私の観察眼
洗濯物を抱えて自室に戻ると、午後の日差しがレースのカーテン越しに差し込んでいた。
ベッドの端に服を置き、いつものようにタンスとクローゼットを開けて、洗濯物をしまっていく。
動くたびに、背中に張りついたノースリーブの生地が、じんわりと肌にまとわりつくのが気になった。
その感触だけで、どこか午前中の空気がまだ自分に残っているように思えた。
「……着替えよ」
小さくつぶやいて、クローゼットの奥から、ラベンダー色のブラウスを引き出す。
薄手で柔らかい素材。半袖のゆったりしたシルエットが、空気ごと変えてくれそうな気がした。
肌に張りついたインナーを脱ぎ、そっと着替えると、風通しがよくなったせいか、気持ちまで少し軽くなった。
白いスカートとの組み合わせも悪くない。
鏡の前に立って、髪を軽く手ぐしで直し、メイクポーチからリップだけ塗り直す。
バッグを持ち替え、ドアの前でひとつ息を吸って、吐いた。
心の中で、午前の思い出にそっと蓋をするように。
一階に降りて、居間にいる母に声を掛ける。
「母さん行ってくる」
「ああ、気を付けて、行ってらっしゃい」
玄関の靴箱を開けて、サンダルに履き替える。
ベージュの細いストラップが足首にほどよく馴染んで、スカートの白ともよく合っていた。
スニーカーよりも少しだけ、今日の午後に似合う気がする。
家の扉を開けると、夏の午後の名残のような熱気が、ふわりと肌を包んだ。
雲が多くなってきたとはいえ陽射しは眩しく、空は抜けるように青い。
私は小さく息を吸い、眩しさに目を細めながら道路へ出る。
見慣れないセダンが停まっていた。その車のドアが音を立てて開き、諒が降りてくる。
──あれ? さっき送ってくれたはずなのに……?
車のナンバーは、わナンバー。レンタカーだった。
「文菜、やっぱり送ってくよ」
「え?」
「少しでも、その一緒にいたい気分で」
くすぐったそうに頭を掻いて笑うその仕草に、心の中で何かが揺れた。
けれど、私は小さく頷いた。
「うん、ありがと」
助手席に乗り込んで諒を見ると、人差し指で眼鏡を押し上げ、こちらを見て笑っていた。
その笑顔に、どこか馴染みのある懐かしさと、同時に、また心の中で何かが訴えかける。
「待ち合わせ、14時だろ?」
「うん。……車、借りたの?」
「ああ、デートするのに伯父の車じゃ味気なくて」
前を向いたまま、諒は苦笑した。その声音も表情も、穏やかで自然。
「そっか、うれしい」
「オリーブ公園だったよな?その近くでも散歩しよう」
「うん、ありがとう」
車はスッと動き出す。慣れない車のせいか、少しだけ慌ただしく体が揺れる。
キュッと赤信号で止まる。体がわずかに前に出る。
心の中の私の記憶が違うよと声を掛ける。
「ちょっと、びっくりした」
「何が?」
「……まさか、諒くんがいると思ってなかったから」
「今までの分、少しでも取り戻したくてね」
そう言って、諒はそっと私の膝の上に手を置いた。
その手の感触は冷たく、でもどこか馴染みのある気もして、戸惑いが増す。
フッと笑ったその顔には、照れというよりも、自信のようなものが宿っていた。
ドキドキする。
諒に対して。
でも……この気持ちは、どういう意味で?
信号が青になり、シュッと車が動き出す。
背もたれに体がくっつく。
バックの中のスマホが震えた。
私はそっと取り出し、画面を確認する。
「誰から?」
「あ、亜希から」
私の中の違和感は間違っていない。
たぶん。私の前にいる諒は諒じゃない。
どういうこと、じゃあいったい誰。
小さく深呼吸を一つ。
平静を装って、メッセージを返すふりをしながら、諒にメッセージを入れる。
「あ、諒くんスマホは?」
「どうして?」
「こないだ撮った写真、送って貰ってないから」
「ああ、ごめんバッテリ切れちゃってて」
前を向いたまま答える声は滑らかで、迷いがない。
逆に、その“なさすぎる自然さ”が恐ろしい。
「ああ、もう亜希は着いてるみたい」
「そう」
諒からのメッセージ。
『今向かってる』
『その車の後ろに明智がいるから、心配するな』
『何者か分からないから、そいつを変に刺激するな』
「玲美は少し遅れるみたい」
その言葉に頷きながら、私は再びメッセージを打つ。
「諒くん、ありがとう。会いたいよ」
心の動揺、焦りが顔に出ないように窓の外の景色を眺めていた。
そして今朝、諒に貰った指輪に触れながら心を整える。
車は軽快に海沿いの道を進んでいる。
キラキラと光る海面。
その奥に、薄く霞んだ島影が浮かんでいた。
ビーチのすぐ傍の交差点で右に曲がると、体がグッと外側へ持っていかれる。
上り坂の先、オリーブ公園の駐車場に到着する。
助手席のドアを開けて外へ出ると、暑いはずの空気に少しホッとする。
数台後ろを走っていた車が追い越していく。
その運転席の男。
ちょび髭を付けていたが、目を見れば、それが明智だとすぐに分かった。
遠くに車を停めている。
その姿を確認して、心の奥にずしんと垂れ込めていた不安が、わずかに解ける。けれど、緊張の糸はまだほどけない。
差し出された手を見つめた一瞬、心が強く抗う。
でも、ここは冷静に冷静に、努めて自然を装い、手を取る。
軽く汗ばんだ掌が触れ合うたび、背筋がわずかに粟立つ。
坂道を少し登ると、オリーブの木々が生い茂り、緑のトンネルをつくっていた。
ふたり並んで歩く。まるで本物の恋人のように。
でも、その自然すぎる振る舞いこそが、異質で、恐ろしい。
何か話しかけてきても、私は当たり障りのない言葉しか返せない。
──でも、こんなに似ているなんて……双子?
そんな話、聞いたことない。
外見は、ほんとにそっくり……でも確かに違う、仕草や行動。
私は気づくし、気づいた。
風がふっと吹いて、木の葉がさやさやと揺れる。
目の前に真っ白な大きな風車のモニュメントが姿を現す。
その向こうには、穏やかな内海湾が広がり、夏の日差しを受けて、水面がゆらゆらと煌めいていた。
遠く四国の山々の上には、もくもくと入道雲が浮かんでいる。
木製のベンチに並んで腰を下ろすと、彼は足を組んで空を仰いだ。
もうここまで来ると、少しおかしく目に映る。
だって――
諒は足は組まないから。
「今日の空みたいな気分だよ」
見上げた空。
雲の合間の青は深く澄んでいた。
「どういう感じ?」
尋ねると、彼はニコッと笑って立ち上がり、再び手を差し出した。
私はそっと手を乗せる。
軽々と引き上げられて、そして──ぐっと腰を引き寄せられた。
体が自然と仰け反り、顔が上向く。
距離が一気に縮まる。
──近い。違う、これは違う。
私は反射的に顔を背けた。
「……人が見てる」
彼の手が、あっさりと腰から離れる。
俯き加減に見上げてくるその顔には、残念そうな色さえ浮かんでいた。
私は腕時計をチラッと見る。
「あ、そろそろ行くね」
彼は片手をポケットに突っ込んでいる。
そして人差し指で眼鏡を押し上げた。
「そう、帰りは送ってくよ」
「ああ、友美が送ってくれるから……」
「俺が送るよ、駐車場で待ってる」
「ありがとうでも、友美とは夜の約束もあるから」
「……」
じっと見つめてくる視線が、まっすぐすぎて怖い。
「じゃあ……」
目をそらさないように気をつけながら、私は静かに背を向けた。
園内のざわめき。
人の気配。
その喧騒が、わずかな安心を与えてくれる。
明智が、オリーブの木を眺めて立っている。
その脇をすり抜けるように歩く。
それでも歩みは自然と早まった。
──あれは、諒くんじゃない。
仕草も、声も、表情も……何もかも違う。じゃあ、誰?
その恐怖が足取りを早くさせた。
道路を渡り、待ち合わせの場所にいる亜希の姿を見て、ようやく息がつけた。
スマホが震える。
諒からの電話。
亜希に「ちょっと電話」と手振りで伝える。
「よかった」
諒の声。
──本物の、諒。
「明智から連絡が入った。今、そいつの正体を探ってる。大丈夫だから、楽しんでおいで」
「うん……でも、少しでいいから会いたいよ」
安心して声が滲む。
その瞬間、肩に手が置かれた。
びくっとして振り向くと、そこにいたのは──
紛れもなく、本物の、私の知っている諒。
微かに匂う鼻に馴染んだ煙草の匂い。
「諒くん……」
諒は静かに私の頭を撫でた。
そのぬくもりに、堰を切ったように、私は諒の胸に飛び込んだ。
「諒くん、だ」
諒は私を抱きしめ、優しく髪を撫で続けた。
「ほら、みんな待ってるよ」
「うん」
でも、もう少しだけ諒の鼓動を聞いていたかった。
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