それぞれの想い
慎哉の運転する軽自動車の後部座席に、私は栞と並んで座っていた。
窓の外には、播磨灘を望む穏やかな海が広がり、白くまぶしい陽射しが波の縁を優しく照らしている。
海沿いの道を、車は南へと静かに進んでいた。
私は、あの顎髭の老人のことを、どうしても訊いておきたくて口を開いた。
「ねえ、あの髭の長いおじいちゃんって……誰?」
運転席の慎哉が「うーん」と低く唸るような声を漏らし、そのまま口を閉ざす。
渋い顔が、ちらりとルームミラーに映った。
「何か……話しづらいことなの?」
栞が膝を抱えるようにして隣で体を小さくしながら、慎哉に問いかけた。
その瞳には、じっと相手を見据えるような鋭さと、少しの不安が宿っていた。
「いや、そういうわけじゃ……いや、まあ、なんというか……。僕のほうでもまだ確認中というか……」
慎哉は言い淀みながらも、ルームミラー越しにこちらへ視線を向けた。
その目に、誤魔化しや嘘はない。
だけど、どこか確信を避けるような揺らぎがあった。
「どうして、そんなに気になるのかな?」
私は答えかけて、言葉に詰まった。
「山背日立」や「奥勢理姫」……その名前を口にするのが、なぜだか急に怖くなったから。
「あまり、言いたくないか。……なるほどね」
慎哉はすぐに察してくれた。その優しい目が、ほんの少し陰る。
「……根十三麻呪蛇麻呂という人に似てたの。あの人、何か……悪いことをしようとしてる気がして」
その言葉を静かに受け止めながら、慎哉が少し眉を寄せた。
「だとして、聡ちゃんは……どうしたいの?」
私は、唇をきゅっと結んで、まっすぐに答えた。
「止めたい」
運転席から、慎哉の視線がルームミラー越しにまっすぐ私を捉えた。
その目はどこまでも真剣で、優しいのに、突き放すようでもあった。
「……その気持ちは分かる。でもね、それは無理だよ」
「どうして?」
「どうしてって……話せばわかってくれる、って思ってる?」
私はゆっくりと頷いた。ほんの少し、自信はなかったけれど――それでも。
「……うん」
慎哉は肩を小さくすくめて、フロントガラス越しの道へ視線を戻す。
車は住宅街を駆け抜けている。
「……聡ちゃんが傷つくだけだから。僕は賛成できない」
その言葉は冷たいわけじゃなかった。ただ、現実の厳しさを淡々と伝えるような声音だった。
「私も、そう思うな」
栞がぽつりと口を挟んだ。
窓から差し込む陽が、栞の頬を斜めに照らしている。
「世の中には、ほんとに世界が違う人っているから……。みんながみんな、わかり合えたら、いじめなんて起きないもん」
それは、きっと栞自身が体験してきた言葉だった。
静かで、だけど重くて、胸にじんと沁みてくる。
私は膝の上で、そっと手のひらを握りしめた。
沈黙が車内に降りる。
何もできないんだ――
そう、胸の奥で何かがぽとんと沈んだ。
「でもね」
ふいに慎哉が微笑み、ルームミラー越しに目を合わせてきた。
「聡ちゃんの気持ちは、ちゃんと受け取ったよ。僕にできることがあれば、力になる」
「あーちゃん、この人に任せておきなよ」
栞がにこっと笑って、私を覗き込む。
くしゃっと笑うその顔は、ついさっきまでの真剣な表情とは打って変わって、子どものように無邪気だった。
「その……ナントカ姫のことがあるから、気にしてるのかもだけどさ」
「……うん」
もう一度、私はゆっくりと窓の外を見た。
さっきよりも陽射しは高く、屋根や建物の窓に陽射しが跳ね返っていた。
「オリーブ公園、行きたいな」
栞が、まるで独り言のように言った。
「どしたの?」
「なんか、美味しいおやつが食べたい。私がごちそうする」
「いや、僕がするよ」
運転席の慎哉が言うと、栞はふるふると首を横に振った。
「ううん、なんか……今日はそんな気分だから、いいの」
隣で頬をふくらませる栞の横顔に、私はようやく少しだけ、口元が緩んだ。
ほんの一瞬でも、こうして笑っていられる時間があるのなら――
そう思った。
「あれ?」
慎哉がルームミラーに手を伸ばし、後ろを気にしている。
私が何気なく後方に目を向けようとしたとき、車がゆっくりと停止した。
赤信号だった。
慎哉は左手でスマホを取り出し、通話のボタンを押す。
その表情に、どこか険しさが滲んでいた。
文菜を家まで送り届けた頃には、時計の針がもうすぐ13時を指そうとしていた。
五月との約束までは、まだ一時間ほど余裕がある。
ここからベイリゾート夕凪島までは、渋滞でもしない限り、車で十分もかからない距離だ。
けれど昼食を取る気にはなれなかった。
腹が減っていないわけじゃない。ただ、何が食べたいかも思いつかない。
選ぼうとするよりも先に、思考の焦りが胸の内をかき回していた。
コンビニの駐車場に車を止め、ドアを開けると、むわりとした外気が肌にまとわりつく。
夏の空気は、潮とアスファルトの匂いを交ぜて運んでくる。
車のボディにこびりついた熱気を逃がすように、ポケットから煙草を取り出し、一本咥える。
火を点けた瞬間、肺の奥に入り込んできた煙が、不完全な吐息となって鼻先からこぼれた。
スマートフォンを取り出し、義兄にメッセージを送る。
「夜明友一の住所を教えて」
続けてもう一通。
「それと、今日、根元義信と一緒にいた女性、誰か分かる?」
送信済みの表示だけが、画面の下に無機質に浮かんでいる。
既読はつかない。
そのままの流れで、明智にも夜明家でのやり取りを要点だけ抜き出して送る。
こちらも返事はない。
ふと、慎哉からのメッセージが届いていた。
──聡ちゃんの百々楚姫の怨念に関する事象は肩が付いたと思う。ただ、気になる情報が出てきた。夜に会えないかな?
「了解した。こっちも共有したいことがある」
そう返してから、スマホを胸元に戻す。
時間はあるのに、思考がまとまらない。
五月と会うまでに一度整理しておきたいはずなのに、頭の中がまだ濁った水の中に沈んでいるようだった。
視線をふと助手席へ向ける。
文菜がさっきまで座っていた場所。
窓越しの陽が、空になったシートを淡く照らしている。
もう文菜の気配はないはずなのに、何かが、ほんの微かに、残っている気がした。
だから目を逸らせなかった。というより、逸らせることができなかった。
ほんの数十分前まで、文菜が隣にいたことが、今となっては少し夢のように感じられる。
笑っていた。泣きそうな顔もしていた。
「妻って、呼ばれて」なんて、あんな風に言うなんて。
そのときの文菜の表情が、今になって静かに胸に染み込んでくる。
だが、切り替えなければならない。
今は違う顔で動く時間だ。
再び煙草を咥え、深く吸い込む。
喉の奥が焼けるような感覚が、ようやくぼやけた意識の輪郭を少しずつ取り戻させる。
午後の陽射しが、容赦なく照りつけてくる。
遠くで蝉が鳴いていた。
空を仰げば、白くちぎれた雲がいくつか、ゆっくりと風に押し流されていく。
背筋を伸ばし、ひとつ息をついた。
気持ちを整えるには、まだ少し時間が要りそうだ。
だが――歩き出すことはできる。
そう、自分に言い聞かせるようにして。
そのとき、スマホが震えた。
画面には明智の名。
──今どこにいる?
返そうとした瞬間、慎哉からの着信が重なる。
通話ボタンを押すや否や、受話口から焦りを帯びた慎哉の声が飛び込んできた。
「おい、君、今どこにいる?」
「え?」
次に続いた言葉に、諒の頭の中は、真っ白になった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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