泣いてもいい
根元家をあとにして車に乗り込むまで、祖母の記憶の断片がずっと胸をよぎっていた。
文菜がシートに凭れると、諒は黙ってアクセルを踏んだ。
ゆっくりと流れていくフロントガラスの向こうの景色を見つめながらも、頭の中に映る映像は、祖母と高太朗の二人の会話と笑顔が巡っている。
みよ、こうたろうと呼び合い、空に思いのたけを叫んだあの声も。
車は、ほんの少しだけ進んだあと、ゆっくりと止まった。
そこは、小さな砂浜が見える場所だった。
曇り空の下、海は鉛色をしている。
低いエンジンの音だけが車内を包む。
まさか、祖母の想い人が若くして命を絶っていたなんて。
その事実は、胸に刺さるように痛かった。
互いを深く想い合いながらも、引き裂かれたふたり。
それでも祖母は、彼との記憶を、写真を残して、大切に持ち続けていた。
そこにあるのは決して忘れられない愛であり、きっと言葉にできない痛みだった。
そして――高太朗のやり場のない絶望。
彼は、どんな想いでこの世界から去ったのだろう。
私だったら――
愛する人を遺して、すべてを終えるなんて、できるのだろうか。
そう思うと、胸が張り裂けそうで、どうしようもなかった。
愛する人の不在も、想いが残る苦しさも、きっと想像すらできないほどに重かった。
気づけば頬を涙が伝っていた。
高太朗の遺影を見て、照れながら祖母の手を握る幸せそうな微笑みが思い起こされた。
どれだけ強く惹かれ合っていても、結ばれることのなかったふたり。
その事実が、まるで冷たい石のように胸にのしかかり息苦しくなる。
膝の上に置いた自分の手に、そっと温かい重みが加わった。
頼もしくて大きな手。
顔を上げようとしても、涙でにじんでよく見えない。
けれど、その沈黙が何よりも優しく感じられた。
言葉にしないことで、すべてをそっと受けとめてくれるようで――
「泣いていいよ」と、言葉にせずに伝えてくれている気がした。
涙が止まらなくなるのは、こんなふうに、静かに寄り添われたとき。
窓の外の海も、山も、空も。
どこか悲しげに見えた。
でも、隣にいる諒の存在が、深いところから私を支えてくれる。
崩れてしまいそうな心の欠片を、添えられた手のひらがそっとすくい上げてくれるようだった。
「……大丈夫。ありがとう」
かすれた声でそう言うと、諒はほんの少しだけ手に力を込めて、それから静かに離した。
ハンドタオルで涙を拭う。
フッと息を吸いこむ、沈んでいた気持ちが、少しずつ凪いでいく。
二人の恋は、結ばれなかった。でも、想いはきっと変わらなかった。
それは悲しい記憶だけれど――
私は今、幸せ。
そしてこれからも、きっと……
そう思いながら、私はゆっくりと息を吐いた。
顔を上げ、微笑みながら静かに問いかける。
「……そうしたら……私に送られた写真は、誰が持っていたの?」
諒は目を細めて、小さく頷き、静かに語り始めた。
「うん。いろいろ考えたんだけど――まず、勝太郎さんが嘘をついている可能性。つまり、写真が手元に残っていて、それを文菜に送ったってことになる。でも、さっきの様子を見る限り、わざわざそんなことをする理由が見当たらない。だからこれは違うと思う」
「もう一つは、第三者が持ち出した。勝太郎さんが気づかないうちに誰かが盗んだとしたら、その人はあの写真の存在を知っていなきゃいけない。でも……あれはふたりが高校生のときに密かに交際していた時期のもの。恋人だったことを知っていた人がいたとしても、写真の存在まで知っていた可能性は低い」
私は黙って聞いていた。諒の声が穏やかに、でも確かに私の中に落ちていく。
「で、残る可能性は、高太朗さんが誰かに写真を託した、ってこと。
死ぬほど愛した珠代さんの写真を、信頼できる誰かに預けた。……それが一番現実的だと思う。
でも、それでもやっぱり……自分の命を絶つ直前に、大切な人の写真を手放すってことが、本当にできるのかって。俺には、どうしても引っかかるんだよね」
「だから、さっき“友人は?”って聞いたんだ」
そうか――そこまで考えて、諒はあの質問をしてくれたのだ。
「まあね」
一つひとつをきちんと考えながらも、ちゃんと私の気持ちに寄り添ってくれている――その、柔らかくて静かな優しさが、確かにそこにあった。
言葉にしなくても伝わる安心感。それが諒という人なのだと、改めて思う。
「そうだ、あの儀式がどうのって言ってたのは?高太朗さんが残した置手紙の結界だっけ、それと関係があるの?」
「ああ、なんだろう、それっぽい場所があっただけ。関係があるかどうかは、正直分からない……」
諒は小さく首を振る。
「そっか……」
「ねえ、結界って、どんなものなんだろう。壊さなければ諦めるって……それ、どういう意味だったのかな?」
「……分からないな……結局……」
言い淀んだ諒は、口を真っ直ぐ結び、どこか言いにくそうに視線を落とした。
「結界」という言葉は聞いたことがある。
たしか昨日、畑先生が“重岩”もその一つだと話していた。
ただそれがどういうものなのか、私は知らない。
きっと……高太朗にとっては、祖母を諦める決意と引き換えにするほど、大切な意味があったんだと思う。
けれど、それでも……彼は……。
諒の視線を感じて顔を向けると、優しく眉を上げて、何か思い出したかのように、そっとほほ笑む。
それだけで、心がふんわり、ホッとする。
「文菜、どう? 昼……食べられそう?」
そうだった、お昼まだだったんだ。思い出した途端、じわっと空腹が戻ってきた。
「……うん。お腹、すいた」
ほんの少し笑えたのは、諒のおかげだ。
「じゃあ、何食べる?」
「そうだな……お寿司がいい」
すぐに決められたのは、祖母が好きだったから。
「オーケー。じゃあ……悪いけど、お店、調べてもらえる?」
「うん」
スマホを手に取りながら、諒の横顔をそっと見た。
目に見えない風が触れるように、やさしく心を撫でてく。
言葉よりもずっと深く、私の悲しみに寄り添ってくれていた。
ふと、カーナビが目に入る。
今いる場所は戸形崎―――
あっ……高太朗さんが入水した戸形の浜?
諒はその場所に来て車を止めた。
私は思う。
きっと諒も、同じように感じていたと。
この沈黙は――高太朗さんへの黙祷でもあったのだと。
私が言葉にできなかった痛みを、諒は理解してくれていた。
触れすぎず、離れすぎず――ちょうどいい距離感で。そこにいてくれた。
その置かれた温もりが、私の中に溶けていく。
「ありがとう……諒くん」
涙の奥からにじみ出るように、気づけば唇から零れていた。
諒は意図を察したのか分からないけど、照れくさそうにこめかみを掻いていた。
「今日は、泣いてばっかりだ……」
苦笑いしながらそう言うと、諒は少しだけ首をかしげて、微笑んだ。
「それでいいんだよ、今日は」
その言葉に、また涙がにじみそうになる。
「ずるいよ……」
ほんとうに、ずるいくらい優しいんだから。
「しょっちゅう言われる」
肩をすくめてそう言う諒に、思わず吹き出してしまった。
泣いてるんか笑ってるんか、分からんくなったけど。
確かなのは諒が私に寄り添ってくれたこと。
どんな顔をしてるかなんて関係なかった。
この瞬間を、大切にしたいって――ただ、それだけを思った。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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