意外
「怖かった……」
文菜の体が、胸の中で小さく震えていた。
「もう、大丈夫だから」
そっと声をかけると、文菜は肩で深く息をつき、顔を上げた。
陽射しが差し込むその瞳はわずかに揺れていた。
安堵、戸惑い、そして、かすかな喜び――
いくつもの感情が、光の中でにじんで見える。
そよ風が払う髪を、そっと文菜は耳に掛ける。
「服、変えたの?……似合ってる」
気まずさを紛らわすように言うと、文菜は一瞬驚いたように目を見開いてから、小さく頷いた。
「ゆっくり、楽しんでおいで。安心して」
「……うん」
まだ何か言いかけたようにも見えたが、文菜は俯いた。
それから顔を上げて――
にこっと、笑った。
「……じゃあ、行ってきます」
「ああ……」
文菜は二、三歩進んでは振り返り、手を小さく振った。
その姿が亜希の元へと向かい、しばらくふたりで言葉を交わす。
やがて、こちらへ手を振ってきたので、俺も軽く手を上げて応えた。
ふたりはそのまま、建物の中へと消えていった。
ふう、と溜息をひとつ。
しまった――。
五月との約束の時間が近い。
スマホを取り出し、時間を確認する。13時50分。
明智に俺の偽物の調査を任せるか……
迷いながら、五月にメッセージを送る。
「申し訳ない。30分遅れてもいいですか?」
ほどなくして、すぐに返信が届いた。
『いいわよ』
「ありがとうございます。では、のちほど」
風が通り抜け、オリーブの葉がきらきらと陽を返しながら揺れている。
その風の中を、駐車場へ向かって歩いた。
車の脇に寄りかかり、煙草に火を点ける。
蝉の声が包む空に白煙がゆらりと舞上った。
まさか、あんなことがあるとは。
慎哉と明智からの連絡を受けたとき、半信半疑だった。
――俺にそっくりな人間が、文菜と車に乗っていた、と。
慎哉は、オリーブ公園に向かう道中、偶然後ろを走る車に気づいた。
車種は違う。だから最初は他人だと思ったそうだ。
だが、助手席に文菜が座っているのを見て、俺だと判断した。
そして、そのときの文菜の「心の声」を、無意識に読んでしまったらしい。
その文菜の疑問を確認するために俺を見たら……
慎哉曰く、その俺は空っぽだったという。
それで、急いで俺に連絡を取ったらしい。
明智もまた、信号待ちでふたりを目撃していた。
俺の乗っているはずの車と違う車種に加え、助手席の文菜の目、そして運転席の「俺」の目に、妙な違和感を覚えたという。
そのままUターンし、尾行を開始したとき、ちょうど俺からメッセージが届いた。
前方では“俺”が運転している。なのに、俺から連絡が来る。
明智は混乱し、確認のメッセージを送ってきた。
俺自身はその“俺”を目にしたわけじゃないが、文菜の反応、ふたりの証言を思い返せば、かなり精巧に似せられていたことは想像に難くない。
双子だという話は聞いたことがない。
慎哉が言っていた“空っぽ”という表現は、どこかこの世のものではない気さえした。
最後の一服を済ませ、携帯灰皿に吸殻をねじ込む。
運転席のドアを開け、シートに滑り込む。
エンジンをかけ、冷房の風に額を晒した。
――五月と会うには、まだ気持ちが整っていない。
道中で、考えをまとめるしかないか。
アクセルを踏み、車を発進させる。
カゲヌシの騒動の核心に近い存在は、根元宗顕。
恐ろしい禁呪を使えるとされる人物。
彼の目的は――おそらく“祭主”と呼ばれる者の復活。
そこに俺がどう関わるのか。
俺の中に“眠っている”という魂……
ふと、思い浮かんだ想像に、背筋が凍る。
体の芯が冷え、息を飲む。
――まさか。
文菜は、怨霊を封じた当麻の末裔。
聡は、百々楚姫の血を引く者。
慎哉は、山背日立の流れを汲む者。
そして俺は……羽代黒麻呂の末裔?
根十三。その末裔、根元宗顕、義信、順次……玲美。
夜明友昭、友一、洋一。
交差する名前。
重なっていく因縁。
もはやただの偶然とは思えない。
――そうだ。
羽代の一族が船が難破して流れ着いた時、この島には別の勢力が存在していたはずだ。
名前は……。
信号が赤に変わり、ブレーキを踏む。
横断歩道を歩く人達が流れる。
楽しそうな観光客の一団が歩いていた。
ん?
その中に、見覚えのある顔。
――安居。
来ていたのか。
安居は一団と一緒に、歩道の奥へと消えていった。
信号が青に変わる。
ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
またひとつ、思考の迷路に新しい分岐が生まれる。
――なぜ、安居がこの島に?
俺はカゲヌシの一件に関して、羽代の姓に関する調査を依頼してから、連絡していない。
慎哉に協力を仰いだ際も、「安居抜きで」という前提を共有していた。
今日の俺に偽物の対応を含めて、その前提を覆して慎哉が安居に報告しているとは考えにくい。
安居を疑っているわけじゃない。
だが、あの男には――掴みどころがなさすぎる。
そもそも、今回の“影の男”の騒動は、俺たちが意図的に仕組んだ事件が引き金になっていた。
それが皮肉にも、失踪者が俺の名を騙ったという理由で“影の男”の調査依頼が来た。
「歴史の道」――あの雑誌が取り上げるには十分な素材だ。
オカルト、民俗、失踪者、影という言葉に関する異常性。
けれど、わざわざ調査員を送り込むほどの話か?という疑問は、最初から拭えなかった。
俺だけならともかく、慎哉は、怨霊を封じる力を持つ陰陽師の末裔だ。
魂の気配を感じ取るという、彼個人の資質もある。
そして、“蜉蝣”と呼ばれるもう一人の調査員――
会ったことはないが、何かしら特殊な能力を有しているという。
それだけの戦力を送り込む必要があるほど、“影の男”に何か確信めいたものを抱いていたのだろうか。
……ただの勘ぐりかもしれないが。
そんな思考の渦に沈んでいたとき、視界の端にホテルの看板が入ってきた。
“ベイリゾート夕凪島”
ハンドルをゆっくりと切り、駐車場へ車を滑り込ませる。
白いコンクリートの地面が、夏の陽を照り返していた。
エンジンを切る。
それでも――頭の中は、まだ靄の中にある。
ひとつの思考が定まる前に、次の疑念が浮かび上がる。
結局、答えは出ないままだった。
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