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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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ささやかな祈り

挿絵(By みてみん)

夜明家を後にして、外へ出ると、ひやりと冷えた体にまとわりつくような外気の暑さが、むしろ心地よかった。

庭にはもう剪定業者の姿はなく、ただ蝉の声が遠く近くで途切れることなく鳴いている。

所々、湧いていた雲達が地面に影を落としながら流れていく。

まるで現実の世界から、ほんの少しだけ外れた場所に立っていたような――そんな、不思議な感覚が抜けきらない。さっきまでこの場所で交わされていた言葉が、異空間の出来事だったかのように思えてしまうほどだった。

けれど確かに、私たちは“カゲヌシ”にまつわる出来事の、ただの傍観者ではなく、渦の中に、もう足を踏み入れてしまっているのだと――そう知らしめられた。

友昭が語ったことや、慎哉に話を鑑みると、禁呪や術というものが、信じ難いようなそれらが、確かにこの世に、表に出ることなく息づいているのだとすれば、私たちはもう、知らなかった頃には戻れないのだと思う。

ただ、それ以上に気になってしまっていたのは――

諒がその“主祭”とやらに関係しているのではないかという不安。

そして……玲美。何か深く関わっているのではないかという予感。

繋いだ諒の手をギュッと握って大きく振りながら歩く。

諒は驚くでもなく、フッと小さく笑って、私の動きに合わせて手を振ってくれる。

その仕草が妙に安心感をくれて、足取りが少しだけ軽くなる。

車に乗り込んでも、諒はどこか思案気で、ゆっくりとひとつ、深い吐息をこぼした。

無理もない――あんな話を聞かされた後だもの。

私は助手席の背もたれに体を預けながら、静かに口を開いた。

「諒くん、私分かったかも」

「何が?」

諒はハンドルに片手を置いたまま、ちらりとこちらを見る。

「おばあちゃんたちが、みよ、こうたろう、ってお互いの名前を呼んでいたか」

「聞かせて」

そう言って、諒はきちんと体ごとこちらに向き直る。

その瞳には、まっすぐな興味。

「うん、きっと大きな声で自分達の名前が言えなかったからだと思う」

私は、そっと手を膝の上に置いたまま、遠くの記憶を掘り起こすように言葉を紡いでいく。

「私が見た、あの断片みたいな記憶の中で……ふたりは重岩の上で、名前を叫び合ってたでしょ?

あの場所、人が滅多に来ないとはいえ、いつ誰が現れるかわからない。

しかも、一度は両方の家から咎められているような関係。純粋で、でも密やかで……だからこそ、堂々とは言えなかったんじゃないかな」

諒は黙って聞いている。

その視線が、そっと言葉を後押ししてくれる。

「有職読みっていう習慣があったなら、みよ、こうたろうでも当人の事でしょ、ふたりにとってはそれが“ほんとう”の名前だった。それを声を大にして言いたかった。それが理由だと思うんだ」

「そう。きっとね、自分たちの名前を、大きな声で、相手に届けたかったんだと思う。声に出すことで、関係を確かめたかった……存在を確かめたかった……そんな風に、私は感じた」

話し終えた私を、諒は何とも言えない温かい眼差しで見つめていた。

少し恥ずかしくて、唇を嚙んでいた。

「……確かに、文菜の言う通りだと思う。会うのも憚られ、でも、どこかで声に出したい……」

「うん……」

諒が静かに呟いた言葉が、車内の空気に溶け込んでいく。

私はそっと目を閉じ、あの重岩の上で、名を呼び合ったふたりの姿を思い浮かべた。

風に髪をなびかせながら、照れくさそうに、でも誇らしげに笑っていたふたり――

あの瞬間には、きっと、どうしようもないほどの喜びが満ちていたのだろう。

たったそれだけのことが、声に出せるということが、ふたりにとってどれほど大きな意味を持っていたのか――

今になって、ようやく少しだけ分かった気がした。

諒はハンドルを切り、車はゆるやかに住宅街を抜けていく。

「それで、これからどうするの?根元本家を調査するの?」

「いや、そこは義兄さんがしてくれてる」

「そうなんだ、お兄さんが。――そっか、よろしくお伝えください」

私は小首を傾げながら頭を下げた。

「どうした、急に改まって」

「ううん、ちょっとだけお世話になったことがあったから、そっか、私も挨拶しなくちゃだね」

諒の兄とは、諒が島を旅立った、あの日以来会っていない。

「ああ、義兄に言っとく」

あの、涙の日から今日までたどり着けたことが、なんだか不思議で。

思い出し笑いが込み上げる。

「ふふ」

「どした?」

「諒くん、ちょっとね、ドキドキしたよ」

「なにが?」

「その……妻って、呼ばれて」

「ああ、それは俺もだよ、妻って……なんかまだ、落ち着かないというか、でも、文菜って呼んでたいなって思ったよ」

「ふーん」

私は嬉しくてニコニコしながら諒の横顔を見つめた。

「やっぱり、妻って呼んだ方がいいのかな?」

こめかみに手を当て首を捻る諒の姿が、なんか、かわいく見える。

「ほら、紹介する時は、私だって、その主人ですって……」

言い掛けて思わず笑ってしまった。

「ほら、なんかおかしいだろ」

諒は我が意を得たりと言わんばかりだった。

「うん、そうだね、でもそういう時はね、ちゃんと言う。それ以外は諒くんのままが、私もいい」

「……そうだな」

なんてことない、ふたりだけの会話。

けれど、諒の心も、少しはやわらいでくれただろうか。私もそうだった。考えることや、不安に思うことはたくさんあるけれど、それでも、一緒に分かち合っていられる時間があるなら――たとえ一瞬でも、そんな瞬間を重ねていけたらと願う。

そのあと、待ち合わせ場所まで送ろうかという諒の申し出を、私はやんわり断った。

それよりも、少しでも長く一緒にいられる方が良かったから。

だから、「家まで送って」と甘えてみた。

そして、別れ際。

「気を付けてね」

「そっちこそ」

同じタイミングで声が重なったのが、なんだか嬉しくて。

車を降り、振り返って手を振った。

そして私は、いつもの玄関をくぐる。

家の中には、どこか馴染んだ匂い――洗剤と、お茶の香りが混じり合っていた。

リビングでは、母がテレビをつけたまま、洗濯物を畳んでいた。

画面には賑やかなバラエティ番組。タレントたちが笑い声を響かせていて、母もつられるように、口元をほころばせている。

「母さん、ただいま」

私が声をかけると、母は顔を上げて小さく首を傾けた。

「あれ?早かったのね」

「うん、これから亜希たちと会うから」

そう言うと、母は「ハハハ」と短く笑って、手元のタオルを丁寧に畳んだ。

「あのね」

言いかけると、母は私の顔をちらりと見て、話を挟んできた。

「……文菜時間あるなら手伝って」

「ああ、わかった」

私は肩からショルダーバッグを外してテーブルの上に置き、母の隣にちょこんと腰を下ろした。

膝の前には、取り込まれた洗濯物の山。

タオルやシャツからは、ふわりとお日様の温もりが残っている。

私はその一角からシャツを一枚手に取り、母の真似をするように、丁寧に袖をそろえはじめる。

「この芸人さん面白いのよ」

母はふと画面を指さしながら笑う。

「そう……」

私はそう返しながらも、手元の布の感触に集中していた。

シャツを畳んで脇に置き、次の洗濯物に手を伸ばす。

そのとき、母の手が私の手に触れかけて、動きが止まった。

一瞬の静寂のあと、母の視線が私の左手に吸い寄せられ、二度、三度と指輪を見つめる。

「それって……」

恥ずかしい訳じゃないけど、どこかくすぐったくて、スッと手を引いて膝の上に置いた。

「諒くんに、プロポーズされた」

「……」

母は黙ったまま、私の言葉を噛みしめているようだった。

「急だから……お母さんの指輪だけどって」

言葉を探すように、私は左手の指先で、そっと指輪の縁をなぞった。

「……」

「もちろん、オーケーしたよ」

母は何も言わず、ただじっと私を見つめていた。

テレビの中からは賑やかな笑い声が流れていたけれど、その音だけが、ぽつんと部屋に浮かんでいる気がした。

「でね、この休み中に、母さんと父さんに挨拶したいって」

そのときだった。

母は手にしていたタオルを顔に押し当てると、声を震わせて泣き出した。

「……よかった、良かったね文菜……ほんとに……良かった……」

鼻をすする音と、泣き笑いのような声が重なっていく。

何度も、何度も、母は同じ言葉を繰り返した。

「お母さん、ありがと、嬉しい事なんだから……泣かないでよ……」

私もつられて涙が出そうになるのをぐっと堪えながら、母の背中に手を当てた。

あたたかくて、柔らかくて――とても、愛おしかった。

「……ああ、父さんに電話する」

「え?」

「明日、ねっ、明日来てもらいなさい」

「え?」

「善は急げって言うでしょ!」

母は勢いよく立ち上がって、テーブルのスマホをつかんだ。

そのまま、その場でうろうろと行ったり来たり。顔を上に向けたり下に伏せたり、落ち着かない。

「……何で電話に出ないのよ……あのアンポンタンわ」

苛立った声がディスプレイにぶつけられ、母は頭をわしゃわしゃと掻きむしる。ふわりと髪が広がって、ライトに透けた。

「ちょっと、文菜、スマホ貸して」

「ああ、いいけど……」

私は立ち上がり、テーブルに置いたバッグからスマホを取り出して差し出す。

母はそれを受け取るなり素早く父の番号を押し、電話をつなぐ。

「ちょっと、あなた、なんで文菜からの電話には出て、私からのは出ないの!」

怒鳴るような声と、にじむ涙の声。

それが一つの部屋の中で、交差していた。

笑って、泣いて、苛立って、それでも――愛が溢れていた。

ひとしきり母のお小言が続いた後、神妙な声で私の一件を告げている。

「じゃあ、よろしくね」

電話を切ると、母は大きなため息をついた。

「明日の午前中に、家に来てもらって」

母は洗濯物の山の前にペタリと座る。

「はい」

「それとね、母さんはどうでもいいんだけど、出来れば諒くんに婿に入って貰えないか聞いてみてくれる?」

「あ、うん、でもどうして?」

「一応、真名井の家に続いてきたことなんよ、古い家系の家みたいでね。今どきどうだっていいと思うんだけど」

「そうか、父さんもお婿さんだったもんね」

母は、苦笑いを浮かべながらうなずくと、残った洗濯物に手を伸ばし始めた。

私も並ぶようにして、続きを畳みはじめる。

「強制じゃないから、母さんたちから話した方がいいなら、そうするけど」

「ううん、聞いてみる」

そっか、確かに昔は当麻氏という家。

「じゃあ、おばあちゃんもお婿さんとったの?」

「ん?そうだけど」

「お見合いだったのかな?」

「どうなんだろう聞いたことなかったから、分からないけど、縁談はあったみたいよ、おばあちゃんは若くして結婚したからね」

「そうなの?」

「そうよ、昔は結婚は早かったのよ、でもおじいちゃんは早くに死んじゃったから母さんもあまり覚えてないんだよね」

「……そうなんだ」

祖父は、私が生まれるずっと前に亡くなっていた。

仏壇に飾られている遺影も、まだ青年の頃のものだった。

だから、小さい頃は“おじいちゃん”という感覚が、今ひとつ実感としてなかった。

「おじいちゃんって、どんな人だったんかな」

「うーん。おばあちゃんが一緒になった人だから、優しかったんじゃないかな」

畳み終えた洗濯物を腕に抱え、母はすっと立ち上がる。

その背中を見送りながら、ふと気になったことを尋ねた。

「おじいちゃんの旧姓ってしってる?」

「ん?えーとね、高橋だったかな」

「そう……」

少しだけ、ほっとした。

すべてが“カゲヌシ”に繋がっていたら――

そんな世界は、あまりに重たくて、息が詰まりそうになる。

洗濯物を抱えながら、私は階段を上がっていく。

一歩ごとに、木の軋む音が足元に返ってくる。

昔から変わらないこの家の音に、どこか救われる気がした。

この静けさが、どうか長く続きますように――

心のどこかで、そんなことを願いながら。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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