やっと……
昼食を終え、時計の針はいつの間にか15時近くを指していた。
山肌を覆う木々の枝葉が風に揺れて波打ち、傾き始めた柔らかな光を反射している。
空に張られていた厚い雲の膜は消え去り、取り残された雲達は輪郭に陽射しを受けながら流れていく。
諒が運転する車は真っ直ぐに伸びる国道を走っている。その直線の先の坂道を上って峠を越えたら、瀬田町に入る。
私の視線は、前を見据える諒の横顔に自然と向いてしまう。これまでになく近く感じられて。視線に気づいた諒が、ふと笑みを浮かべた。
「ねえ、ちょっと気分転換に学校に寄ってみようか」
運転席からぽつりと諒が言う。声は軽やかで、どこか無邪気さが混じっていた。
「え?学校に寄り道?入れるのかな?」
驚き混じりに問い返すと、諒は肩をすくめて答える。
「分からない」
その返事に私は思わず首をかしげてしまった。
しばらくして、車は見覚えのある坂道をゆっくりと下り、校門脇の小さな来客用駐車スペースへと滑り込んだ。そこにはすでに一台の軽自動車が止まっている。
駐輪場には数台の自転車が静かに佇んでいた。
空はすっかり晴れ渡り、午前中のどんよりとした重さは消え、淡く柔らかな雲の切れ間から青空が顔を覗かせている。
開け放たれた校門を見つめながら、諒は迷いなく車のドアを開け、歩み出した。
「ちょ、ちょっと待って、諒くん!」
私は慌ててその後ろ姿を追いかける。
「俺たち、もうOBとOGだろ?」
振り返らずに言う諒の声は、どこか楽しげで弾んでいた。
「……まあ、そうだけど」
顔を少し赤らめながら、私は照れくささを隠すように返事をし、一歩ずつ校庭へと足を踏み入れた。
すると、空気がふっと変わった気がした。
――まるで、時間が巻き戻されたみたいだった。
左手には体育館があり、白い外壁が陽射しを反射してまぶしく光っている。
中からは、かすかにバスケットボールの跳ねる音と、部活中の生徒たちの掛け声が聞こえてきた。蝉の声がそれに重なる。
校庭を囲うように右手と正面に変わらない校舎。
その壁、体育館脇の古い桜の木、水飲み場の銀色の蛇口、花壇のひまわり――。風に乗って聞こえる蝉の声さえ、あの頃と変わらない気がした。
もう、八年も前のことなのに。
昇降口の下駄箱も、あの時のままだ。上履きの音、夕暮れの匂い、放課後の空気。それらが一気に押し寄せてきて、胸の奥がきゅうと切なくなる。
諒は迷いなく靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると階段を上っていった。私は遅れて、その背中を追う。
二階の廊下に出ると、教室の奥のガラス越しに海がちらりと見えた。廊下は午後の陽射しが僅かに差し込んでいて、ほこりがきらきらと舞っていた。
諒は迷いなく突き当りの図書室へと歩き、扉をゆっくりと開けた。きぃ……と古びた蝶番が軋む音がした。
室内は薄暗く、静かだった。光が窓から射し込み、机や本棚の輪郭を柔らかくなぞっている。
諒は棚を横目に見ながら、一冊の文庫本を手に取った。そして、まっすぐ窓際の席へと歩き、椅子を引く。
そこは、諒がよく座っていた席だった。
何も言わないけれど――その仕草は、「ここに座って」と言っているように見えた。
「……ありがと」
私は、ゆっくりと頷きながら、諒の向かいに腰を下ろした。懐かしい木の椅子の軋みが、思い出の引き出しをそっと揺らしたようだった。
「この本、覚えてる?」
諒が差し出してきた一冊。
表紙の色褪せた布張り。
『ふたりだけの画面』という、孤独で不器用な男の子と、メッセージアプリを通じて出会った女の子との、静かな交流の物語。ページをめくるたびに、触れられそうで触れられない距離が切なくて、ラストには胸がきゅうっと締めつけられたのを覚えている。
「主人公の男の子、諒くんに似てるなって……当時、そう思ったんだ」
懐かしさに誘われるように、私は目を細めた。諒は短く息を吐いて、肩を揺らすように笑った。
「……そんなこと、言ってたよな」
「覚えてたんだ……」
「そりゃあ……ね。……好きになった子が、言ったことだから」
その言葉に、一瞬、小さな花火が弾けたみたいに、心臓が跳ねた。
信じられないような、でもずっと待っていたような、嬉しさと戸惑いと、胸に手を添え鼓動をなだめるように、私は顔を上げた。
諒が少し照れくさそうにこめかみをかきながらも、まっすぐにこちらを見てくれている。
移ろう陽射しに輪郭が照らされ、まぶしさに細めた目の奥が、やさしく揺れていた。
「俺が文菜のことを気になり出したのは……神舞の日。あの白装束の舞に、目を奪われたんだ。無垢で、儚げで……でもその中に、芯の通った強さがあって。……安直かもしれないけど、綺麗だった」
思い出しているかのように、視線を上げながら話し、最後はしっかり目を見ていってくれた。
「ありがとう。うれしい」
心からそう思った。頬が少しだけ熱を持ち、私は小さく笑う。
諒は照れたように口角を上げ、軽く息を吐いたあと――ふいに、指で自分の頬をぱしんと叩いた。
「え……?」
一瞬驚いて見つめると、諒は少し頷いた。
「ここ。文菜が遠藤の頬を張ったとき。……あれ、ここから見てた」
私の胸がきゅっと音を立てた。あの空気。あの放課後。まるで時間が巻き戻されたみたいに。
そう、今くらいの時間帯。
「それから気がつけば、文菜のことを目で追ってたよ」
「……私も、知ってたよ。諒くんが見てたの」
「え?」
驚いたように、諒の目が少し見開かれる。
「だって、あの日月曜日だったから……図書室、行きたかったもん。諒くんがいるって、分かってたから」
「……そうか」
小さく、でも噛み締めるように諒が言った。
「あの日、遠藤君に呼び出されてね、まあ、そういう事なんだろうなっていうのは分かってた、きっぱり断るつもりだったからあそこで待ってた」
静かな図書室の空気のなかで、自分の声がやけに遠く聞こえた。
「案の定、来るなり、俺と付き合おうって。私はごめんなさい好きな人がいますって言ったら、乱暴に壁に押し付けられて」
諒の眉がぴくりと動く。
「誰だよそいつって、言いたくないって言ったら、そんなんいなんだろ、だったら付き合えって……」
私はふっと目を伏せる。
「私は……諒くんが、好きですって言ったの。そしたら……彼が諒くんのことを馬鹿にしたから、……頭に来ちゃって……」
膝の上でスカートの布をぎゅっと握りしめた。手のひらに熱がこもる。
「……それで、ビンタ?」
静かな声だった。
でも、そこには何か、強く脈打つような感情が含まれていた。
「……うん」
「そっか……でも、その時に俺の中で、何かが動いたんだ……」
その言葉と共に、静かな沈黙が訪れた。
時計の音も、風の音も聞こえない。ただ、斜陽の光だけが、そっと窓から差し込み、テーブルの影を長く伸ばしていた。
「俺、文菜に謝らないといけないことがあるんだ」
ふいに、諒が呟いた。
眼鏡を外し、指先でそっと目頭を押さえる。
その仕草は、まるで言葉を探す代わりに、感情を一度鎮めようとしているかのようだった。
その姿が、ひどく切実に見えて、私はほんの少しだけ息を飲んだ。
「……謝らないといけない事?」
「……どれから話せばいいか、わかんないけど」
私はそっと首を横に振る。
「いいよ、別に。無理に話さなくても」
そう言った自分の声が、少し震えていた。
本当は聞くのが怖かったからかもしれない。
けれど今、この空間と時間のなかで、諒がその言葉を選ぼうとしていること自体が――きっと、私にとってはもう十分だった。
それ以上は、今すぐじゃなくてもいい。私は傍にいるよ。
諒は鞄の中から封筒を一通取り出すと、そっとテーブルの上に置いた。
私の方に向けて――まるで手渡す代わりに、言葉の代わりに、そこにそっと滑らせるように。
封筒には、見覚えのある筆跡。
「香取諒様」と、私に届いたものと同じ赤黒い墨の達筆が、端正にこちらを睨むようにして構えていた。
少しだけ肩に力が入る。
――どういうこと? 思考が追いつかない。
けれど、なぜか不安はなかった。
緊張する体とは裏腹に、心はどこか穏やかだった。
諒が目の前にいる、その事実が、私を静かに支えていた。
「……これって?」
私の問いかけに、諒は静かにうなずいた。
「中、読んでみて」
私は両手で封筒を手に取り、その感触を確かめるように一度指先で撫でてから、丁寧に封を開ける。
中から出てきたのは、一枚の紙。
そこには、こう記されていた。
「君の過去を知らんと欲すれば求めよ。欲さざるは有り得ないと思うがね」
そして、署名のように記された「カゲヌシ」の名。
息を吸う音が、思ったよりも大きく聞こえた。
「……それから、さっきの本にある栞、見てくれる」
諒の声に促されて、私はテーブルの端に置かれていた本に目を移す。
指先でページをそっと開くと、そこに挟まれていたのは――忘れるはずのない、けれど心の奥底に沈んでいた、手作りの栞。
少し黄ばんだ布地に、確かに記された文字。
「影を追うものは、影に囚われる」
それは、諒の字だった。
懐かしくて、痛いほどに、私の記憶の底をかき乱す。
――私は、これを……覚えてたんだ。
目の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、顔を上げる。
諒は私の反応を、どこか心配そうに、けれど逸らさずに見つめていた。
「これが……話したい事?」
声が少しだけ震えてしまって、私は自分の膝の上で手を握った。
諒は小さくうなずき、目を伏せてから再びまっすぐに私を見た。
「そう。……少し長くなるけど、文菜には知っておいてほしい。……大切な人だから」
言葉の雫が体の奥の奥にポッと落ちて広がる。
それは、とても心地よい響きと震えとなって全身に伝わっていく。
その揺らぎはずっと諒の声をなぞるように、私の中の何かを呼び覚ますように。静かに確かに。
真っ直ぐな声音。
ほんのわずかに震えが混じっていて、それでも確かな覚悟が滲んでいた。
そのあとは、言葉が次々に紡がれていく。
産みの親と、育ての親のこと。
そこで交わされた、影のような言葉の数々。
自分の過去を探し続けていること。
失踪した男が「香取諒」を名乗っていたこと、それすらも彼と協力者による計画だったということ。
語られる真実は、あまりにも重たく、遠い。
けれど不思議だった。
諒の声は、痛みではなく静かな光のように、すとんと私の腑に落ちてきた。
私の知っている諒のままで、冷静に、誠実に、まるで手渡すように――私だけに向けて、語ってくれていた。
私はゆっくりと息を吐き、少しずつ視線を落としてから、深く息を吸って、もう一度諒の目を見た。
「……なんだ。びっくりした」
自然と笑っていた。
「私は、傍にいたいよ。……諒くんが見ようとしてるものを、私も一緒に見てみたい。……だって……諒くんは、大切な人だから」
自分の声が、思ったよりも震えていた気がして、少し恥ずかしかった。
でも、それが今の私の本音だった。
その言葉を口にした瞬間、何かが静かに確かに膨らんでいくのを感じた。
それは、ずっと心のどこかにあった、あいまいで形のない想いが、ようやく光を得て輪郭を結びはじめたような感覚だった。
諒の瞳を見つめると、その中に映る自分自身が、初めてはっきりと見えた。
「傍にいたい」──ただの願いではなく、もう疑いようのない、自分自身の深い確信であり覚悟だった。
それは、言葉にできない温かさと強さを伴い、心の隅々まで満たしていった。
諒は一瞬だけ、目を見開いた。
驚いたような、それでもすぐに、柔らかな笑みを浮かべてくれた。
私はその笑みに胸を打たれながら、ふと視線を落とす。
テーブルの上、諒の手元へ。
彼はゆっくりと息を吐き、迷うようにしていた手を、そっと裏返すようにして差し出した。
少しだけ、指先が震えているのがわかった。
私は自分の手を伸ばし、諒の手の上に、そっと重ねた。
ぬくもりが、伝わる。
「俺も、傍にいたい。一緒にいてほしい」
そう言って、彼の手がぎゅっと私の手を包んだ。どこか頼りなく、でも、必死に。
――ああ、これが“やっと”という感情なんだ。
胸の奥に、懐かしい痛みのようなものがじんわりと広がる。
高校の頃、ほんの少しだけ届きそうで届かなかった手。
あのときには踏み出せなかった、ほんの一歩。
それが、今こうして繋がった。
ノックし続けた扉が、ようやく――音もなく開いてくれた。
しかもそれを、諒が、私に向けて開いてくれた。
諒は何も言わず、ただ私を見ていた。
その瞳の奥には、幾重もの過去を背負いながらも、“今”を見ようとする強い意志があって、それがとても眩しく、胸に響いた。
この封筒も、栞も、「カゲヌシ」という名も。
きっとこれは、私たちが向き合わなければならないものの、ほんの始まり。
だけど、怖くはなかった。
――隣に諒くんがいるなら、私は進んでいける。
それでも、この時間だけは、もう少しこのままでいたかった。
テーブルの上には、重なったふたつの手の影が、やわらかく落ちていた。
どこかで風鈴の音が、かすかに鳴っていた。
それは、長い時を越えてようやく交わった、私たちの影の音だった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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