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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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なにもできなくて

挿絵(By みてみん)

誰かに頬を叩かれ、私は目を覚ました。

目の前では、さっきよりも多くのかがり火が辺り一面を赤く染めていた。

長い石畳の参道を照らす灯篭の灯りが、夜気を裂くように揺れている。

蝋燭の明かりはどこか生臭く、かがり火は赤黒い炎を吐き出し、神聖さよりも不気味な血の気配を漂わせていた。

いつの間にか私は社殿の前で囚われの身となり、冷たい石の台座に寄りかかっていた。上着の肩口は乱れ、肌寒い夜気に晒されるたびに儀式の香が鼻を刺し、不安が渦巻いた。

玲美は私の隣に立ち、ほんの一瞬、ためらうような影をその瞳に宿していた。

けれどその後すぐに、また真剣な表情に戻る。

玲美は私に何かを言いかけては飲み込み、そして決意を固めたかのように唇を噛み締めた。

そのとき、正面で足音が響き、人影が揺れた。

かがり火に照らされ、少しずつその姿がはっきりしていく。

「諒くん!」

「文菜!」

声が重なり合い、一瞬だけ私たちは互いに安堵を覚えた。

しかし、そんな余裕は一瞬で消え失せた。

「さすがこの娘が大事と見える」

薄ら笑いを浮かべた洋一が嘲笑う。

「離せ……」

「君に何ができる?」

ドサッ、慎哉の体が放り出された。

「……へへ、無事ならいい」

慎哉は私の方に僅かに顔を上げ、微かに笑うと地面に突っ伏した。

「慎哉さん……」

傍らで呻き声をあげる慎哉に、駆け寄る余裕すら与えられない。

「邪魔者はいない。始めよう。我らが祭主を蘇らせる」

男たちは諒を囲み、宗顕が低く呟き始める。

「ラハガマカタ……ニクツカナ……」

ざらついた声が耳朶を打ち、周囲の男たちもその呪文をなぞるように続けた。

「ルテニク……ルテマア……」

低くざらついた低音が木霊し、重くのしかかる。

次第にその詠唱は、獣の呻きのように大地を揺らし、頭蓋を震わせ、体の隅々にまで嫌悪感が広がっていく。

かがり火が風に煽られて赤黒く揺らめき、血のような匂いを醸し出す。

恐怖が私の背筋を撫でる。

両手で耳を塞ぐ。

「いや……」

思わず声が洩れるが、詠唱は止まらない。

むしろ声は増殖し、私の意識を飲み込む。

「イェヒ・オール……」

耳を塞いでいても容赦なく鼓膜に、いや直接脳に響いてくるようだった。

まるで冥界の門が開かれるかのように、詠唱が空気を切り裂き、夜気に溶けていく。

そのとき、諒の鞄から光が洩れ出した。

鞄から弾け飛び出した御朱印帳が地面に落ち、ページがパラパラと捲られると同時に淡い光を放ちはじめた。

その二つの光が諒を包み込む。

「ほう、そのような小細工を施す者がおるとは……」

宗顕の声が響き、詠唱はさらに激しさを増す。

地響きのように空気が震える。

「ナアセ・アダム・ベツァルメーヌ……」

声はさっきよりも太く、まるで大地そのものが呻いているようだ。

耳鳴りが止まらない。

体の中で何かが裂けるような感覚がした。

「文菜……今行くっ」

諒が私を呼ぶ声がかすれる。

「やめて……やめてよ……!」

私の叫びも虚しく、詠唱は止まらない。

そして――

カンッ――何かが鳴る音と同時に、詠唱はさらに激しさを増した。そして――パチン、という何かが弾ける乾いた音とともに、鞄の中の光が消えうせ、御朱印帳が青白い火花を散らし、燃え上がり、諒を包んでいた淡い光が弾けて消えた。

すると、諒は頭と胸を抑え、呻き声を上げ、苦しみ始めた。

「……文菜は助けてくれ。狙いは俺だろ、離せ……」

ふらつきながら、少しずつ私の方へと歩み寄る。

そして膝をついた。

「離して!」

玲美の手を振りほどき、私は諒の傍へ駆け寄る。

「逃げろ……」

崩れ落ちそうな諒を、私はしっかり抱きしめる。

「いやだよ……もう、離れない、ずっと、一緒にいるんだもん……」

その一瞬、諒は微かに笑った気がした。だが、すぐにまた苦しみ始める。

諒の匂い、温度、鼓動、息遣い。

この温もりを感じるのが、ずいぶん昔のことのように思えてしまう。

「諒くん、諒くん!」

もだえ苦しみ、倒れかける諒の体を支えながら、私は必死にその名を呼ぶ。

「諒くん!……お願い、もうやめて!」

悲痛な叫びにも、詠唱は止まらない。

諒の顔は苦痛に歪み、足でもがいている。

「うわあああ!」

一瞬目を見開いたかと思うと、けたたましい絶叫を上げた。

その声は人間のものとは思えないほど低く、獣の咆哮のようで、夜空を裂いて響き渡る。

「ニシュマット・ハイイーム!」

空間を埋め尽くしていた詠唱が止んだ。

そして、諒は体を震わせながら、膝をつき、胸を押さえる。

「離して……文菜は……関係ない……」

言葉の端が濁り、声色が変わる。

息を呑んだ瞬間――

諒がスーッと顔を上げた。

瞳の奥が暗い炎のように揺れ、どこか別の何かがそこに宿っている。

「……諒くん……?」

「ふぅ……」

低く吐息をつくと、諒の口元がゆっくりと笑みに歪んだ。

その笑みは諒のものじゃない――

どこか威圧的で、冷たく、底知れないほど無感情。

「文菜……」

口からこぼれた響きは、諒の声を模しているだけの空疎なもの。

そして、頬を引き上げてニヤリと笑うその仕草は、まるで諒の皮を被った何かが嗤っているみたいだった。

舌で唇を舐め、私を好奇な視線でなぞる。

ゾクッとして身を逸らす。

すると、諒は私に手を差し出した。

何か異様な感覚に胸元にある手を伸ばせないでいると。

諒はためらいもなく私を抱きかかえた。

ハッとして顔を見上げる諒は黙って目を見据えたまま歩く。

その腕の中には、あのときの優しさも温もりもない。

ただ冷たく、重たく居心地が悪い。

そのまま、諒は私を祭壇のような台の上に寝かせると、境内のほうを鋭い目で睨み据えた。

その横顔は、もう私の知る諒ではなかった。

「羽代様……いや、祭主」

低く呟く声が社殿の奥から響く。

根元宗顕だ。

その背後には孫の順次が、影のように付き従っている。

黒い衣のようなものが諒の身体を覆い、瞳は闇の色に沈み、かつての優しさも、人間らしい温もりもそこにはなかった。

代わりに、祭主の器としての威厳と、氷のように冷徹で不快な気配が一帯を支配していた。

「全ての魂は我がもの——」

諒……いや祭主は両手を天に掲げ仰ぎ見る。

声は深く、社殿の柱や灯篭を震わせるほど響いた。

私の体の隅々にまで、雷鳴のように響き渡り、体が震える。

灯篭の炎が大きく揺らぎ、一瞬にして社殿全体が異様な熱気と狂気に満たされていくようだった。

「これが、祭主……」

宗顕が歓喜の声を上げる。

祭主の瞳がゆっくりと根元を捉え、その場にいる全てを見下ろすように動く。

存在自体から滲み出る威圧感。

私は視線を避けたくなる衝動に駆られた。

でも、身動きできずに、目を背けたくても、目を逸らすことができない。

「我が子らよ。王の器の前にひれ伏せ」

その声は祝詞のように響き渡り、根元も夜明も、玲美さえも足元を見つめて戸惑っていた。

まるでその声が頭の中を直接支配し、魂の奥底にまで染み込んでくるような錯覚。

「祭主様……この身を捧げます……!」

宗顕が狂気じみた声で叫ぶと、祭主の口元が冷たく歪む。

かすかに笑ったのだろうか。

それとも余裕だろうか。

「貴様らの魂など、塵芥に過ぎぬ。裏切り者よ」

その瞬間、祭主の足元の石畳から、黒い影が這い出す。

社殿全体が震え、かがり火が一斉に唸り声を上げたかのように爆ぜる。

根元と夜明が恐怖に目を見開き、後退ろうとする。

しかし祭主は動かず、その視線だけで彼らの動きを封じる。

「王たる我に背く……か」

声が鋭く冷たい。

夜明友一が震えながら一歩引いた。

その刹那――

闇が友一の足元から這い上がり、生き物のように首筋にまとわりつく。

「や、やめ……」

叫びも虚しく、黒い影は一瞬で友一を飲み込み、その場から消し去った。

「命も魂も、全ては我がもの。我に対する罪は償ってもらわねばならん」

祭主が、この世の支配者かのように宣言した。

社殿の炎がさらに激しく燃え上がり、私の顔に熱を運ぶ。

次に、根元宗顕と順次に向かって影が伸びる。

宗顕は呆然と立ちすくみ、順次は必死で逃げようとしたが、あっという間に影に飲み込まれた。

取り残された夜明洋一と玲美は動けずにいる。

「……文菜」

その声だけが、かつての優しさを取り戻したように聞こえて、縋りつきそうになった。

ただ次の瞬間には現実が迫ってきた。

「お前の魂さえも、余の器となる」

瞳は深い闇の中に紅い光を孕み、獣のように鋭い。

その口元には、人のものではない薄笑いが浮かんでいた。

あの優しかった諒の面影すら、もはや一欠けらもない。

かがり火がパチッ、パチッと音を立て、火の粉が夜気の中で舞う。

湿った土の匂いと、燃えさかる炎の匂いが入り混じり、儀式の場を妖しく彩っていた。

「……諒くん」

私が振り絞って出した声は、震えたまま、夜の森の闇にかき消される。

頭上には、かがり火の揺らめきが影となって揺れる。

その炎が祭主の顔を、より一層、不気味に揺らし陰影を作る。

体を動かそうにも、金縛りのように動かない。

「お前こそ選ばれし器——」

祭主の声が低く、ズシン、ズシンと私の奥底を叩き、凍らせる。

声の響きだけで、息苦しくなり、震えが止まらない。

私は唇を噛み、必死に涙をこらえた。

「諒くん……」

掠れる声で抗おうとしたが、弱々しく風に散る。

祭主は私を目がけて、ゆっくりと歩み寄る。

自身の親指を口元に運び、鋭い歯で皮膚を食いちぎった。

赤黒い血が滴り、私の服を汚す。

鉄の匂いが、鼻を刺した。

「これが、我が血脈。神の血だ——」

骨の髄まで染み渡るような声。

祭主は血の滴る指を私の頬へ滑らせ、赤い軌跡を刻んだ。

熱く、ぬるりとした感触。

吐き気が込み上げる。

でも、目を逸らせない。

あの瞳が、私を深く貫いている。

「……いや……やめて……」

声にならない声が喉を震わせる。

届くはずのない願い。

私の額に、縦に一筋、そして横に一筋、祭主は血の指を這わせた。

ぞくりと背筋を走る冷たさと、肌の上を滑る熱。

恐怖と絶望が交錯して、目の前がかすれる。

次に、その血で私の唇をなぞる。

赤く、深く、口紅のように塗りこめる。

不敵な微笑みをたたえ、楽しんでいるようにさえ見える。

甘くない鉄の匂いが唇を満たす。

吐息が乱れ、涙が零れた。

「これで、神と人との契りが成されるのだ。さあ、余の魂を、この身に刻むのだ——」

その声があまりにも残酷で、瞳には冷たくも狂おしい光が宿り、胸が引き裂かれるようだった。

「諒くん…………お願い……」

やっとのおもいで、声を絞り出す。

返ってきたのは、影を纏った怪物の微笑みだった。

「余に捧げる贄として、その身も魂も我がものとなれ——」

耳元で囁かれるその声に、心の奥底が泣いた。

「やめて……」

声が闇に溶けていく。

周囲のかがり火がぼわっと音を立て一斉に爆ぜた。舞い散った火の粉が私に降り注ぐ。

境内の木々がざわめき、葉擦れの音が、やけに大きく耳に響く。

だめ……いやだ……

祈るように目を閉じた。

瞼の裏に、諒の優しかった面影が浮かぶ。

だけど、それはすぐに闇に沈んでいった。

息を吐こうとしたが、凍りついたように、吐息すら出ない。

バク、バク、と心臓の音だけが、耳鳴りのように響いている。

次の瞬間、祭主の指が私の首筋をなぞる。

ぬるりとした血の感触が、徐々に下へと動く。

鉄の匂いが鼻を刺す。

もう、だめ……

意識が遠のきそうになる。

その時――

微かに足音が近づいてくる。

「文菜さんッ!」

明智の声がした。

僅かに動いて見えた目の端、立ち込める炎の向こうから、明智、義兄、五月、見た事のない長髪の男性が駆け込んできた。

男性の長い黒髪が血煙と共に翻る。

「羽代! ここまでだ!」

「ふむ、山背の……日立か、封印師め、貴様も道を誤ったか……」

祭主は台座を降り、足を滑らせるように日立の前に立った。

血染めの掌を、天に掲げると、夜空が軋み、そこから黒い蛇のようなものが吹き出した。

地を這う怨霊、人体らしからぬ者たちが姿を現し、呻き声をあげる。

日立は目を細め、低く呪文を唱え始めた。

「いでよ、陽炎封陣!」

結界が張られ、霊たちは軋むような声をあげて弾き飛ばされる。

しかし祭主はその中でも揺らがず、次の瞬間、血の指先から紫電が走った。

日立は腕を交差させ受け止める。

火花が散り、紫電が四散する。

「ああ!」

玲美の声が割れた。

玲美はその場で動けず、何かに囚われたまま祈るように両手を握り締めていた。

祭主の周囲を取り巻く怨霊たちは、明智と義兄の拳により次々と切り払われていった。

だが彼らもまた血に染まり、肩や腕から鮮血を滴らせながらも必死にこっちへと駆け寄ろうとする。

五月が慎哉を抱き起こしていた。

「文菜さん、諦めるな!」

明智のたくましい声。

彼の拳は尚も怨霊の群れを切り裂いていたが、その背中に祭主の影が迫る。

「下僕が!!」

「明智さん!」

私は声を振り絞った。

その瞬間、祭主の手が明智の背を切り裂く。

赤黒い血が宙に散り、明智は呻き声をあげて崩れ落ちる。

ゆっくりと、まるでスローモーションのように、私を守るように腕を広げて。

声は出ない。

涙が出るだけ。

祭主は血塗られた手をゆっくりと私に向けた。

その目には狂気しかなく、ただ私を物としてしか見ていなかった。

「さあ、すべてを捧げよ」

祭主は呪文を唱え、どこからともなく湧いた呪縛の鎖が台座の上を蛇のように這い、私の体を絡め取り、冷たい感覚が足首から胸へと這い上がる。

「羽代よ! この場で封じる!」

日立が吼えた。

祭主は笑った。

「封じるだと? 余を?」

日立の詠唱が始まる。

空気が張り詰め、一瞬の静寂が空気を凍らせた。

穢れを払う様な清々しさを含んだ声が、先の嫌悪感を取り払っていくようだ。

そこに、祭主が詠唱を重ねる。

枝葉が騒めき、風が右に左にと行き交う。

熱さと冷たさが混じり合う奇妙な風が、髪を巻き上げた。

詠唱の声が時に大きく、時に小さく、行ったり来たり駆け巡る。

ぶわん、ぶわん……まるで空気がぶつかり合うように。

徐々に祭主の黒い影が日立を押していく。

寝ている私の髪が振り乱れ、その隙間から、日立を幾重もの黒い筋が竜巻のように取り巻いたのが見える。

「くっ……!」

日立は歯を食いしばり、血の気の失せた顔で祭主を睨み据える。

「ならば……!」

黒い影に纏わりつかれながらも、日立は整然と指先で印を切る。

祭主の波動がさらに膨れ上がり、結界を押しのけていく。

その隙を縫うように、日立は一瞬の気迫と共に祭主の懐へ飛び込んだ。

「封印――発動!魂響《たまゆら》の結《ゆい》」

祭主の胸元と額に日立の両手の指先が触れる。

日立の体が後光に包まれ、その掌から溢れ出した光は祭主をも包み込んでいく。

光は祭主の額と胸元へと収束して、パッと花火のように弾けた。

光線が四方に空気の振動と共に広がり、影が消え去る。

祭主の目が見開かれる。

だが次の瞬間、祭主の瞳が血のように赤く染まり、口角がゆがんだ。

「甘いわ!」

その声と共に、祭主の胸から禍々しい黒い波動が渦を巻いて噴き出した。

「ぐっ……あああっ!!」

日立の体が稲妻のように弾かれ、地面に叩きつけられる。

「やめて……」

私の声を嘲笑うように、祭主がゆらりとこちらに振り返る。

目には感情はなく、ただ冷たく、暗く、重たく、容赦なく私を見据えていた。

「次は……お前だ……ハハハ」

夜の森が震え、闇そのもののような声。

その時、祭主の胸が輝く、そして、血飛沫のように黒いものがそこから飛散した。

血を吐きながら、祭主の掌から闇が零れる。

祭主の背後で日立が振り絞る声を上げる。

「すまない……」

次の瞬間、黒い影が日立を飲み込んだ。

祭主は糸が切れた操り人形のように、ぐにゃっと台座に凭れるように倒れた。

私を拘束していた鎖も、結晶が砕けたように粉々になる。

「う、そ……」

私の視界は涙で滲み、祭主と日立の姿が闇に溶けたように見えた。

明智も義兄も倒れたまま動かない。

玲美と洋一は呆然と立ち尽くしている。

五月は慎哉のそばで座り込んでいた。

——その時、祭主の体が小さく痙攣した。

「文……菜……」

かすかに聞こえた声は、諒のものだった。

そして、ゆっくりと手を付いて起き上がる。

私を見て笑う。

次の瞬間、諒は膝から崩れ落ちた。

「諒くん!」

叫んだ瞬間には、台座から飛び降りた。

膝が砕けそうだったけれど、構わない。

「諒くん……!」

必死に諒を抱きかかええ膝の上に乗せる。

「え?」

諒の体温が思ったよりも冷たかった。

信じられなくて、でも、それでも大丈夫だよって、必死に心の中で言い聞かせた。

「諒くん……! ねえ、大丈夫……?」

何度も何度も声をかけた。

レンズがひび割れた眼鏡をそっと外す。

額にも、頬にも、血が滲んでいた。

諒は、まつ毛を震わせて、かすかに目を開けた。

その瞳に、確かに私が映っている。

「諒くん、わかる?」

やさしく頬を撫でた。

冷たくて、でも、温めてあげたくて。

諒は微かに頷く。

まつ毛が震え静かに瞬きをする。

口をパクパクさせて何かを言おうとしている、が声にならない。

でも私の名前を言おうとしているのが、口の形から分かった。

「……私は、ここにいるよ」

諒が小さく頷いた。

私はそっと諒の頭を撫でる。

諒は私の頬に手を伸ばし、その手が頬に触れた瞬間、ひやりとした。

でも、諒が笑った。

その笑顔を見た瞬間、もう枯れたと思った涙が沸き起こる。

「思い出した……昔の事」

吐息みたいな途切れ途切れの声。

「わかったから……ね? 今は喋らないで。もう大丈夫だから……私が守るから……」

諒の目に涙が浮かんだ。

目尻から流れる滴を、私は震える指でそっと拭った。

「諒くん……?」

声がかすれて出ない。

でも、私は信じていた。絶対に大丈夫だって。

「……ああ、少し眠いだけ……」

その言葉が、どこか寂しげに聞こえて。

抱えている腕や腿に伝わる体温が、少しずつ冷たくなっていくのが怖かった。そんなはずないのに、諒がいなくなるなんて、考えられなかった。

「諒くん……」

私の手に、諒くんの大きな手が重なる。

その手は、炎の灯りでも分かるくらい、白かった。

だけど、握り返してくれる。

息を大きく吸い込んで、震える唇で諒は言った。

「……笑って……文菜の笑顔が……俺の救いだったから……」

その言葉を聞いた瞬間、胸が張り裂けそうだった。

涙で顔がくしゃくしゃになって、上手く笑えなかった。

笑いたいのに、涙が止まらない。

言葉なんて出てこない。

ただ必死で、諒を抱きしめた。

諒の手が私の頭にそっと添えられた。

私の体温を、諒に少しでも分けてあげたくて、必死で抱きしめる。

離さない、絶対に。

何があっても、諒を離さない。

そう心の中で、何度も何度も繰り返し叫んだ。

「諒くん……大丈夫、すぐに治るから。私が、私が守るから……」

だけど――。

諒の手が、私の髪を撫でるその手が、力なく地面にすっと落ちた。

「え……?」

私の腕に、ももに、諒の体が重く沈み込む。

「諒くん? 諒くん!」

どうして?

意味が分からない。

目を閉じているだけだよね?

そうだよね?

体を揺すって、頬を叩いて、何度も名前を呼ぶ。

だけど、何も返ってこない。

だって、ほんの少し前まで話してたのに、笑ってくれたのに。

いつの間にか起き上がっていた、義兄が傍に駆け寄り、片膝をついて「諒!」と声を張り上げ、頬をパン、パンと叩く。

それでも、反応はない。

「いやだよ……そんなの……ねえ、誰か……誰か、諒くんを助けてよ……お願いだよ……」

震える声が、夜の森にかすれて消えそうになる。

明智が足を引き摺りながら近づいて、諒の腕に手を当てて脈を探す。

懐中電灯で瞼を開き、瞳に光を当てる。

その顔が、力なく俯いた。

そして、その場にへたり込んだ。

玲美は少し離れた場所で、呆然とした目で何かを呟き続けている。

「くそっ!」

義兄が地面を、ドン、ドン、と何度も殴りつける音がやけに悲しく聞こえる。

「やだよ……諒くん……ねえ……嘘だよね……ずっと一緒にいるって……やっと……」

胸倉をつかんで揺する。

こんなのおかしいよ。

だって、これからだって約束してたのに。

もっと話したいことがあったのに。

「やだよ……」

諒の体の上に伏せて、声を押し殺すように泣いた。

もう、鼓動は聞こえない。

心の底からせりあがる、思い出だけじゃなくて、思い描いていたものがこみあげてきて――

呼吸が引きつる。

涙がとめどなく流れてくる。

「う……」

嗚咽に咽ぶ。

体が小刻みに震える。

心の中の想いが涙に変わりとりとめとなく流れる。

諒くん……どうして……

あの日のバス停、バスの中、図書室、教室、屋上、神社、……一昨日、昨日、今日――。

諒の笑顔、優しい声、手の温もり……

ずっと一緒にいるって言ったじゃない……。

もうなにも、分からなくなって、考えられなくなって、頭の中が真っ白になっていく。

ふいに、慎哉との会話が甦る。

――真名井家の祖先は、羽代酒祭の怨念を封じるために、その魂を捧げたんだ。

(……私の一族は、封印の一助となった)

――魂は共鳴し合う。本来、君と彼の魂は相容れないはずだった。

でも、恐らく彼が事故に遭った時、元の魂は眠り、別の魂が入ったんだ。

だから惹かれ合えたのかもしれないね――

(……どうすれば……どうすれば助けられるの?)

友美の声が囁く。

――ああ、この二人は出逢う運命なんだなって。好きだ、愛してるって言葉で言うのはもちろん大切。でも文菜と香取君って、それをもう分かった上で、もっと深い何かで繋がってる気がしてたんよ。――

そして、亜希の言葉も。

――ツインレイって元は一つの魂が二つに分かれて出来た、運命の魂の伴侶っていうんだ。

どうやったら……

鼻をすすりながら、空を見上げる。

プルプルと体は小刻みに震えて星達が揺れて見える。

「みなさん、私達のために、ありがとう……」

上を向いているのに涙はふつふつと沸いてくる。

ゆっくりと視線を落とす。

腕の中には眼鏡を掛けていない、ちょっと見慣れない諒の顔がある。

私は左手の薬指におさまっている指輪に触れる。

つるりとした翡翠の感触が指先を伝う。

そして諒の乱れた髪を整えるように頭をなでた。

そのまま、おでこから頬へと指でそっとなぞる。

「眠ってるみたい……」

指先でやさしく唇に触れる。

そこにかすかな温もりが残っていた。

諒の額に自分のおでこをそっと重ね、目を閉じる。

「……諒くん、大好きだよ……」

その唇に押し当てるようにキスをした。

……諒くん、私の魂を……吸って……

その瞬間、体の奥が熱くなる。

熱が急激に全身を駆け巡るように広がり、意識が遠のいていく――

お願い! 諒くんを助けて……お願い……愛してるよ……

溢れる涙と共に世界は白くなった。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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