夢のよう
ふと気がつくと、目の前に鳥居があった。
あたり一面が霧に包まれ、木々に囲まれている。
場所を確かめようと思い、足は自然に鳥居をくぐる。
昼とも夜ともつかない、ぼんやりとした灰色の空の下、境内は、ひどく静かだった。
正面の本殿と思しき建物の前に、一人の女性がこちらに背を向けて立っている。
よく見る巫女の装束を身にまとっていたが、赤や白の色彩はくすみ、どこか古びた雰囲気があった。
文菜はおそるおそる近づき、声をかけた。
「あの……ここは?」
すると、女性は振り返らずに静かに答えた。
「ここは影の社。そして、私はあなたの影」
その声……まるで、自分の声をそのまま聞いているようだった。
「……貴方は……?」
戸惑いながら問い掛ける、
「ごめんね、時間が来たみたい」
女性はゆっくりと歩き出した。
「ちょっと…」
慌てて後を追うが、どうしても追いつけない。
建物の中へ入ると、ろうそくの灯りが奥へ奥へと道を描いている。
しかし、炎が照らす範囲は限られ、先は深い闇に沈んでいた。
「あの……!」
呼びかけても、女性は振り返らず歩き続ける。
距離はまったく縮まらない。走っても、
必死に手を伸ばしても、彼女には届かない。
そして……ふいに、女性が立ち止まり、くるりと振り返った。
その瞬間。
「……るな!」
女性の叫び声と共に視界がぐにゃりと歪み、全てが暗転する。
重く、冷たいものに引き込まれるように…意識は深い闇の中へと沈んでいった。
ハッとして目を覚ます。
バスのエンジン音が、低く、規則的なリズムで耳の奥に響いていた。
腕時計を見ると、午前4時。
夜がゆっくりとその輪郭をほどいていく頃合い。
カーテンの隙間から漏れる、ほのかな光が網膜をくすぐる。
体をそっと起こし、指先でカーテンの端を捲ってみると、空はかすかに白みはじめていた。
夜と朝のちょうど狭間。
夢の中の景色が現実ににじみ出すような、あやふやで、淡く優しい時間帯。
「変な夢だったなぁ……」
あくび混じりに呟きながら、シートに凭れてスマホを手に取ると、諒からのメッセージが届いていた。
「さっきの写真だけど、後で見せてくれる」
送信時刻は0時22分。
私が眠った後に送られてきていた。
小さく息を吸ってから、返信を打つ。
「諒くん、おはよう。瀬田港行のフェリーに乗るでしょ?その時に見せるね」
すぐに既読が付き、返事も届く。
「おはよう、オーケー、じゃあ後で」
スマホをそっと枕元に置き、瞼を閉じる。
目の下にクマなんて作って、諒との時間を過ごしたくない。
そんなことを思いながら、浅い眠りに身を預けた。
「おはようございます。ご乗車ありがとうございました……」
車内アナウンスの声で目を覚ます。
カーテンを開けると、ビルの合間に屋島の平たい稜線がチラッと見えた。
「いけない……!」
急いで身支度を整える。
ポーチを取り出して、手早くメイクを済ませる。
慣れた動きでリップを引いた頃には、もう高松駅に到着していた。
荷物を手に通路へ出ようとすると、ちょうど諒が歩いてきて、
「おはよう」
会釈しながら道を譲ってくれる姿に、自然と頬が緩む。
雲一つない快晴の空の下、高松港へと続く連絡通路を諒と並んで歩く。
けれどウキウキした陽気とは正反対な様子の諒は、朝は弱いのか、考え事をしているのか、どこかぼんやりとしていて会話は弾まない。
突然、諒が立ち止まった。
「……あの……さ……」
どこか言い淀むような声音。
「ん?どうしたの?」
「……いや、何でもない、行こ」
あきらかに歯切れが悪い。無理に笑みを作りながら、諒は先に歩き出す。
なんだろう……
どことなく、覇気のない背中に、少しだけ胸が波立つ。
「……待ってよ」
明るい声で駆け寄り左隣の横顔を窺う。
まるで教室の窓から外を眺めていたときのように、遠くの何かを見つめていた。
ふわりと風に乗って淡い潮の香りが鼻を掠める。
通路の先、視界いっぱいに、凪いだ瀬戸内海がその姿を現した。
そして、海の向こうには、どこまでも滑らかな稜線を描く、夕凪島のシルエットがくっきりと浮かんでいる。
「何かさ、ここに来ると島に帰って来たなって思うんだよね」
「あっ、それ私も」
さすがに夏休みだけあって観光客らしき人達も多い。
通路には、キャリーケースやリュックを背負った人達が、同じ方向に歩いている。
岸壁には真っ白な鳩が群がっていて、麦わら帽子を被ったおじさんが撒いた餌を啄んでいる。
東京とは違う澄みきった空気と、肌を通り抜ける風が心地いい。
そのお陰か暑さも幾らかましに感じる。
ユラユラと光が瞬く水面には、港内に入ろうとするフェリーの姿があった。
フェリーターミナルの中も活気にあふれていて、外国人の姿も釣らほらと見掛けた。
チケットを二人分購入して、空いていたベンチベンチに並んで腰を下ろす。
「文菜……あのさ……」
座るや否や諒が口を開く、少し俯き神妙な面持ち。
「……何?」
「文菜さ……夜に、俺が喫煙所で話してた男、覚えてる……?」
首を少し傾げてみせる。
「え?……知らないけど」
嘘をつくつもりは毛頭なかったけど、反射的に答えてしまった。
「そっか……」
諒は小さく息を吐いて顔を上げる。
その表情は、どこか安堵しているようにも見えた。
なんだろう?
ちょっと気になる。
「その人がどうかしたの?」
「いや、別に……」
また言葉を飲み込んでしまう。
一体どうしたんだろう?
諒が話していた男の格好を思い浮かべる。
特別、気になるような所はなかったし……
そんなことを考えていた矢先、フェリーの乗船を知らせるアナウンスが響いた。
「諒くん、行こう」
立ち上がろうとした瞬間、諒が何かを思い出したようにこちらを見た。
「そうだ、文菜さ、あの写真もう一度見せてくれるかな?」
その目は少し鋭く、なぜか怖さすら感じたけど。
もともと見せるつもりだったから、何の躊躇もなく、ショルダーバッグから写真を取り出して手渡した。
「ありがとう」
写真をじっと見つめる諒の目は真剣そのものだった。
「どう、何か気づいたことある?」
「ああ、そうだな場所は重岩だけど……文菜さ、この写真借りてもいい?」
「え……?」
思いもよらない申し出に困惑した。
どうしよう……あの手紙の事も話した方が良いかな……
「……いいけど。聞いて欲しい事があるから、先に乗ろう」
「あっ、いけね、そうだね」
諒は、こめかみをかきながら苦笑する。
「ほら、行くよ」
立ち上がって、両手でおいでおいでをする。
見上げてきたその瞳は、優しくもどこか遠く、まるでこの場所ではないどこかを見ているようだった。
フェリーの客室は、朝の柔らかな光に包まれていた。
観光客らしい賑わいがそこかしこにあり、旅の高揚を隠しきれない笑い声が、どこか遠くで響いている。
季節はちょうど夏の盛り。
風光明媚な夕凪島はこの時期、多くの観光客で賑わう。
その人波のなか、私たちは静かに、窓際の二人掛けの席に腰を下ろした。
ほどなくして、フェリーがゆっくりと岸壁を離れはじめる。
船体が水面を切るたびに生まれる波紋。
その反射が天井にちらちらと揺れていて、それを見ていると、何か心もふわりと揺れているようだった。
「……諒くん、実はね……」
ショルダーバッグの奥にしまっていた、差出人の名前がない封筒を取り出した。
手紙一面に書かれた「カゲヌシ」という言葉。
封を切ったときの、不思議な胸騒ぎを思い出しながら、言葉を選んで話しはじめた。
諒は、少しだけ顔を曇らせながらも、真剣に耳を傾けてくれた。
「ふんふん」と相槌を打ち、何度も目を細めて、手紙と私の顔とを交互に見ていた。
「……写真のこともだけど、誰が、なんでこんなものを私に送ったのか……やっぱりちょっと、気味が悪いんだ」
「そうだな……両親でもないとしたら……他に心当たりは?」
「ううん……“カゲヌシ”って言葉も、すごく変だよね」
それから、玲美との会話……行方不明の男が書き残していた落書きのことを話す。
「……影を追う者は、影に囚われるって、書かれてたんだって」
ぽつりと呟いたその一節は、どこか自分自身にも向けられているような、重さを持っていた。
諒は黙り込んだまま、窓の外を見つめている。
「……諒くん?大丈夫?」
「あ、ごめんごめん。……何か気味悪いね……」
「この一節なんだけど……なんとなく、どこかで見たことがある気がするの」
「え?」
諒の表情が、ほんの一瞬だけ強ばったように見えた。
「ネットで調べても出てこなかったんだ。でも……本か何かで、読んだことがあるのかも……」
「そう……」
「何か気になるん?」
「ん?いや、知り合いがミステリアスな話が好きでね、もしかしたら何か分かるかも知れない……」
そして、少し間を置いてから、視線をそっと手紙へ向けた。
「この手紙も借りてもいい?」
一瞬迷ったけれど、すぐに頷いた。
「うん、いいよ」
手紙と写真を手渡すと、指先が少しだけひやりとして、それがそのまま体の奥まで冷たさを運んでいくようだった。
安心したような、でも……何か大切なものを手放したような、不安な感覚。
諒は手紙に目を落とすと、ふっと表情を緩めた。
「そういえばさ、昨日の職場でさ……」
突然、空気を切り替えるように、仕事中の面白いエピソードを話し始めた。
それは、さっきまでの重苦しさを打ち消すような、くだらなくて、ちょっと笑える話だった。
こうして二人で座っていたら、恋人同士に見えるよね……
窓の外では、朝の光を受けた海がきらきらと輝いている。
高松港を出て、すでに三十分以上が過ぎていた。
フェリーは、行程の半分程、穏やかな沖合いを進んでいる。
「……ちょっと、一服してくる」
諒は立ち上がり、手紙と写真を持ったまま、喫煙所の方へと歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、私はずっと目で追っていた。
体の奥には、さっき感じたひんやりとした感覚が、まだ残っていた。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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