帰省 二章
8月7日火曜日
ネオンサインと多くの人が溢れる新宿。
改札を抜けると巨大なバスターミナルが目に入る。
いつのまにか人々が創り出す雑踏の中を歩くのも上手くなった。
東京に出てきたばかりの頃は、よく人にぶつかり「すみませんが」口癖にだったのに、今では自然と人の流れを読んで歩ける。
時刻は20時になろうとしているのに、まだむせかえるような暑さで、湿気を含んだ空気が肌にまとわりついて、じっとりと汗ばんでくる。
バスターミナルは各地へと向かうバスと人々でごった返していて、どこか浮ついた熱気と騒がしさに満ちていた。
高松行きの夜行バスは既に停車していて、乗車手続きを済ませ車内に入ると、キンと冷えた空気が火照った体に心地よい。
今は快適だけど、後々寒くなる。
文菜は帰省の際のほとんどをこの夜行バスを利用する。
約12時間掛るけど料金はリーズナブルで一人用の座席は広く足が伸ばせ、シートがリクライニングして寝やすい。
何より座席が壁で仕切られていて、通路側のカーテンを閉めてしまえば自分一人の空間で過ごせれるのがポイントが高い。
何回も利用すれば慣れたもので、シートに座るや否や、備え付けのコンセントにパソコンとスマホの充電器を差し込む。
そして、エアコンの送風口を直接自分に当たらないようにずらし、リュックの中からカーディガンを取り出し羽織り、無料で貸し出されるブランケットを膝にかけ準備は整った。
「よし……」
席は前列3番目の進行方向右側の席。
通路を乗客がポツリポツリと通り過ぎていく。
発車までは20分足らず、文菜はおもむろに、ショルダーバッグの中から例の写真を取り出した。
そこには、私にそっくりな女性が写っている。
見覚えがない筈なのに、どこか懐かしく感じる。
自分には姉も妹もいない。
他人の空似だと言い聞かせているけれど……封筒には差出人の名前がなかった。
それでも「私」を知っている誰かから送られたという事実だけが、不思議な棘のように心に刺さっている。
(帰ったら母さんと父さんに聞いてみよう…)
何気なく視線を通路に向ける。
ゆっくりと歩く男性の横顔に見覚えがあった。
(嘘…)
心臓がドキンと跳ねる。思わず名前を呼びそうになって、声が詰まる。
「あの…」
男性は歩みを止め、こっちを向く。
「あれ?文菜じゃないか」
少し低めの声も雰囲気も、大人びたけど、あの頃のまま。
目が合った瞬間、胸がきゅっと締め付けられ、頭に血がのぼる。
「うん……すごく、久しぶり。まさか、こんなところで会うなんて」
平静を装うが声は震えていた。
でも、それを隠す余裕なんてない。
目の前に彼がいる。それだけで、過去と現在がごちゃまぜになっていく。
高校のとき、私が本気で恋をしていた人。
高校の同級生。
香取諒――
彼は卒業と同時に東京の大学へ進学して、そのまま連絡もとれなくなった。
あの頃、手が届きそうで届かなかった。
彼のことが好きだった。
でも言えなかった。
何も始まらないまま、卒業して、時が流れて……それでも、忘れられなかった。
私も地元で大学に通いながら、それなりの恋や出会いはあったけど、恋人にまで発展したことはない。
結局どこかで、彼の面影を追い続けている。
未だに街で似た人を見かけるたびに心がざわついたりする。
大学を卒業して、東京に出たのも、もしかしたら…に賭けたくなったからだった。
もう一度、彼に会える気がして。
でも音信不通のままで、会える保証なんてなくて。
だから今、目の前にいる彼が夢みたいで、怖くて、嬉しくて。
……そして、恥ずかしかった。
「どした?」
眼鏡の奥の優しい瞳が問い掛ける。
また心臓が跳ねる。
「ん?あ、いや…」
その視線にドギマギして返す言葉が出て来ない。
あれから7年。私の事を覚えていてくれた、それだけでもう胸がいっぱいで、ドキドキが止まらない。
「……変わってないな、文菜」
「え?」
「雰囲気。昔とあんまり、変わってない」
「諒くんは……変わった?」
少しの沈黙。
「うーん。あの頃よりは、素直になったかも」
首を傾げ苦笑いをしている。
そう、この困ってるのか照れてるのか分からない笑顔も好きだった。
偶然の再会という夢見ていた願いが叶った。
なにも始まってない。
だけど、終わってもいない、はず。
鼓動がドクドクと時を刻む。
止まっていた時間が動き始めた瞬間。
卒業式の日に、諒からもらった制服のボタン──あれも、まだ大切に持っている。
「まさか、文菜も乗ってるとはな」
余程驚いたのか、諒はじっと私を見つめてくる。
懐かしさと…戸惑いも混じっているような眼差しがくすぐったくて、さらに顔が熱くなる。
気づかれないように、そっと視線を逸らす。
「東京に出て来てたんだ」
穏やかな声。
その奥に、知らなかったという小さな距離が感じられて、ほんの少しだけ胸がチクリとする。
「うん、もう四年になる」
「そっか」
「諒くん、同窓会とか来ないからさ、連絡先分からなくて」
「ああ、めんどくさくてね……でも神舞の祭は、毎年帰ってたよ」
「そうなん?」
「うん、今年は帰れなかったけどね」
諒は残念そうに顔をしかめ、人差し指でこめかみを搔いている。ああ、この仕草もよくしていた。
神様が運んできてプレゼント。
今この機会を逃したら、もう会うチャンスは二度と無いかもしれない。
そう思うと、自然に手が動いていた。
写真を膝の上に置き、何気ない素振りでショルダーバックからスマホを取り出す。
「ふーん、ねえ?折角だからさ、連絡先交換しようよ」
目一杯の笑顔を見せてみる。
諒は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「…ああ、いいよ」
その瞬間、心の奥にあった霧が晴れていく。
それから、再会の為の自己紹介や他愛もない会話で盛り上がった。
諒は大手の物流会社で運送の仕事をしているそうだ。
あの冬の日、学校帰りのバスの中で会話した時と同じように、どこかぎこちないけど、時間や距離を埋めるようにゆっくりと言葉を重ねていく。少しずつ心がほどけていく。
なんだか不思議で、とても嬉しい。
「それは何?」
諒の指先が膝の上に置かれていた例の写真を指している。
「ああ、これは…」
口ごもる。どこかで話したい気持ちと、今この穏やかな雰囲気を壊したくない気持ちがせめぎ合う。
この偶然の再会には似つかわしくない物。
けれど、それでも…誰かに、この違和感を共有して欲しいという思いもある。
(諒くんなら……)
「……彼氏の写真?」
「え……?違う違う」
慌てて両手と首を振り、思わず声も大きくなる。
恥ずかしさと焦りが混ざって、顔がほんのり熱を帯びる。
写真をそっと手に取って、戸惑いながらも彼に差し出す。
「……見ていいの?」
「……うん」
真剣な表情で受け取る諒の視線が、一瞬かすかに揺れたように感じた。
表情には出さなかったけど、何かが引っかかったように見えた。
「差出人のない手紙が届いて、その中にあったんだ」
「…ふーん……なるほどな……でも、これって文菜に似てない?」
「やっぱり……似てるよね……でも私、身に覚えがないんだよね……しかも古そうでしょ?裏も見てみて」
諒は顔を突き出し、不思議そうに写真を裏返す。
「確かに重岩で撮ったものだけど……この塗りつぶされた所に、何か書いてあったのかな……何だろう……差出人の名前が無いっていうのが妙だけど……もしかしたら、名前を書くのを忘れただけで、写真の女性は文菜のお母さんとか、お婆ちゃんとかの若い時のものなんじゃない?……」
諒はもう一度写真を表にして、まじまじと見つめ直す。
光の具合を変えるように角度を変えながら、しばらくじっと見つめていた。
「ああ、そういう事かな」
私は、小刻みに頷きながら写真を受け取り眺める。
それは有り得ない事だった。
両親に確認したけど手紙を送った覚えはないと言っていた。
写真の事は話していないから、写っている女性が母や祖母の可能性はゼロではないにせよ、手紙の差出人は、明らかに私のことを知っている。
それが、ずっと心に引っかかっていた。
車内にメロディが流れバスの出発のアナウンスが入る。
「じゃあ、俺、後ろの方だから」
「ありがとう、諒くん」
諒は片手を上げて自分の席に向かって行った。
シートに凭れ、小さくガッツポーズをする。頬をつねると、チクリと痛みが走る。
(痛い。痛い…夢じゃない。ほんとに、再会できたんだ)
力が抜けていき、喜びが体いっぱいに広がっていく。
そのままスマホを開いて、さっそく彼にメッセージを送る。
何気ないやり取りをしている最中も、車窓には煌々と彩られた都会の夜が流れていく。対向車のヘッドライト、高層ビルやマンションの明かり一つ一つ。
そのすべてが、どこか滲んで見える。
再会の余韻が、胸の中で静かに波紋のように広がって、その中心から、小さな光がそっと芽吹こうとしている。
あたたかくて、けれど少しだけ、怖い。
それは……希望。
独りにやけながら、軽やかにノートパソコンを開き、イヤホンを耳に差し込む。
お気に入りの動画を流し、気持ちを少し落ち着けた。
画面の向こうで喋る声が、遠くで聞こえる波のように心をなぞっていく。
そうしてしばらく経った頃、バスは少しずつ速度を落とし、やがて静岡近辺のサービスエリアに滑り込むように入っていった。
席を立ちトイレに向かう。
諒も下りるかなと思って通路の後方をチラリと見たけど姿はなかった。
外の空気は夏だというのにヒンヤリしていて、夜風が拍車を掛ける。
エアコンが効いているバスの車内程ではないものの薄手のカーディガンを羽織っていて正解だったと思う。
用を済ませバスに戻る途中、何気に見た街灯の下にある喫煙所で諒が煙を吐いている。
声を掛けようと、諒に近づこうとした時、誰かと話をしているようだったので歩みを止める。
相手の顔は街灯の陰になっていてよく見えなかったけど、服装から男性なのは分かる。
ワイシャツにスーツパンツ、体格は普通、煙草を吸うために持ち上げた手にブレスレットか何かがキラッと光っていた。
それを横目に見ながらバスに戻る。
席に着くと、通路側のカーテンを閉め、シートを倒し、ブランケットを掛けて、タオルケットを胸元に引き寄せる。
そろそろ寝ないとね……
だけど……
車体がわずかに揺れ、バスはゆっくりと、まるで誰かの眠りを妨げないように動き出した。
頬が自然と緩んでいた。鏡がなくてもわかる。
ああ、本当に再会できたんだ……
願っていたけれど、叶うとは思っていなかった。
諒の表情、声、仕草、全部を噛みしめる。
それだけで何もかもが、やさしく思えてくる。
エンジンの深く低い音と、車体のかすかな振動が、心の中でざわめく想いをそっとなだめてくれるようで、鼓動さえも、その音に溶けていく気がした。
身体は静かでも、心が忙しい。
今は、このざわめきごと、抱きしめて……
「おやすみ…」
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