根元で少し震えた。
笑っているつもりだった。
「できたじゃん」
いつもの跳ね方とは明らかに違った。
さっきのウサギを見たあとで、それっぽい形を作ってみたら本当に遠くまで飛べた。
偶然かもしれない。
単に、今までそういう身体の使い方を思いつかなかっただけかもしれない。
それでも、面白い。
もし他の生き物を見たり触ったりすることで、自分の身体の使い方まで増えていくのだとしたら。
「これ、結構すごいやつでは?」
期待がまた膨らむ。
最弱スライム転生。
でも実は妙にいろいろできる。
「やっぱ俺にも、そういうイベント来てる?」
思わずそんなことを考えてしまう。
ただ、さっきのウサギがたまたま特別だった可能性もある。
本当にあの動物を参考にできたのかも分からない。
もう何匹か見れば、少しは分かるかもしれない。
どうせ今の俺には予定も仕事もない。
森を歩き回るついでに探せばいい。
◇
夕方になる頃には、最初よりだいぶ身体の扱いに慣れていた。
跳ねるだけでなく、這うこともできる。木の根を乗り越えるくらいなら簡単だし、どんなものが食べられそうかも少しずつ感覚が掴めてきた。
例の四つ耳ウサギも、少し離れた場所でもう一匹見つけた。
今度は遠くから眺めるだけにした。
一匹目と同じように、こちらを見てもすぐには逃げない。
俺が距離を詰めなければ、そのまま草を食べ続けていた。
「やっぱりスライムって、こいつらからすると大して気にする相手じゃないんだな」
それが少し面白かった。
人間だった頃の感覚なら、青いゼリー状の生き物なんて見つけた瞬間に写真を撮るか逃げるかの二択だったと思う。
でも、この世界では違う。
ここでは、スライムは最初からいるものなのだ。
俺にとっては転生先でも、この森の生き物にとってはただの日常。
その当たり前の中に、自分だけが途中から放り込まれたらしい。
そんなことを考えながら、大きな木の根元に身体を収めた。
夜になれば森も危ないのかもしれないが、人間だった頃ほど寝床には困らない。土の窪みに身体を丸めれば、それだけで妙に落ち着いた。
今日一日を振り返ってみる。
どうやら死んだらしい。
知らない森にいる。
スライムになった。
身体は思ったより自由に動く。
いろいろなものを食べられる。
触れたものについて、なぜか少しだけ分かることがある。
他の生き物を真似すると、自分にもできることが増える……かもしれない。
初日にしては上出来だろう。
何より、今の俺には仕事がない。
朝会もない。
納期もない。
メールも来ない。
急ぎの確認もない。
腹が減ったら何か食べて、気になるものを見つけたら近づいてみる。疲れたら、その辺で休めばいい。
「……これ、思ったより悪くないな」
スライムになったと気づいた時には、さすがにどうしたものかと思った。
でも今のところ、不自由より面白さの方が勝っている。
明日はもう少し遠くまで行ってみよう。
違う動物も見つけたい。
食べられるものも増やしたい。
できれば、俺以外のスライムも見てみたい。
他のスライムも同じようなことができるのか。それとも、俺が少し変なのか。
それを知るだけでも面白そうだった。
せっかく二度目の人生をもらったらしいのだ。
急いで人間に戻る必要もない。
まずはこの身体で、しばらく遊んでみればいい。
そう考えると、明日が少し楽しみになった。
スライムとしての生活は、まだ始まったばかりだった。
第1話お読みいただきありがとうございます。
しばらく日水で更新していく予定になります。
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