第七章
次の日の朝、施訂再は宿の自室にて窓から射し込む朝日によって目を覚ました。
(昨晩は色々あって眠るのが遅くなってしまったなぁ……)
昨晩の出来事を思い返しながら寝台から起き上がると伸びをしてから寝間着を脱いで普段から愛用している赤い旅装束に袖を通していく。それから机の上にある
鏡台の前に座って髪型を整えて身支度を済ませると宿の一階にある食堂に向かった。
食堂では既に数人の客が朝食を食べていたが施訂再は彼らの姿を見て思わず首を傾げてしまう。何故ならそこに居たのは秦由莉と秦然忠姉弟だったからである。二人共同じ卓について食事を摂っているようだがその雰囲気は非常に険悪なものだった。互いに睨み合っていてまるで座ったまま決闘でもしているかのような空気が漂っているほどである。それを見た施訂再は嫌な予感がしたものの……ここで立ち去るのも良くないと判断して仕方なしに彼らと同じ卓につくことにした。席について店員へ注文を伝えると、朝食が来るまでの間しばらく無言の時間が続く中……最初に沈黙を破ったのは意外にも秦然忠であった。彼は不機嫌そうな表情のまま唐突に話しかけてきたのだ。
「施訂再」
突然名前を呼ばれて思わずドキリとしてしまう施訂再だったが平静を保ちながら冷静に尋ねる。
「どうしたんだ?」
「貴様には……我が姉上を弄んだことへの報いを受けて貰おうと思ったが、姉上のたっての願いで今回のことは水に流すことにした。だが、もしも姉上に何かあれば貴様の首を刎ねるだけでは済まないと思え」
秦然忠はそう言うと鋭い眼光で睨みつけてくる。そんな彼に対して施訂再は特に動じることなく淡々とした口調で答えた。
「ああ、わかっているさ。俺は自分の命を失うよりも女性が傷付くことのほうが辛いんだ。だからこれからも由莉さんに迷惑がかからないように気をつけるよ」
そう言って頭を下げる施訂再に秦然忠はフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向く。そんな二人のやり取りを見ていた秦由莉はクスクスと笑いながら言った。
「ふふっ、然忠ったらそんなに敵意剥き出しにしなくてもいいじゃない。施訂再様は別に悪い人じゃないのだから。むしろ良い方だと思うわよ」
秦由莉はそう言うと施訂再に対して微笑んでくれる。そんな彼女に対し施訂再もまた笑顔で返すのだった。その後すぐ料理が運ばれて来たので三人揃って朝食を食べ始めるのだが、やはり姉弟二人の間に会話は無いようで微妙な空気が流れる中での食事となった。とはいえ施訂再にとっては今更気にすることでもないのだが……。そんな空気の中で施訂再は粥を啜りながら考える。
(この空気、どうしたものか……)
彼は昨日の出来事を思い出して頭を悩ませていた。だが、問題はそれだけではない。昨日の夕食の際に秦由莉と赤い盃で酒を飲み交わした儀式が実は彼女の故郷に伝わる婚礼の儀であることを全く知らなかったのだ。更にはそのことを秦由莉は施訂再に説明していないので、彼はまったくもって状況を把握できておらず内心焦っていた。まさか自分が知らぬ間に秦由莉の婚約者にされてしまっていることなど気づくわけもなかった。
(う〜ん……さっきから秦然忠の視線が突き刺さるように痛いし、由莉さんは由莉さんで妙に上機嫌だし……一体どうすればいいんだろう……?)
心の中で呟きながら困り果てていると、不意に秦由莉が話しかけてきた。
「ねえ……施訂再様?」
名前を呼ばれてハッと我に返ると慌てて返事をする。
「あ!はい、どうしました?由莉さん」
「いえ、その……私ね、昨日からずっと考えていたことがあるのですけど……」
そう言って彼女は頬を赤らめると小さく深呼吸してから意を決したように続けた。
「……施訂再様さえよろしければ、一度両親とお会いしていただきたいのですが……」
突然の提案に驚く施訂再。それは秦然忠も同様で、彼は驚いた拍子に呑み込もうとしていた粥を喉に詰まらせそうになっていた。
「グッ……!?ゲホッ、ゲホッッ……!あ、姉上!何故施訂再の奴を父上や母上に紹介してやらねばならないのですか!?私は断固として反対です!」
秦然忠は姉に抗議するが彼女はそれを無視して話を進める。
「だって……赤婚酌交の儀をしたということはもう夫婦も同然じゃないですか。だからちゃんと両親に挨拶しないといけないと思うのですよね~♪」
そう言って楽しげに笑う秦由莉の様子に施訂再は困惑するしかなかった。そもそも彼は赤婚酌交の儀が何なのかも知らないうえに、知らず知らずのうちに自分が秦由莉と婚約してしまっていたことなど知る由もないのだ。そんな施訂再に対して秦由莉は小首を傾げながら尋ねてくる。
「施訂再様、もしかしてお嫌……ですか?」
不安げに見つめてくる秦由莉に対し、施訂再は彼女の言葉の意図がわからずにますます混乱するばかりである。
「あ、あの……由莉さん、赤婚酌交の儀というのは……?」
施訂再が恐る恐る尋ねると、秦由莉は満面の笑みを浮かべて答える。
「嫌ですわ、施訂再様ったら……。昨日私が用意した赤い盃を使って二人でお酒を酌み交わしたではありませんか。あれは赤婚酌交の儀といって、私の郷里ではその儀式を行った男女は婚約者になるという古くからの習わしでございますの」
それを聞いた途端……施訂再の脳内に衝撃が走る!
(マジかぁ――――――ッッッ!!)
心の中で叫びたくなるような思いがしたものの表に出すわけにはいかないので必死になって堪えるしかない。しかし、秦由莉はとても幸せそうに微笑んでおり、その笑顔を見ると何も言えなくなってしまう施訂再であった。そこで彼は覚悟を決めて一つ咳払いをすると彼女に向かって切り出した。
「ああ……そういうことでしたか。確かにそんな習慣があったとは知りませんでした。ですが、私のような粗忽者が由莉さんの夫にふさわしいとは思えません。知り合ったばかりの男といきなり夫婦の契りを結ぶのはいかがなものかと……」
施訂再は秦由莉の心を傷つけぬように慎重に言葉を選びながら
答える。しかし彼女は首を振りながら否定してきた。
「施訂再様……そのように謙遜なさらなくても結構ですよ?私にとって貴方は既に夫同然なのですから。それに赤婚酌交の儀を交わした以上もう他人ではありませんからね♡」
秦由莉は頬を赤らめながら恥じらいつつも嬉しそうに言うがそれがますます施訂再の心に重圧をかけていった。ここまで言われると彼としては断りづらくなるというものだ……。
「ええっとですね……そのぅ……」
施訂再は言葉に詰まる。確かに昨日は成り行きとはいえ秦由莉と婚約の儀式を済ませてしまったわけだが……それを江夢沁に知られたらどうなるであろうか。彼女に秦由莉と自分が恋仲になりかけているところを目撃されたならば間違いなく修羅場になるだろうことは容易に想像できるというものだ。なのでここは丁寧にお断りさせてもらう必要があった。
「すみません……やはり自分は由莉さんと夫婦にはなれません!」
施訂再は勇気を出して言った。だが秦由莉はそんな彼の返答を想定していたかの如く落ち着いた口調で返す。
「あら、それはどうしてです?施訂再様……」
そう言って彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべたままジッと見つめてくるものだから逆に施訂再の方が動揺してしまう始末だ。そこで彼はこう答えたのである。
「実は……私はまだ夢沁お嬢さんとの約束を果たせておりませんから」
「夢沁さんとの約束?それはどういうことです?」
怪訝な表情を浮かべて質問する秦由莉に施訂再は正直に答えることにした。
「ああ……実はですね……夢沁お嬢さんと約束事をしたんですよ。それで彼女が十八歳になったらその時に迎えに行くって約束したんです……だから、由莉さんと結婚することはできません」
施訂再がそう言って頭を下げると秦由莉は困ったように眉を八の字にする。勿論これは施訂再が秦由莉に自分との婚約を諦めてもらえるようについた嘘であるのだが……すると、彼女は少しだけ考え込んでからこう切り出した。
「そうですか……でも施訂再様は昨日、夢沁さんとは兄妹のようなご関係だとおっしゃっていましたよね?」
その問いに施訂再は思わずズッコケそうになったが何とか持ちこたえる。そして彼は秦由莉へ向かって正直に告げる。
「は、はい。婚約なんて滅相もないです!ただ単に……夢沁お嬢さんが一人前の女性になってくれるまでの間だけという条件付きで約束しただけですよ」
そうやって慌てて否定する彼を見て秦由莉は納得したように頷く。しかしそれでも施訂再が心変わりをする可能性がある以上油断できないと考えたようで更に追及してきたのだ。
「なるほど……でも、心配には及びませんわ!施訂再様が夢沁さんとご結婚されるのであれば、
私は第二夫人として施訂再様を支えて差し上げますから」
それを聞いた瞬間……施訂再の顔面から血の気が引いた!なぜなら彼女の発言は暗に施訂再が夢沁と結婚しても自分は側室として施訂再と共に生きるつもりでいるということだからだ。しかも秦由莉の目には嘘偽りは微塵もなく本気でそう思っているらしいので余計に恐ろしかったのである。そこで彼は焦りながら否定する。
「い、いやいやいや!いくらなんでもそんなことはできませんって!」
全力で拒否しようとする施訂再に対して秦由莉は悲しげな瞳で見つめてくる。その眼差しを見た途端、彼は何も言えなくなってしまい言葉に詰まってしまうのだった。すると秦然忠が痺れを切らしたのか大声で叫んだ。
「姉上!もういい加減にしてください!そもそも施訂再の奴なんか認められるわけがないでしょう!?」
秦然忠の怒鳴り声により場の空気が凍りつくような錯覚さえ覚えるほどである。だが秦由莉は全く動じないどころか逆に不愉快そうに睨み返すと冷たく言い放った。
「何よ然忠……貴方に何の権限があって私達の関係に口を挟んでくるの?」
「いいえ、今度という今度こそは譲れません!姉上を籠絡して大秦覇蛇館の後継者の座を簒奪しようとする不定の輩との結婚など、認められるわけがないでしょう!!」
秦然忠は悔しそうに歯ぎしりをする。彼にとってみれば施訂再の存在は姉を奪おうとする邪魔者以外の何物でもないのだろう。そう考えるとなんだか可哀想になってくるような気もするのだが……。
(大体何が『姉を盗られた』だ!俺だって勝手に盗人扱いされて迷惑だっつーの!!)
施訂再は腹の底から声を張り上げて文句を言いたかったが、秦姉弟の放つ凄まじい威圧感に押されてしまって何も言えなかったのである。一方秦由莉はというと呆れたように溜息をつくと冷めた目つきで弟を見るのだった。
「はぁ……然忠、ここで言い争っても埒が明かないわ。まずは霊峰白蛇山へ戻って施訂再様のことをお父様やお母様にお伝えしなくてはならないから。……いい?然忠。私は絶対に諦めないからね?」
秦由莉はそう言って弟へ釘を刺すが秦然忠は忌々しげな表情を浮かべたまま何も答えようとしなかったのである。それを見た施訂再は心の中で盛大に溜息を吐く。もう完全に修羅場の展開に入ってしまったような気がしてならないのだ。
(はぁ……もう勘弁してくれよぉ……)
そんな施訂再の心情など知る由もなく秦由莉は施訂再の方へ向き直る。そして真剣な眼差しで問いかけてきた。
「施訂再様……お願いですから考えてみてくださいませ。私にとって貴方は大切な方なのです。そしていつの日か必ず夢沁さんを納得させることができると信じておりますわ。ですからどうか……」
彼女は潤んだ瞳でジッと見つめてくる。その表情からは真剣さがひしひしと伝わってきて思わずドキッとしてしまうほどだった。そのあまりにも純粋な思いを裏切ることがどうしてもできなくなってしまった施訂再は困り果てるしかない。
「わかりました……考えてみましょう。ですが今はまだその時ではないと思っています」
「……そう……ですか……わかりましたわ。今日の所はひとまず退散いたしますわね」
秦由莉は落胆した様子を見せつつも素直に引き下がる姿勢を見せた。その様子を見て施訂再は少し罪悪感を感じずにはいられなかったが、それでも今はまだ決断を下す時ではないと思ったので仕方がない。
「それでは……私はこれで失礼いたします」
彼女は立ち上がると店員に宿代を支払ってからそのまま宿屋を出て行こうとするが、ふと立ち止まって振り返るとこう言い残した。
「……また近いうちにお会いしましょうね?その時は良いお返事を期待していますわ」
そう言った後に秦由莉は施訂再に目配せして宿屋から出て行ったのだが、その後ろ姿を見送りながら彼は深い溜息を吐いたのであった。それからしばらくすると秦然忠は言った。
「いいか、施訂再。私は姉上と貴様の結婚など絶対に認めないからな!覚えておけ!!」
言い捨ててから秦然忠も宿屋を後にしたのであった……。
「はいはい、わかりましたよっと……」
施訂再は秦然忠の態度に呆れながら呟く。彼は自分に対して並々ならぬ憎悪を抱いていることがよくわかるほどの敵愾心を見せていたのである。そんな秦然忠の姿を見送ったあと……朝食を食べ終えてから腰を上げた。
(さてと……これからどうしたものかねぇ)
そんなふうに考えながら宿代を支払おうとした時、店員が恐る恐る言った。
「あの……お客様、お連れの方の食事代もお支払いいただきたいのですが……」
(え……『お連れの方』……?あ――――――っ!秦然忠の野郎、朝食代を俺に押し付けて帰りやがった!)
施訂再は心の中で怒号をあげるも……。
「……すみません。その分も支払います」
彼はそう答えるしかなかった。結局、秦然忠の朝食代も払わされてしまった施訂再は宿屋を出てうんざりとするのだった……。
「やれやれ……とんでもないことになっちまった。由莉さんのことは一先ず置いておくこととして、大秦覇蛇館の問題児こと秦然忠の奴に目をつけられてしまうとは……。とりあえず、今は秀斗町を出る前に一度龍登山荘へ行って江の旦那や夢沁お嬢さんに昨日のことを謝るとしよう」
その後、施訂再は龍登山荘へと足を運んだが江才覚は彼を快く迎え入れてくれたものの、江夢沁は『施訂再のような不埒者とは口を利きたくない』と不機嫌そうにしていて謝罪することができなかったという。仕方がないので、施訂再は江才覚に挨拶してから龍登山荘を後にしたのだった……。
江夢沁が施訂再に果たし合いを申し込んだのはそれから約二ヶ月後のことである。
その日も施訂再は龍登山荘を訪れたところだったのだが……突然屋敷の中から、
『ドンッ!』と大きな音が聞こえてきたので何事かと思い慌てて扉を開けると、そこには仁王立ちしている江夢沁の姿があった。
「いつまで待たせれば気が済むのよ?早く私と勝負しなさい!」
そう言って江夢沁は鋭い眼差しを向けてくる。その迫力に圧倒される施訂再だったが彼女をなだめるように言った。
「夢沁お嬢さん、待ってくれ……いくらなんでも突然すぎるじゃないか。第一、何の勝負なんだ?武術?それとも勉学か?」
「そんなこと言わなくてもわかるでしょ!」
怒鳴りつける江夢沁。だが施訂再にはまったく理解不能だったようで首を傾げるばかりだ。
「いや、全然わからないよ……」
「だったら教えてあげるわ!」
そう言って彼女は腕組みをして宣言した。
「私と剣で勝負しなさい!それで負けた方が相手の言うことをなんでも聞くっていうのはどう?」
それを聞いた瞬間……施訂再は青ざめた顔になった。何故なら彼女が持っているのは本物の剣であり木剣での稽古とは訳が違うのだから無理もないだろう。
「えっ……ちょっ……ちょっと待ってくれ、夢沁お嬢さん!」
思わず叫ぶ施訂再だったが時既に遅しといった感じである。そして彼女は鋭い目つきで言い放つ。
「言い訳は無用よ!さっさと構えなさい!!」
その迫力に圧された施訂再は慌てて長剣を抜き放つと構えを取った。それを見た江夢沁はニヤリと笑みを浮かべると同時に一気に距離を詰めて斬りかかってきたのだった……!
彼女は鋭い刃で斬りかかるが施訂再はすんでのところで躱し続けた。だが攻守交替することなく防戦一方となってしまう。そして江夢沁が剣を斜め下に振りかぶると素早い動きで薙ぎ払う動作を見せた。その動きは流麗にして滑らかだった。施訂再が彼女の動作を見極めようとした時にはすでに遅かった。次の瞬間……『シュッ!』という風切り音とともに江夢沁の放った斬撃が彼の左肩を掠めたのだ……!その痛みに耐えながらも剣を振るう施訂再に対して彼女は容赦なく追い打ちをかけるように襲いかかる。その剣筋は洗練されており一切無駄がない。
(くっ……速い!?それに鋭すぎる……!これが本気の彼女の動きなのか?)
施訂再は冷や汗を流しながら必死で江夢沁の剣を防ぐ。その一方で彼女は余裕の表情を浮かべながら攻め立ててきた。彼女が放った技は江湖龍昇剣第一式『水蹴跳鯉』の型である。
水蹴跳鯉とは、水面から飛び上がる鯉の如く地を蹴って跳躍しながら攻撃するという動作から名付けられた。元来、鯉は滝を登って龍になるという伝説があるほどに強い生命力を持つと言われている魚なのだが、その伝承に基づいて考案されたのがこの剣技なのだ。この江湖龍昇剣は荒河の中でも有数の強大な威力を持つ剣技として知られているのであるが……如何せん修得難易度が高いのである。しかし江夢沁はこの技を既に会得しており熟練度もかなり高い段位にあると言えるだろう。だからこそ施訂再にとって最も厄介な相手だったのだ。彼女はこの水蹴跳鯉を得意としており、これを駆使することで相手を翻弄しつつ確実に仕留めることができるのだ。彼女は容赦無く攻撃を仕掛けてきた。施訂再が攻撃を避けようとするとそれを狙って剣先を突き出してくるので避けるのも容易ではない。しかもその一撃は鋭く速いため防ぐだけでも一苦労だ。
「どうしたの?動きが鈍いわよ!そんなんで私に勝つつもりなの?」
そんな挑発的な言葉を投げかけてくる江夢沁に対して、施訂再は苛立つ気持ちを抑えながら応じた。
「フン!言ってくれるじゃないか!」
彼は怒りを露わにすると一気に踏み込んで斬りかかる。そして横薙ぎの一閃を繰り出すが彼女は難なく受け止めた。それどころか逆に反撃してきて袈裟懸けに斬りかかってくる。その攻撃を紙一重で回避すると今度は斬り上げを放つがそれすらも捌かれてしまう始末だった。江夢沁は冷静にこちらの動きを見極めているようで隙が無い。そのことに焦りを感じ始めた施訂再だったがここで引き下がることはできないと考えていた……。そして彼は乾坤一擲を賭けるべく気力を集中させる。
(こいつを使うしかない……)
そう判断した彼は体内の気を巡らせる。そして一気に開放すると同時に体が淡い光を放った。その瞬間……施訂再の体は軽くなり素早さも増したような気がしたのだった。
(よし!これならいけるはずだ)
施訂再は心の中で確信すると同時に一気に攻め入った。彼は袈裟切りを繰り出し斬り伏せようとする。だが江夢沁は巧みに躱して反撃に出る。続いて彼女が繰り出してきたのは
江湖龍昇剣第二式『月輪波紋』の型であった。これは水面に映る月光のように美しい輝きを持った剣舞によって相手の視界を惑わせる技である。その幻想的な演出に魅了されるとともに動きを封じられて次第に体力を消耗してしまうという恐るべき技なのだ。しかもこの技は幻惑効果だけでなく精神的な痛手を与える効果もあるので厄介この上ない。それを知っているからこそ施訂再も迂闊に近づけないのだ。江夢沁はさらに連続攻撃を仕掛けてくる。彼女の攻撃は鋭く速いだけでなく変則的な動きをするため対処が困難な場合が多いのだ。しかも彼女の剣技は常に進化しており同じ型であっても毎回微妙に異なる場合がある。そのため予測するのが難しいという点も厄介だったりするのだ。また彼女自身の身体能力も非常に高いこともありその強さを際立たせていた。そして現在も江夢沁は攻撃の手を緩めることなく畳み掛けてくるのだった……。
(くっ……やるなぁ!)
施訂再は内心舌を巻きつつも必死に対抗する。だが状況は好転しないまま徐々に追い込まれていく一方だった。
「どうしたの?施訂再!アンタの力はこの程度なの!?」
江夢沁は勝ち誇ったように叫ぶ。彼女は自信満々の表情で嘲笑を浮かべていて施訂再に対する侮蔑の念を隠そうともしない。しかし、彼はその挑発に乗らずに不敵な笑みを浮かべると反撃を開始したのである。今度は彼から仕掛けた。鋭い刺突を繰り出すが江夢沁は冷静に対処して弾き返す。続けて斬り上げを放つと彼女は身を翻して回避する。さらに斬撃を浴びせるが全て受け流されてしまう。施訂再の猛攻に対して彼女は防御に徹し続けるという構図になっていた。今度は力任せではなく冷静かつ的確に攻めるように心がけたのである。彼は袈裟斬りを繰り出した。江夢沁はそれを難なく躱して反撃に出る。今度は剣身に気を纏わせて斬撃を放ってきた。
(来た!)
施訂再は心の中で喝采をあげた。江夢沁の得意技である水蹴跳鯉が繰り出されたからだ。この技は水面から飛び上がる鯉の如く地を蹴って跳躍しながら攻撃するという動作が要となっており、それによって通常よりも遠くに飛び上がることが可能となるのだ。また着地の衝撃を利用して再度跳躍することが出来るため空中での機動性も向上しているといえるだろう。つまり跳躍中は無防備になってしまうものの高い位置からの斬撃が可能となるため非常に脅威的な技であることは確かなのだ。
だがそれだけではない。この技には他にも特徴がありその一つが斬りつけた際に生じる衝撃波である。これは剣身全体から放出される気によるもので斬撃と共に衝撃波を飛ばすことができるのである。これによって広範囲を攻撃することが可能となるため攻撃範囲が拡大されるのだ。施訂再は江夢沁が水蹴跳鯉を繰り出す際に生じる跳躍中の隙を突く作戦に出た。彼は一気に踏み込みながら江夢沁の死角に回り込むと同時に一気に刺突を放った。だが彼女は空中で体勢を整えながら体を捻ると同時に回転斬りを繰り出してきた。
(マズイ……避けられない!?)
施訂再は焦燥感に駆られたものの咄嵯に体を反らして致命傷を回避する。だが僅かながら衣服を裂かれてしまい血が滲んでいる箇所があった。一方で江夢沁は着地と同時にすぐに間合いを取って剣を構える。その瞳には勝利への執念が漲っていて一切の迷いが感じられなかった。
(夢沁お嬢さんは以前よりもずっと強くなっている……だが、諦めるわけにはいかない!)
彼は覚悟を決めると同時に反撃に出た。今度は連続斬りを繰り出すが江夢沁はそれらを全て見切って躱していく。そして今度は返す刀の如く斬り返してきた。その斬撃を辛うじて防いだものの彼女の攻勢は止まらない。
「どうしたの?これくらいで終わり?もっと楽しませなさいよ!」
挑発的に言い放つ江夢沁に対して施訂再は冷静さを維持したまま剣を振るう。しかし彼女の巧みな剣捌きの前に苦戦を強いられてしまいなかなか思うように攻められないでいた……。
(くそぅ!こっちが攻め込んでも全て読まれているみたいだぞ……)
施訂再は歯噛みをしつつもなんとか突破口を探ろうとする。そして一か八かの大博打に出ることを決意する。それは乾坤一擲を賭けて一撃で決めるというものだ。そのために必要なことは気を充溢させて極限まで高めることだった。彼は深呼吸を行いながら全身に気を行き渡らせると同時に一気に開放した。その瞬間……全身の細胞が活性化したかのような感覚を覚えたのである。その現象こそが気功操作による身体強化であり施訂再はそれを成功させたのだ。この状態になれば身体能力は格段に向上するのである。また集中力や反射神経なども高まるため敵の攻撃を見切ることも可能となりより有利に戦うことできるはずであった。その恩恵を受けることができれば彼女に対抗できるかもしれないという希望的観測に基づいて行動するほかなかったのだ。しかし肝心の江夢沁はというと平然としていて施訂再の気功操作を見抜いたかのような視線を向けていた。
「ようやく本気を出す気になったってわけね……まあいいわ!どこまでやれるか見せてもらおうじゃない!」
江夢沁は不敵な笑みを浮かべてそう言うと同時に一気に踏み込んだ。その速さに驚く施訂再だったが冷静に彼女の動きを見極めて反撃に出る。互いに剣を振るって斬撃を浴びせ合う中、優勢なのは意外にも江夢沁の方だった。彼女は華麗な足捌きと身軽さを生かした動きで施訂再を翻弄し的確に攻撃を繰り出していく。それに対して彼の方は防戦一方となっていたのだ。その様子を見て勝利を確信した江夢沁は勝負を決めようとこれまでとは異なる構えをとった。両手で柄を握り締めると重心を低く沈めていく。そして右足を前に出したかと思えば左足で地面を踏みしめて跳躍した。その瞬間……全身から迸る気が剣身に集まり濃密な力の奔流となって放射された。まさに渾身の一撃だといえるだろう。その凄まじい殺気に当てられて身震いする施訂再だったが恐怖心を振り払うように叫んだ。
「来いっ!江夢沁!!」
その言葉が合図だったかのように彼女は剣を振り下ろす。その斬撃はまさに龍が天を翔けるような勢いで迫ってきた。この技こそが江湖龍昇剣第七式『昇龍陽貫空』の型であり、江夢沁が会得した最高の技である。昇龍陽貫空とは昇る太陽の如き眩しい輝きとともに天高く舞い上がり、全てを斬り裂くような一撃を繰り出すという意味合いを持って名付けられている。またこの技は他の型と異なり斬撃の威力だけではなく命中時の破壊力も増幅させる効果があるため非常に強力なのである。ただし発動時に大量の気を消費するため使いどころを選ぶ必要があるというのが欠点だった。しかしそんな弱点をものともせずに果敢に挑戦しようとする江夢沁の姿がそこにあったのである。施訂再は全力で迎え撃つべく剣を構えると気を充溢させて限界を超えようとした。この時彼もまた渾身の一撃を放つべく剣を振り上げたのだった……。江夢沁の繰り出した昇龍陽貫空に対して施訂再もまた最後の賭けに出ることにしたのだ。彼は全身全霊を込めて剣を振るうとこれまで以上に気を高めた。その瞬間に全身の細胞が活性化し一気に膨れ上がるような感覚を覚えたのである。次の瞬間には全身が光に包まれており、まるで自分が太陽になったかのような錯覚を覚えるほどであった。そして江夢沁の剣が振り下ろされると同時に彼の剣も振り抜かれる。二つの剣が激しくぶつかり合ったことで凄まじい閃光と衝撃音が響き渡った。その衝撃で周囲の木々や地面が大きく抉れてしまったほどだ。
「うおおおおっ!!」
施訂再は咆哮を上げながら渾身の力を込めて剣を押し込む。だが江夢沁もまた一歩も引かずに押し返してきたのだ。
「うりゃああっ!!」
江夢沁の気合いの声と共に彼女の剣が振り下ろされる。その瞬間、施訂再の肉体に激痛が走った。同時に流血して彼の顔や衣服を赤く染め上げる。その様子を見た江夢沁は勝利を確信して笑みを浮かべたのだ……。だが次の瞬間には彼女は信じられないといった表情を浮かべていた。なぜなら彼の姿が忽然と消えてしまったからである……
「な、何が起きたっていうの……?」
江夢沁は呆然と立ち尽くしていた。そんな彼女の死角から鋭い斬撃が繰り出される。慌てて構えを解いて斬撃を防ぐが完全に捉えることはできなかったようで、思わず剣を落としそうになるも体制を整える。
(な、なんなの……?いきなり訂再の姿が消えたと思ったら突然死角から攻撃が飛んでくるなんて。それになんだろう?アイツの動きが妙に速い気がする)
江夢沁は施訂再のあまりの変わりように戸惑っていた。だがすぐに思考を切り替えて冷静になると改めて相手の動きを観察し始めた……するとどうだろう?施訂再は気功操作によって高速移動をしているようだったのだ。彼は残像を伴いながら凄まじい速度で駆け回ると同時に幾度となく斬撃を浴びせてくる。その速度はとても人間の出せる範疇を超えておりまるで雷のように俊敏に動くことさえ可能だったのである……。その動きを追うのに精一杯となった江夢沁は気が動転してしまう。これぞ施訂再の四象剣・絶技『羅象気転』が真価を発揮する瞬間であった。これは軽身功がもたらす超高速移動によって残像を作り出すと同時に相手の認識を惑わせる技である。この技を駆使して戦うことにより敵の意表をつくことができるのだ。また施訂再自身の剣術の腕も相まって繰り出される剣の威力は非常に強力であり並大抵の相手では
太刀打ちできないほどであった。
江夢沁は必死に防戦するが、それでも押されてしまうほど彼の攻撃が激しくなっていた……そして遂に彼女の防御が崩れた瞬間を狙って渾身の一撃を叩き込むべく大きく振りかぶったのである。その一閃により、江夢沁が持っていた剣は弾き飛ばされて地面を転がった。同時に彼女自身も尻もちをついてしまう。勝敗は決したといっていいだろう。
「勝負ありだな。夢沁お嬢さん……俺の勝ちだ」
そう言って施訂再は剣を納める。
「ちょっとぉ!何よ今の技、分身したり姿を消したり……卑怯じゃない!」
江夢沁は素早く立ち上がって不服そうな態度を示す。
施訂再は勝利を収めたことに安堵していた。だが江夢沁は納得していない様子で不貞腐れている。
(まあ、今はこうするしかないけどな……)
心の中で呟きつつも目の前の少女に向き合った。
「ところで……夢沁お嬢さん。最初に勝ったら何でも言うことを聞いてくれると言っていたけど、本当かい?」
「うっ……!わ、わかってるわよ……」
江夢沁は少し恥ずかしそうにしながらも頷いた。それを見た施訂再は微笑を浮かべるとゆっくりと彼女に向かって歩いて行く。そして江夢沁に向かって言った。
「それじゃあ、機嫌を治して仲直りしてくれ。もう喧嘩はたくさんだ」
そう言って差し伸べられた右手を見て戸惑う江夢沁。しかしすぐにハッとした表情になった後で俯く。どうやら思い悩んでいる様子だ……。
「……わかったわ……」
小さな声で返事をする彼女を見てホッと胸を撫で下ろす施訂再だった。そして2人は握手を交わしたのであった。




