第八章
江夢沁との一触即発の状態を回避できたことを喜ぶ施訂再であったが今度は別の問題が持ち上がることになるのだった。それは江夢沁が施訂再を異性として意識し始めたことである。これまで彼女は施訂再のことを異性として意識することはなく、父親の客人の一人として接していた。だが今回の一件で彼のことを異性として意識するようになり、更に強く惹かれるようになっていくことになるのだった。それでも彼女は自分を負かした相手に好意を抱くというのも何か癪だったので強がりながら接してしまう。
それが逆に仇となってしまい余計に悪循環に陥ってしまうのだが本人はそのことに全く気付いていないようであった。
(何よ、由莉さんと一緒にいた時はあんなに鼻の下を伸ばしてたくせに!やっぱりアイツって女たらしなんじゃない?)
心の中で悪態をついてしまう江夢沁だったが施訂再に対する興味はどんどん高まっていくばかりだった。しかし自分の感情を認めたくないという気持ちもあり複雑な心境であった……。
そういったすれ違いが重なっていき、業を煮やした江夢沁は仮病を使って自分が昏睡状態になったという嘘の手紙で施訂再を呼び出して一泡吹かせてやろうと企んだのだが、彼に仮病であることを見抜かれた上に父親と親交のある荒河の武芸者たちが次々と見舞いの品を進呈しようと龍登山荘へと押し寄せて来たばかりか、江湖龍昇剣の奥義書と家宝の龍臨剣を狙う脅迫状まで届いたうえに大秦覇蛇館の問題児である秦然忠までやってきたものだから事態はますます悪化することになる。
施訂再としては秦然忠は会いたくもない相手だったために、うんざりした様子で応対する羽目になった。秀斗町での一件から既に一年と半年が経過していたが、この一年半の間施訂再は秦然忠に姉に近づく不定の輩と目をつけられて旅先で幾度となく刃を交えることになり、何度も苦労に見舞われたものであった。そんな秦然忠との再会に施訂再は頭を抱えたくなる思いを堪えて平静を装いつつも警戒を怠らないように注意する。秦然忠の方は施訂再の姿を見るなり憤怒の形相で睨み付けてきた。その様子はまるで獲物を見つけた肉食獣のようであり獰猛さを感じさせる。施訂再は思わず身構えてしまうほどであった。
(まったく……こんな奴と戦うと頭痛がしてくる……)
そう思いながらも施訂再は臨戦態勢に入る。この男を野放しにしておくわけにはいかないと思ったからだ。何故ならこの秦然忠という男は人の話を聞かない上に短気なところがあるので何かにつけて突っかかってくることが多い。今回のこともその例に漏れずいつもの如く難癖をつけてきてこちらのことを挑発してくる始末だ。
「ふんっ!いい度胸をしているではないか!この私を誰だと思っている?」
偉そうに言い放つ秦然忠に対して施訂再は冷静に言い返す。
「俺には関係ないことだ」
冷淡な態度を見せる彼に腹を立てたのか秦然忠は怒りに任せて腰に差していた鞘から長剣を抜き放った。それは彼の生家がある霊峰白蛇山の麓の町に住む鍛冶屋に大金はたいて特注で造らせた名剣、『鋼黒蛇乱』であった。鋼黒蛇乱は白銀でできた柄と鍔を持ち、剣身は黒鉄でできていて表面には鱗模様の装飾が施されているのが特徴的な美しい長剣であった。その剣身からは禍々しい気が漂ってきて見る者の本能的な恐怖心を煽ってくる効果を持つといわれている代物だ。この剣こそが大秦覇蛇館最凶の問題児と呼ばれた秦然忠が愛用している武器だったのである。
そして秦然忠は鋼黒蛇乱を振り回しながら叫んだ。
「貴様に勝ったら、江夢沁に結婚を申し込む!覚悟しろ!!」
(こいつ……まぁだ夢沁お嬢さんのことを諦めてないのか?本当にしつこい奴だな……)
そう思いつつも施訂再はため息混じりに答えるしかない。そんな時だった。彼の視界に見覚えのある顔が映り込んで来る。それはなんと、自分に江夢沁が病気に罹ったことを知らせに来た江才覚の使者を名乗っていたあの中年の男だった。彼は施訂再と共に龍登山荘を訪れると突然姿を消してしまい、そのまま消息不明になっていたのだがどういう訳か今ここに現れたのである。
(あ、あの人は……!どうして今になって姿を表したんだ……?)
施訂再は好き勝手喚いている秦然忠のことは無視して突然姿を表した中年の男に注目した。
彼の服装は最初に会った時とは異なり、使用人風の装束から武芸者が着用するような武道着に着替えていて特に目立った特徴はなく宴席での料理に舌鼓を打っている武芸者たちの中に違和感なく溶け込んでいた。彼自身も手に箸と皿を持ちながら皿に盛り付けられた牛肉とチンゲン菜の炒めものを箸で悠々とした素早い手付きで料理を口に運んでいた。
その箸捌きは素人とは思えないほど洗練されていて、傍目に見ていても滑らかで見惚れるほど美しく完成された物であった。
(いったい何なんだ?あの男は……?)
施訂再の困惑した様子を察したのかそれとも単純に無礼だと思ったのかわからないが秦然忠は苛立ちを露わにして吠える。
「おい!聞いているのか!?私を無視するつもりか!?」]
秦然忠は鋼黒蛇乱を振り回しながら怒鳴る。その騒ぎに周囲の武芸者たちは何事かと思って注目し始める。施訂再は面倒なことになる前に早急に決着をつけようと判断した。
「秦然忠、勝負は預けた!」
声を発すると同時に施訂再は軽身功を使うと、秦然忠をその場に残して彼の左側を風のような速さで通り過ぎてから宴席で食事を楽しんでいる武芸者たちの脇を駆け抜けていき、あの中年の男に接近しようとしたが彼はこちらの動きを察知したのか、皿に盛り付けられた料理を食べ終えると同時に手に持っていた箸と皿を食卓に置いて軽やかな足取りで宴席を出ていこうとした。施訂再はそれを追いかけようとしたが目の前を何かが横切っていく。
それは秦然忠の姿を借りた幻影だった。しかもただの幻ではなく質量を伴った実体のある幻である。まるで生きている人間と見紛うほど精巧な出来映えだ。これこそ秦然忠が施訂再を倒すために恥を忍んで生家の大秦覇蛇館の当主である父親の部屋から盗み出した奥義書から得た秘法・影人神功である。影人神功は自分の分身を創り出すことのできる特殊な気功なのだ。この技を使えば他人の目を欺くこともできるし何より不意をつくことも容易いので非常に役立つ便利な気功法であるといえるだろう。だが今の施訂再には目の前の幻影などどうでもよかった。彼は幻影の秦然忠を無視して駆け抜けたが突如として背中に衝撃が走った。咄嗟に振り返るとそこには鋼黒蛇乱を構えてニヤリと笑う本物の秦然忠が立っていたのである。
「逃がすかぁーっ!!」
秦然忠は雄叫びを上げながら襲いかかる。施訂再は舌打ちをして後方に跳ぶことで回避するがすぐさま追撃が仕掛けられる。彼は紙一重で避けると距離を取りながら剣を構えた。
(まったく……!こんな時に面倒な奴め)
内心で毒づきつつも臨戦体勢に入るふりをすると、剣を抜く真似をして素早く右手の人差し指と中指を揃えて秦然忠の左腕を突いた。すると彼の左腕に力が入らなくなり、手にした鋼黒蛇乱を落としそうになる。
「な……んだと……施訂再、貴様……!点穴法を……!?」
施訂再は秦然忠の問いには答えず、今度は左手の人差し指と中指を揃えて秦然忠の右膝を突いた。同時に彼の右足に力が入らなくなり、床に膝を突いてしまった。
秦然忠は施訂再の指で突いた箇所を一時的に麻痺させる点穴法により行動できなくなり、悔しさと痛みに顔を歪ませて怒鳴る。
「小癪な真似をするなぁああっ!!」
だが施訂再は冷たい眼差しを向けながら言い放つ。
「悪いけど、俺はお前みたいな奴と遊んでいる暇はないんでな」
そう言って彼は踵を返すと走り去ってしまったのだ。その背中に向かって秦然忠は怒りに任せた罵詈雑言を浴びせるがすでに施訂再は興味を失っていた。その後も秦然忠は大声で騒ぎ続けていたが誰も相手にせずやがて静かになったらしい……。だが今はそんなことを気にしている場合ではなかった。一刻も早くあの謎の中年男の正体を突き止めなければならないからである。彼は宴席を飛び出すと屋敷の中を駆け巡る。幸いにも屋敷内には見張り役の者などがいないため比較的自由に動けるのが救いではあったものの、時間が限られている以上迅速に行動しなくてはならなかった。しばらくしてあの中年男が屋敷の中庭で夜空を見上げている姿を見つけ、施訂再は彼の前に姿を現した。
「ようやく追い付いた……あんた、いったい何者なんだ?」
施訂再の問いに中年男は苦笑すると微笑んで答える。
「ほう……見つかってしまいましたか……さすがは施訂再殿だ。私のことを察知するとは……なかなかやりますね……」
そう言って中年男は施訂再に向かって自己紹介を始めた。
「お初にお目にかかります。私の名は……方虚空と名乗っておきましょうか。以後お見知り置きを……」
そう言って頭を下げる方虚空に施訂再は訝しげに尋ねる
。
「……あんたは一体何者なんだ?江大人の使者を名乗っていたが……本当は違うんだろう?」
施訂再の言葉に方虚空はニヤリと笑みを浮かべる。まるで面白い冗談でも聞いたかのような反応を見せた。そして彼は言葉を続けたのである。
「なるほど……確かに私は江才覚殿の使者ではありません。嘘をついて申し訳ありませんが、なにしろ怪盗という生業ゆえ仕方ないのです」
「怪盗だと……?いや、待て……方虚空……化姿空蝉の異名を持つ変幻自在で神出鬼没な盗賊の噂話を小耳に挟んだことがある。まさかアンタがそうだとは……」
施訂再がそう言うと方虚空は愉快そうに笑い声を上げる。
「ほぅ……私のことをご存じでしたか。これは驚きましたね」
「……あんたが盗賊の類だったとはな。それで……江大人に脅迫状を送りつけて混乱させた上で江家の武術の奥義書や秘宝を盗もうと考えているってことか?」
施訂再が問うと方虚空は首を横に振る。そして否定の言葉を述べた後に続きを語り始めた。
「いいえ違いますね。私が欲しいものは別にあるのですよ……今日は天下で味わえるのは十人いるかいないかと謳われている江大人の料理を十分堪能できましたので満足です……」
「なっ……!?」
施訂再が驚愕の表情を浮かべると彼はさらに言葉を続ける。
「まぁそういうことですのでご安心ください。ただし……あなたと江夢沁さんがどのような行動を起こすのか見せていただきましょう……。おっと、言い忘れましたがあの脅迫状を送りつけた犯人は龍登山荘に集まった武芸者たちの中にいます。さしずめ彼らの内の誰かが仕組んだのでしょう……」
「そんな話、信じられると思うのか!?あんたのような盗賊を信用する義理なんてないんだぞ!」
方虚空の言葉を聞いて施訂再は怒りをあらわにして詰め寄った。しかしそんな彼に対して方虚空は涼しい顔をしているだけだった……。
「施訂再殿……江家の人々にとっての幸福を望むなら江家に関わるのはやめたほうが良いでしょう……。私が知る限り江家と関わった多くの者は不幸に見舞われていますのでね……」
そう言って方虚空は立ち去ろうとするが施訂再はそれを許さない。彼は咄嗟に方虚空の腕を掴んだのだ。すると方虚空が体を揺らした途端に施訂再が掴んでいたのは方虚空が身につけていた着物だけだった。どういうわけか、着物と靴だけが残されていたのだ。それはまるで蝉が成虫になる際に抜け殻を残すかの如く……。そんな奇妙な光景を目の当たりにした施訂再は唖然としてしまった。施訂再が周囲を見回すと突然何者かが背後から声をかけてきた。
「施訂再殿。どうしたのですか?方虚空ならばここにいますよ」
その声を聞いた時、施訂再は違和感を覚えた。その口調からして話しかけてきたのは間違いなく方虚空のはずなのだが、その声が中年の男のものから若い男のような声色に変わっていて、慌てて振り向くとそこには今まで見たことのない若い男が立っていたのである……。その姿は袖の長い漢服に身を包んだ書生のようで容貌も端正だったため思わず見惚れてしまいそうになるほどの美青年だ。歳は二十代くらいだろうか……?身長は施訂再と同じ程度で細身ながらも引き締まった身体つきをしており髪型は総髪で纏められていて全体的に爽やかな印象を与えてくる。まさに眉目秀麗という言葉が似合いそうな青年と言えるだろう。しかし施訂再は何故か彼を見て強い不信感を抱いていた……なぜなら先程まで会話をしていたはずの方虚空が全く別の人物になっているのだ。これではまるで別人ではないかと思うほど変貌しておりどう考えても不自然すぎる。もしかすると目の前にいる男こそが本物の方虚空なのかもしれないと思い至った時である。施訂再は警戒心を剥き出しにして言い放った。
「その姿……一体どういうことだ?あんたは本当に方虚空なのか!?」
すると彼は悪戯っぽく笑って答えた。
「もちろんですよ。私は先程まであなたとお話していた方虚空です」
その言葉に嘘偽りは感じられず本心からそう言っているように見受けられるため恐らく本当に彼自身なのだろうと思われた。だがそれでも疑念は晴れないままだったので質問を投げかけることにする。
「あ……あんたは一体……?」
青年の姿をした方虚空は意味深な笑みを浮かべると施訂再にこう告げたのである……。
「言ったはずです。私は化姿空蝉の方虚空……どんな姿にも化けることが出来る怪盗だとね。年齢や背格好は勿論、性別すらも変えることができるのです。あなたの記憶にある情報さえあれば……」
そう言って彼は右手の人差し指と中指を立てて二度振って見せたあとで自分の額に軽く触れながら目を瞑る。すると次の瞬間には施訂再の目の前に一人の女性が立っていたのである。その女性はどこからどう見ても美女と言っても過言ではない容姿を持っており艶のある長い黒髪は背中に流していて服装もそれに合わせてか黒を基調とした漢服を着用しているなどまさに完璧なまでに美しい女性像といったところであろうか。また女性らしい柔らかさと儚さを感じさせる雰囲気も併せ持っており見る者全てを魅了するような魅力を放っていたのである。そのあまりの美しさに施訂再も思わず息を呑んでしまったほどだった……。
「ふふっ、施訂再様、この姿はいかがでしょう?」
そう言って笑う女性に施訂再は呆然としていた……。
(なんてことだ……これは幻覚なんかじゃない。間違いなく彼女は実在する人間だ。ということはつまり……あの男の方虚空は本当に他人に変装することが可能なのだという証拠になる……)
「ふふ……施訂再様ったら固まっちゃって……。可愛らしいところもあるんですね♪」
そう言って微笑む方虚空は可憐な乙女のように見える。これがあの中年の男や若い書生の姿をしていた方虚空と同じ存在だと思うと信じられない気持ちにもなってくるのだが現実は非情だった。目の前にいる女性こそが方虚空なのだという確信があったからである。しかし同時に妙な感覚に襲われる。それはまるで自分の中に眠っていた何かを呼び覚まされるような不思議な感覚であった……。
「方虚空……さん……もしもあんたが俺を騙しているのではないとしたら一つお願いしたいことがあるんだけど……」
施訂再がそう言うと彼女は首を傾げて尋ねてきた。
「はい、なんでしょうか?」
その言葉を聞いて施訂再は覚悟を決めると口を開いた。
「もし……もし、本当にどんな姿に姿を変えられるんだったら……夢沁お嬢さんに化けてみてくれないか?俺は彼女と色々あって……彼女のことを憎んでいないわけではないが……やはり気になるんだ……」
すると方虚空は妖しく微笑んでゆっくりと歩きながら近づいてきて彼の正面に立つと両手を伸ばして優しく頬を撫で回してきたではないか。突然の行動に戸惑う施訂再だったが抵抗することができずにされるがままになってしまう。彼女は蕩けるような甘い吐息とともに囁くように言った。
「分かりました……。施訂再様のお願いなら喜んで承りますよ♪」
そう言って彼女は両手を離すと背中を向けて歩き始めることしばし。やがて数メートルほど離れて止まり一回転した瞬間には全く異なる姿へと変身していたのである……。
その姿を見て施訂再は思わず驚きの声を上げてしまった。何しろそこに立っていたのは紛れもなく江夢沁だったのである。ただし普段よりもかなり露出の多い踊り子のような衣装を身につけており肌の多くを晒
している状態ではあったが間違いなく本人だと断定できるほどそっくりだったのだ……。
「どうかしら?気にいってもらえて?」
そう言って微笑む江夢沁(方虚空)の姿を見た瞬間に施訂再の心は激しく動揺した。それは親しい女性のあられもない姿を初めて目にした時の少年の気持ちに近いものがあり、彼女の魅力に抗うことができずに惹かれていってしまう自分がいた……。
(凄い……これが本当に方虚空なのか……?こんなに完璧に夢沁お嬢さんに化けられるなんて……信じられない……)
そう思う一方で施訂再の心は罪悪感で一杯になっていた。友人と瓜二つの容姿をした相手に対して邪な感情を抱いてしまうことが許せなかったのである……。
(しかし……なんで裸みたいな格好なんだ……?方虚空の奴め……!)
施訂再は顔を真っ赤にしながら心の中で悪態をついたがそんな彼のことなど全く気にしない様子で方虚空はさらに大胆な行動に出た。突然方虚空は踊るような素早い動きで施訂再に接近すると、細い華奢な両腕を彼の首に回して抱きついてきたのだ……!そして潤んだ瞳で見つめながら甘い声で囁いたのである……。
「施訂再様……私と二人きりになりたくありませんか……?」
その言葉に施訂再はビクッと身体を震わせてしまう。だが方虚空は構わず続ける。
「ここじゃあ、誰かに邪魔されちゃうかもしれませんし……二人きりになれそうな場所に行きませんか?
誰にも邪魔されないところです……」
その提案に施訂再はどうするべきか迷う。方虚空の目的が何なのか分からない以上安易に行動することはできないからだ……。しかし誘惑に負けそうになる自分もいて葛藤してしまう。そんな心情を見透かしているかのように方虚空はさらに畳み掛けるように誘惑してくる……。
「遠慮することはありませんよ?あなたのためを思って提案してるんですから……。それに……私のこと嫌いですか?」
そう言いながら方虚空は少し寂しげな表情を浮かべた。それが演技なのか本音なのかは分からないが施訂再にとっては効果絶大だった。気が付けば口から言葉が出ていたのである……。
「い、いや、待ってくれ……夢沁お嬢さん、じゃない……方虚空、あんたの変化の術は凄いってことは十分にわかったよ。それで……自分からお願いしておいて申し訳ないんだが、その、また書生の姿に戻ってもらえるか?さすがにその姿だと色々とやりにくいからさ……」
その言葉を聞いて方虚空は一瞬驚いたような表情を浮かべたがすぐに納得したように頷くと施訂再の耳元に顔を寄せて囁くように言った。
「ふふっ……わかりました。でも本当に良いんですか?この機会を逃しても……」
その言葉にドキッとしてしまうが施訂再は我慢した。ここで屈すれば確実に後悔することになると直感的に理解していたからである。だからこそ毅然とした態度で拒否の意思を示す必要があると思ったのだ……。施訂再の必死な様子を見てか方虚空はそれ以上は何も言わずゆっくりと離れていった。そしてそのまま数歩下がると今度は書生風の青年へと姿を変えたのである……。
「どうも失礼しました。施訂再殿……では改めて本題に入らせていただきますね」
そう言うと彼は真面目な顔つきになり咳払いをした後で話し始めた。
「さて、まず一つ確認しておきたいのですが……施訂再殿は江夢沁さんのことをどう思っていますか?」
唐突な質問に戸惑うものの施訂再は素直に答えることにする。
「えっと……正直よくわからないですね。確かに彼女のことは尊敬していますし恩義もあります。だけどそれ以上の感情はまだないというか……」
すると方虚空は楽しげに笑いながら言った。
「なるほど……御二人の関係は施訂再殿の言葉通り親しい友人同士といったところでしょうか。ですが、
あまり深入りしないほうがお互いのためかもしれませんよ」
その言葉に施訂再は少しムッとするものの冷静さを保ちながら質問する。
「どういう意味だ?」
すると方虚空は肩を竦めて答えた。
「まあまあ、落ち着いて下さい。今すぐ結論を出す必要はありません。私が言いたかったのは……江家と龍登山荘には秘密が多いということですよ」
「その秘密ってなんだ?それに、あんたはさっきも江家と関わった多くの者は不幸に見舞われていると言ってたな……あれはいったいどういう意味なんだ?」
施訂再が尋ねると方虚空は小さく溜息をつくと腕組みをして考え込むような仕草を見せてから言った。
「江大人の高祖父、江千水殿がかつて剣狼回天門の門弟であったことはご存知ですか?」
方虚空の問いかけに施訂再は度肝を抜かれた。
「江大人の高祖父が剣狼回天門の門弟だった……?それは本当なのか!?」
施訂再は思わず声を上げてしまう。江才覚の高祖父が剣狼回天門の門弟だったことは初耳であったし、江才覚自身もそのことを施訂再に話したことはなかったので驚くのも無理はなかったそして方虚空は続けてこう言ったのである。
「そうです……。江千水殿は幼少期に父母を亡くし天涯孤独の身となりながらも努力の末に剣狼回天門への入門を許されたのです……。それからは順調に出世街道を駆け上り最短で師範代補佐にまで昇進し将来有望な若手として名を馳せていました。しかしある日突然何の前触れもなく退門してしまい連絡も途絶えてしまいました。その後は故郷に戻り、そこで暮らしていたようです。江千水殿が剣狼回天門を離れた理由は不明ですが、もしかすると江湖龍昇剣の奥義書が関係しているのかもしれません……」
そこまで話して方虚空は一度言葉を区切ると再び話を続ける。
「風の噂に聞いた話では、江千水殿が退門したのは彼の師父の宋雲霞老師が持っていた江湖龍昇剣の奥義書を盗み出して我が物とするためだったというものです。そしてその後江千水殿は祖先によって設立された江家商会を継いだ後に商売で成功して莫大な富を得たうえで龍登山荘を建設し、江湖龍昇剣の奥義を一子相伝の剣法として継承していったのではないかと……私はそう推理しています」
方虚空の話を聞いて施訂再は江才覚が話していたことを思い出していた。
『……実は江湖龍昇剣の奥義書は曰くつきの代物なのです。大昔からその奥義書を巡って血で血を洗う殺し合いが起きたとか、その奥義書を得た者が荒河で名声を得られると言われておりまして……江湖龍昇剣の奥義書が世に出ると荒河と静湖の均衡が崩れてしまうと言われておりました。故に我が高祖父が師から奥義書を譲られてからここ、龍登山荘に厳重に封印をして一子相伝の剣法として代々受け継がれてきたのです』
(江の旦那の話が正しければ、彼の高祖父の江千水殿は宋雲霞老師から江湖龍昇剣の奥義書を譲られたものの、江湖龍昇剣の奥義書が世に出ると荒河と静湖の均衡が崩れるため、龍登山荘に厳重に封印して一子相伝の剣法として受け継いできたというわけか……。だがその事実は江家では禁忌とされていて江大人ですら詳しく知らない……だとすれば、もしかすると剣狼回天門の幹部達が江湖龍昇剣の奥義書を取り返そうとしたとしてもおかしくはない……」
そこまで考えて施訂再はハッとする。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!剣狼回天門が江湖龍昇剣の奥義書を江大人から奪おうとしている可能性があるって言うのか!?」
すると方虚空はニヤリと笑みを浮かべたあとで答える。
「おそらくその可能性は高いでしょうね……江才覚殿は先代の当主から江湖龍昇剣の奥義を授かる際、『江湖龍昇剣の奥義書について尋ねたり調べようとしてはならない。ただひたすらに江湖龍昇剣の奥義を磨き極めるように』と言い渡されていたといいます。江才覚殿が江湖龍昇剣の奥義を修得してしばらくしてから父である先代当主が急逝したことから江才覚殿が江家を継ぐことになった。それ以来江才覚殿は当主として江家の存続のために尽力してきたわけです……。それなのに江才覚殿が当主になってからは江家に災難続きだったみたいですね。江才覚殿のご息女である江夢沁殿は負けん気が強く活発なお嬢さんであったので女学校では毎日のように揉め事を起こしていました。そんな状況で江才覚殿も江夢沁殿に手を焼かされてたそうで……」
施訂再は方虚空の話を聞きながら思い出す。
(確か以前、夢沁お嬢さんと初めて会ったときは彼女はまだ11歳だったけど……女学校で乱闘騒ぎを起こして退学処分になりかけたことが何度かあったって聞いたことがあるな……)
施訂再が昔のことを思い出していると方虚空は続けて言った。
「まあ……その話は置いておくとして……次は江家と龍登山荘についてお話ししましょうか。そもそも江家は江千水殿の祖先によって設立された商家でしたが、彼の代には既に没落しており没落貴族のような状態でした。しかしそんな状況にもかかわらず江千水殿は野心を持ち、商売で成功しようと意欲を燃やしていたそうです。そのためには商人としての才覚が必要不可欠だったのでしょう……そこで江千水殿は江湖龍昇剣の奥義を極めるために修行を積み重ねていき、ついには江湖龍昇剣を完成させたのです。その成果として彼は商売で大成功を収めて莫大な富を得ることができました。そしてその財力を利用して龍登山荘を建設して一子相伝の剣法として江湖龍昇剣を受け継いでいったというわけです……しかし問題はその後起こりました……」
方虚空が深刻そうな表情を浮かべると施訂再も緊張する。すると方虚空は溜息を一つ吐いてから話し始めた。
「江千水殿は江湖龍昇剣を極める際に内臓の各部を痛めてしまい、その影響で病死してしまったのです。その結果、彼が築き上げた莫大な財産は全て彼の息子に相続されることとなりました。そして江家はその財力をもとに様々な事業に着手していきました。そんな中で江家にとって大きな転換点となった事件がありました……。江才覚殿の妻であり、江夢沁殿の母親である包雪貞夫人が妊娠した時に悲劇が起きてしまいます……出産に際して彼女は難産となり命を落としてしまったのです。その遺児こそが江夢沁殿。彼女は夫人の命と引き換えに生を受けたことで生まれながらにして業を背負わされているようなものでした。そのためか江夢沁殿の性格は非常に気難しいものになってしまい周囲の人間との衝突が絶えず揉め事を引き起こすことばかりだったようです。江才覚殿も愛娘の扱いに困っていたそうですが、江夢沁殿のことを溺愛しており溺愛するあまり甘やかした結果、彼女はますます傲慢に成長し、女学校に通っていた頃には毎日のように揉め事を起こして教師を困らせていたといいます。しかし、江夢沁殿はそんな周囲の事情など意に介さず自分の思うがままに振る舞い続けました。その結果、多くの人々から反感を買ってしまったのです……。そんな彼女が唯一心を許せる人物がいました。それが他ならぬ施訂再殿、あなたでした……だからこそ施訂再殿には注意していただきたいのです……。これから先あなたは江夢沁殿と深い関わりを持つことになるかもしれませんが決して深入りしてはいけませんよ……。あの御方は危険な存在ですからね……」
そう言って方虚空は真剣な眼差しを向けたのである。その瞳の奥に潜む威圧感に背筋がぞくりとする感覚を覚えつつも平静を装いながら施訂再は答えることにした。
「わかってる。俺は夢沁お嬢さんのことは大切に想っているけど恋愛感情とかそういう類のものは無いよ。それに……俺は夢沁お嬢さんが好き好んでご学友と揉め事を起こしていたわけじゃないって知ってるつもりだから。きっと彼女なりに悩みがあって苦しんでいたんだろうなって……だから余計なお世話かもしれないけど夢沁お嬢さんの力になりたいと思ってる。今はまだ無理かもしれないけれどいつか彼女を支えられるような立派な人間にならないとって思ってるんだ」
その言葉に方虚空は満足げに微笑むと頷いた。
「そうですか……施訂再殿がそこまで言うのでしたらもう何も言いませんよ。ただ……あまり夢中になりすぎないようにしてくださいね?」
そして方虚空は踵を返すと暗闇に向かって歩き始める。施訂再はその背中に向かって叫ぶ。
「おい待ってくれ!最後に一つ聞かせてくれないか?」
その声に反応して立ち止まった方虚空は振り向きざまに答えた。
「何でしょう?」
施訂再は一瞬躊躇った後で意を決して訊ねる。
「あんたの目的は何なんだ?なんでここまで教えてくれたんだ?まさか善意だけで教えてくれたわけじゃないだろう?」
施訂再の問いかけに対し方虚空は笑うと言った。
「さぁ、それは教えられませんね……。私はあなたの敵でも味方でもないのですから……」
そう言い残して方虚空は闇の中へ消えていくのであった。一人残された施訂再は途方に暮れたような気分になる。そして同時に思ったことがあった。
(そうだ……こんなところで考え込んでいても仕方がない。とにかくまずは夢沁お嬢さんに会ってみないと……。そうすれば何か分かるはず……)
一方その頃、江夢沁はもう夜になってしまったために仮病を装っていたにもかかわらず空腹を感じたので使用人の少女、小蓮に食事を持って来るようにと命じたのだが、彼女がなかなか戻って来なかったことからイライラしていると廊下を歩いてくる足音が聞こえたために思わず寝台から起き上がる。
(小蓮が戻ってきたのかしら?でも足音の大きさからして廊下を歩いているのは男の人のような気もするし……あっ、さては訂再の奴がまた私をからかいに来たのね……!いい度胸だわ!今度こそあいつに目にもの見せてやる!!)
すると江夢沁は再び布団の中に潜り込むと枕の下に隠していた木剣を握りしめながら廊下を歩いている人物が彼女の部屋の中へと入ってくるのを呼吸を整えながら今か今かと待ち受ける。そしてついに部屋の扉が開かれる音が聞こえると江夢沁は緊張しながらも部屋の中へと侵入した人物が自身の間合いに入ってくるまでじっと呼吸を整えつつ機会を伺った。
部屋の中へと侵入した人物はゆっくりと江夢沁が寝たフリをしている寝台へと距離を詰めていく。そして寝台へ近づいた次の瞬間、江夢沁は布団を弾き飛ばして両手で木剣を構えながら空中へ飛び上がったのだ!




