揺らされて
昼食は、土庄町にある「あじさい」というお店。
お寿司がメインではないけれど、店主がその朝に海で釣り上げた新鮮な魚介類をふんだんに使った定食が売りで、文菜は家族や友人と何回か足を運んだことがある。
味は勿論、店の雰囲気や女将の気さくな人柄がまた来たいと思わせる、そんなお店。
暖簾をくぐり、引き戸を開けると、ふわりと漂ってきたのは、潮の香りに炊きたての白飯、甘辛い煮つけが混じり合ったような、なんとも言えない食欲をそそる匂い。
ピークを過ぎた時間にもかかわらず、店内はほぼ満席だった。
木の柱と低い天井が、どこか昔懐かしい空気を醸している。
窓から射し込む柔らかな陽光が、床の上に淡い格子の影を落としていた。
それでも、予約していたおかげで、奥の座敷に通される。
靴を脱いで板張りの廊下を歩くと、足裏に心地よい冷たさが伝わった。
古い木造家屋特有の、乾いた木の匂いがほんのり鼻をくすぐる。
ふとカウンター席に視線を向けると、玲美と洋一の姿が見えた。
なんだ、上手くいってるんじゃん……
自然と微笑みが浮かび、諒の後を追って廊下を進む。
その途中、前から歩いてきた眼鏡の女性とすれ違った。
仄かに香水の匂いが漂う。
淡い黄色の照明が眼鏡に反射してぼんやりと光る。
一瞬、彼女は諒にウィンクをしたように見えた。
私の方にも、薄く笑みを浮かべたような気がする。
何か胸の奥に小さな波紋が広がる。
けれど、それが何の感情なのか、自分でもうまく掴めなかった。
振り返る間もなく、そのまま座敷へ。
廊下の突き当たり、静かな一角にあるテーブルに案内された。
掘りごたつ式の座敷には、小さな庭が見える窓があり、風に揺れる竹の葉が、時折さらさらと音を立てていた。
畳の感触が心地よく、思わず背筋が伸びる。
ランチの寿司定食を注文し、私は「ちょっとお手洗い」と席を立った。
廊下の先にある洗面所は、店の雰囲気に合わせた木造りで、ほんのりと芳香剤の香が漂っていた。
小さな窓から差し込む光が、すりガラス越しに淡くぼやけ、空間に柔らかな陰影を落としている。
水音と換気扇の微かな唸りだけが響く中で、私は鏡の前に立ち、滲んだ目元をそっと指先で整えた。
そのとき――
ふと鏡越しに、あの眼鏡の女性の姿が映り込んだ。
思わず、肩が小さく跳ねる。
彼女は腕を組み、黙ってこちらを見ていた。
照明に照らされて、レンズの奥の瞳が艶やかに光る。
化粧台に漂う香水の匂いが、空気をすっと切り替えるように強くなる。
私は鏡越しに軽く会釈した。
彼女は静かに微笑みながら、私の隣に立つ。
少し身を屈めて、鏡の中の私の横に顔を並べる。
「彼ね、この香水、好きって言ってくれたの」
耳元で囁く声は、洗面所のタイル壁に柔らかく跳ね返る。
胸がきゅっと縮こまり、私は反射的に彼女の横顔を見る。
凛とした輪郭。自信に満ちた眼差し。
それでも、どこか謎めいた影があるような気がして、目を逸らせなかった。
「でも、私はあなたの香水の爽やかな感じ、嫌いじゃないわ」
意味を測りかねて、唇を引き結ぶ。
何かを試されている気がした。
心の奥に、針で刺されたような不安が静かに沈んでいく。
伏し目がちに鏡を見る。
彼女は意味ありげに吐息をついた。
「私ね、彼に惚れちゃったかも」
まるで雑談でもするような軽い口調。
けれど、空気が一段冷えた気がして、思わず息を呑む。
鏡の中の自分が、小さく震えて見えた。
私は深く息を吸い、視線を上げ、ニコッと笑う。
「あなたはそれでいいんじゃないですか。私は、好きですから」
自分の声が、少しだけ震えていた。
心臓が早鐘を打つ。
顔が熱い。
けれど、その目を逸らさずに言えた。
鏡の中の彼女が、くすっと笑う。
「フフフ、かわいい。あなたって、反応が素直でいいわね。勉強になるわ」
自分の胸の内が、まるで見透かされているような気がして、思わず視線を落とした。
……何を知ってるの? 諒くんの、何を?
小さく唇を噛む。
声を張って言い返したい気持ちはあるのに、舌が重くて言葉が出ない。
こんなふうに自分の知らない誰かに、諒の名前を口にされるたびに、胸の奥で何かがざわめく。
その瞬間、彼女の指先が、洗面台に置かれたハンドソープのポンプを軽く押す音が聞こえた。
手の甲に泡を乗せながら、彼女は涼しい顔でそれを伸ばしていく。
まるで雑談の続きのように、気だるげな動きで指を絡ませるその様が、どこか演技めいているようにも見えた。
喉がかすかに鳴る。鼓動がせわしなく耳に響く。
落ち着かなきゃ、と何度も自分に言い聞かせても、心が揺れて止まらない。
水が彼女の手の泡を流していく。
彼女はハンカチを口に咥えたまま、ちらりとこちらを見て、微笑を深めた。
そのまま濡れた手を、ゆっくりと拭っていく。
そして、ほんの少しだけ顔を近づけて囁いた。
「でも、それ言う相手が違うんじゃない?」
囁かれた言葉が、耳の奥に残響のように残る。
また針が胸を刺す、思わず息が詰まった。
……なんで、こんな言い方。
意味ありげな微笑み。挑発するような口調。
この人はいったい何を求めて、こんなことを言うんだろう。
それでも、負けたくなかった。
目をそらさずに、声を振り絞る。
「……失礼ですけど、あなたは?」
彼女は、微かに息を吐いて、鏡の自分を眺めるように目を細めたあと、ふいにこちらへと目を向ける。
「そうだな、彼に聞いてみたら?」
その目はまるで、こちらの内心まで見透かしているかのようだった。
返す言葉を見つけられずにいると、彼女は私の髪に指を添え、優しく撫でた。
思わず背筋がぞくりとする。
まるで「私のほうがよく知ってる」とでも言いたげな手つきだった。
そして、もう一度微笑む。
「また会いましょう」
そう言い残して、背筋を伸ばすと、くるりと踵を返して洗面所を出て行った。
ドアが閉まる音が、空間に一度、小さく響いた。
……ふう。
私は息をひとつ吐き、もう一度、鏡を見る。
緊張で強ばった頬。潤んだままの目。
……どういうつもりだったんだろ。
問いは泡のように浮かんでは消え、私は揺れる心を抱えたまま、座敷へと戻った。
座敷の襖の前で、組みっぱなしだった手をゆっくりとほどいた。
ゆっくりと襖を開ける。
「お待たせ」
部屋の照明は、天井に吊るされた丸い和紙の灯りがひとつ。ほんのりとした橙色の光が、畳に柔らかな影を落としていた。
「おかえり」
諒はこっちを見上げると、どこか眩しそうに目を細め優しく微笑んだ。
私は腰を下ろし、うっすらと汗をかいたグラスに手を伸ばした。
指先に伝わる冷たさが、やがて喉をすべり落ちていく。
少しだけ、気分が落ち着いたように思えた。
両手でグラスを包み込むように持ち、そっとテーブルへと戻す。
すると、諒が何気ない調子で問いかけてきた。
「さっきすれ違った女の人知ってる?」
「え?……知らない……けど」
思いもよらない話題に、つい視線をそらして、脇にあったショルダーバックを軽く引き寄せる。
諒は無言のまま、鞄から何かを取り出してテーブルに置いた。
それは一枚の名刺。
そこには「飛田五月」という名前と電話番号、アドレスが記載されているだけ。
「これが、さっきの人……」
心のざわつきを悟られないように、視線を名刺に落としたまま動かさない。
「うん、今朝会ってね、そのおかしな話なんだけど、文菜の助けになれるっていうんだ」
お冷の氷がカランと音を立てた。
「……私のことを?」
意外な言葉に驚いて名刺を手に取る。ふと、あの人の匂いが蘇る。思わず名刺を鼻先に近づけていた。
「ああ、なんか珍しい癖のあるにおいだろ、何かダメなんだよね」
こめかみに手をやり、諒は鼻をしかめる。
「え?」
「ああ、文菜がつけてるのは、全然気になんないけど」
「そう……」
その言葉に、心が少し緩む。
諒は気まずそうにお冷を口に運んだ。その仕草が、どこか優しかった。
……じゃあ、あの人の言葉は、ただの戯れ?
「何の助けになるのか分からないけど、もしかしたら、文菜に会いにくるかもしれないと思ってね、まあ、ここにいたのは驚いたけど」
首をかしげながら、諒は考え込むような表情を浮かべる。
「……そう……でも、私の力って何だろう?」
「あれから、おかしな事はない?」
「……うん。ないかな」
「ならいいけど……まあ、一応用心しといて。さっきの人、ちょっと掴みどころないし」
「うん、わかった」
わざわざ私に言いに来たのはどうしてなんだろう。
諒が全く意に介していないという事は、五月が言ったことは嘘。
返事をしながら、心の奥で問いかけていた。
私は、何に揺さぶられたんだろう……
確かに彼女は美しくて、成熟していて、何かを知っているようだった。そして私の力になるって、どういう意味なの。
でも――
名刺をそっと伏せ、私は諒の顔を見た。
視線がぶつかったわけではない。ただ、彼の目元がふと緩んだ気がして、自然に言葉がこぼれる。
「……うん、大丈夫。私は、私だから」
私の気持ちは、誰のものでもない。
私のもの。
「どうした?」
諒が眉をわずかに持ち上げ、探るようにこちらを窺う。
「なんでもないよ。これからどうするの?」
軽く手を振って笑いながら、話題を変えた。
「ああ、調査の件は、今知り合いに確認中なんだ。連絡が来たら教える」
「うん。……せっかく、写真の送り主が分かるかもって思ってたから、ちょっと残念」
「まだ、諦めるには早いさ。けど、よくおばあさんの写真、見つけたな」
「あ……おばあちゃんの中学校の卒業アルバムに挟んであったんだ」
自分が諒との写真を、まるで宝物みたいに卒業アルバムに忍ばせていたこと。
それが、すべてのきっかけだったなんて――とても言えなかった。
「そうなんだ、でも何で高校のアルバムじゃなかったんだろ?」
「うーん……さっきの勝太郎さんの話、覚えてる? 二人って、高校に入ってからは人目を避けて会ってたでしょ? だから、きっと、中学の頃のほうが、純粋にいい思い出が多かったのかも」
「ふーん。なるほどな、そういうもんか」
諒は手元のグラスを指先でくるくると回す。
一瞬だけこちらを見たあと、その視線はふわりと遠くへ向かっていった。
「……分からないけどね、そんな気がしただけだよ」
私の言葉に諒は小さく、何度か頷いた。
「そうだ」
ふいに、諒がグラスから視線を外し、こちらを向いた。
「飯食ったら、寄り道してみないか?」
「え?寄り道?」
「そう、どこ行くかは、まだ考え中」
言いながら、諒は少し肩をすくめる。どこか照れを含んだその仕草に、思わず笑みがこぼれた。
「ふふ、なんか初めてだね……諒くんが、そんなこと言うなんて」
「たまには、いいだろ?」
静かに笑うその顔に、どこか決意のようなものを感じて、ほんの少し胸がドキッとした。
「うん、いいと思う。……でも、なんで急に?」
「さあな。なんとなく……今日は、そういう日って気がしたんだ」
「そういう日?」
「……うまく言えないけど。何かを思い出すには、ちょうどいい気がしてさ」
その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。
何を、思い出したいんだろう。何を、私に思い出してほしいんだろう。
私はそっとグラスに口をつける。薄い氷がカランと鳴り、淡く溶けていく。
ふたりで過ごした時間が、少しずつ、部屋の空気に染みこんでいた。
「……私も、そうかも」
小さく息を吐きながら、目を細めて言う。
「何年経っても、今日のことは思い出すと思う。ふたりでこんなふうに過ごしたこと、ちゃんと……私は忘れないよ」
「そう思ってくれるなら、よかった」
諒は、少しだけほっとしたように息を吐いた。
その静かな安堵の気配が、妙に優しくて。
ふと、目が合う。
逃げるでもなく、追いかけるでもなく——ただ、確かめるような視線。
視線を交わしたまま、ふたりとも言葉を選ぶように黙っていた。
けれどその沈黙には、どこか輪郭のある気配があった。
……言葉にできない何かが、そっとこちらへ差し出されているような。
声にしなくても、伝わってくることがある。
たとえば今みたいに。
……心の奥に、小さな予感が降りてくる。
きっと、何かが始まる。
ふいに、襖の向こうから足音が近づいてくる音がして、私たちは思わず微笑み合う。
「お待たせしました、寿司定食です」
仲居さんの柔らかな声とともに、湯気の立つ味噌汁の香りがふわりと広がる。
彩りの良い握りが並ぶ漆塗りの盆が、そっと目の前に置かれた。
「……わあ、きれい」
思わず声が漏れると、諒が目を細める。
「今日は、いい日にしよう」
その言葉に、私は頷いた。
「……うん。もう忘れられない、かな」
自分の声が、少しだけ震えていた気がして、照れ隠しのように箸に手を伸ばす。
でも、気持ちはきっと、ちゃんと伝わってる。
格子のついた窓の向こうから差し込む陽射しが、襖の縁にやわらかな影を落としていた。
光と影が交差するように、これからの時間も、きっと――
どこかで続いていく。
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