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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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夢の舞台

挿絵(By みてみん)

三度目のリハーサルを終えた頃には、空はすっかり鉛色の重く垂れこめた雲に覆われていた。

社務所の脇に張られた簡易テント――体育祭で見かけるような、白地に校章が入った布地が風に揺れている――その中で、聡は栞と並んで腰を下ろしていた。

ひんやりとした風が、ふと袖口をすり抜けていく。

雨の匂いを含んだ空気が肌を撫で、鳥肌が立った。

「天気予報、晴れのち曇りって言ってたよね……?」

栞が小さくつぶやく。押し殺すような声だった。

私は頷くだけで応じた。言葉にすれば、不安が形になってしまいそうだったから。

周囲では、先輩たちが変わらず談笑している。

けれどその声は遠く、まるで別の世界の音のように聞こえた。

「雨や」

美樹先輩のひと言が、まるで鐘の音のように耳に響いた。

地面に、ぽつ、ぽつ――。

透明な斑点がゆっくりと増えていき、やがてそれがひとつに繋がる。

テントの屋根にも、雨粒が当たる乾いた音がリズムを刻み始めた。

見上げた空は重たく沈み、風の色も音も、すっかり変わっていた。

スタッフが慌ただしく動き出す。

機材を抱えて、お堂や社務所の庇へと走るその姿に、不安が胸に影を差す。

隣のテントでは、監督と津山さん、そしてスタッフ数人が小さな円を作って話し込んでいた。

「これはこれで、情緒があるかもな」

「最終リハも素材にできますが……」

「いや、客が入ってないから……」

ザーッという雨音が一気に濃くなった。

音が空気を満たしていく。

まるでこの場所だけ、時間が止まったみたいだった。

ふと足元を見ると、水たまりに景色が反転して映りはじめていた。

お堂の屋根、揺れる木の枝、そして、私たち。

「撮ろう。準備してくれ」

監督の一言に、張りつめていた胸の奥の影がスッと消えた。

ほっとして息を吐いた私の視界に、津山さんがピースサインを送ってくるのが見えた。

スタッフの何人かは傘もレインコートも着ずに、雨の中を駆け回って準備を始めている。

「じゃあ、行きましょう」

そう声がかかり、スタッフが大きな傘を差し出してくれる。

その下に身を滑り込ませながら、私は栞と顔を見合わせる。

「……行こっか」

「うん」

袴が濡れないよう、両手でそっと裾をすくい上げる。

足元を確かめるようにして、六角堂へと向かった。

舞台にあたる床の上では、奏者たちも準備を始めている。

笙に篳篥、横笛の音が静かに試され、雨音と不思議に調和していた。

「あーちゃん、がんばろうね」

「しーちゃん、ありがとう。まさかこんなに早く神舞が踊れるなんて、しかも一緒に」

「こっちこそ。……舞って、案外面白い」

栞の差し出してきた手を、私はそっと取った。

冷たい。けれど、その手は少しだけ震えていて、それがかえって心強かった。

「……緊張してる?」

「してる。あーちゃんは?」

「してる」

顔を突き出し合って、ふたりで笑った。

その笑いも、少し震えていたけれど、間違いなく本物だった。

「じゃあ、準備お願いしまーす」

スタッフの声がかかった。

「聡ちゃん、栞ちゃん」

美樹先輩が手招きをする。

「みんな手を出して」

美樹先輩がスッと手を出す。

その手の上に香先輩の手が重なる。

私も手を出し、その上に栞の手が重なる。

「うちらで、最高の神舞、みんなに見せてあげよう」

ニコニコと眩しいくらいの美樹先輩の笑顔。それを見たら、自然と笑っていた。

「じゃあ、みんなでがんばろう!」

美樹先輩の掛け声で、全員がその手を挙げて声を出した。

「おー」

フワッとした和やかな空気が私達を包む。

それを噛みしめながらゆっくり歩く。

舞台中央の床にある、緑色のビニールテープで張られたバツの目印。

私の立ち位置。

それが神聖なものにさえ思える。

その上に、私はそっと足を揃える。

木の床が、ほんのりと冷たくて心地よい。

六角堂の屋根に弾ける雨音だけが聞こえる。

雨が滔々と降り続ける中で、心の奥が澄んでいくようだった。

私たちは、いまここに立っている。

何かを受け継ぐように、何かを守るように。

その始まりの、ほんの手前にいた。

雨の影響で見物客は少し減っていて、境内には、ぽつぽつと傘の花が咲いていた。

色彩が抜け落ちたような世界に、それらだけが妙に鮮やかに浮かび上がって見える。

私たちは、右から私、栞、香先輩、美樹先輩の順に並び、濡れた石畳の向こう、正面を見据えた。

小さく深呼吸をする。舞台に立つたびに繰り返してきた所作。けれど今日は、それがいつも以上に意味を持っていた。

「いきまーす。シーン130、5、4、3、2――」

カチン。

乾いた拍子木の音が、湿った空気に静かに響いた。

その直後、笛と笙の音が、雨に負けじと空に鳴き始める。

ゆったりとした旋律に合わせて、身体を滑らせるように動かす。

不思議なほど、これまでで一番、心にゆとりがある。

名もなき巫女の私なりの解釈。百々楚姫の想い。

監督の言葉。今見に来てくれている人。

この舞台に立たせてくれた人。

支えてくれた人。

その人達のために、神舞を舞う。

そして踊っている時の自分が好きを、この舞に重ねて乗せて。

届けたい。

雨は止まない。

でも、むしろこの雨が、余計なものを削ぎ落してくれているよう。

栞との息は、ピッタリ。

装束も体の一部のように裾や袖が舞う。

集中してる。心地いい。

ただ表情には出さない。

飽くまでも切なげに。

やがて後半に入り、旋律が速くなる。

動きに合わせて、熱と汗がひと筋、額を走り、袴の襞へと染み込んでいく。

世界が躍動しているよう。

心が跳ねる。

音が柔らかく伸びて、緩やかになる。

扇を上下に動かしながら、私はふと視界の端で、水たまりに反射する空を見た。

――あっ。

そのとき、不意に乳白色の光芒が雲間から差し込んだ。

反射した光が、ぬれた石畳の上をゆっくり近づいて来る。

そして扇を高く掲げた、その瞬間。

まるで願いが天に届いたかのように、六角堂全体が、淡く、眩しく、光に包まれた。

「カーット!」

世界が、ゆっくりと息を吐いた。しばしの静寂――そして、

「オッケーです!」

その声が境内に響き渡ったとたん、拍手とどよめきが広がった。

「あーちゃん、やったね!」

隣で栞が、小さく声を弾ませて、私の手をぎゅっと握る。

その瞳は、涙ぐんでいるようにも見えた。

私も、堪えきれずに笑う。

――夢のようなひとときだった。

ふと、視線の先、人垣の奥に立つ二つの影が目に入った。

言葉にできない何かが、ざわわと、風に煽られた木の葉のように揺れる。

……あの人。

隣にいるのは、女性? 綺麗な人。

また、知らない感情がそっと波立つ。理由はわからない。

「あーちゃん、おじいちゃんが呼んでるよ」

栞の声に、はっと我に返る。

「あ、うん」

後ろ髪を引かれながら、もう一度人垣を探したけれど、二人の姿は見つからなかった。

どこかに紛れてしまったように。

「見事だったね」

津山さんの声に、振り返る。

その目は穏やかに細められ、優しく私たちを見ていた。

「ありがとう、おじいちゃん」

「ありがとうございます」

栞と顔を見合わせて、揃って頭を下げた。

境内にはまだ拍手が残響のように漂い、空気の奥に熱があった。

雨足は弱まったけど、熱気に蓋をするように雲はあり続けていた。

そのあと、監督の厚意で、最後のシーンをモニターで見せてもらった。

映像の中の私は、悲し気で儚さを浮かべた表情で舞っている。

栞とはもちろんだけど、先輩達とも動きがリンクしていて感激した。

そして終盤に扇を上下に動かしはじめた瞬間に、スッと光が差し込む。

境内全体に天の光が降りてくるようだった。

その光の筋は、まるで舞に導かれるようにゆっくりと移動し、扇を高く掲げた瞬間、お堂全体が――神の息吹が降りたかのように――光に包まれていた。

見ていたみんなが歓声を上げる。

幻想的で、夢のような映像だった。

でも、一番の感動は、自分の内面の想いが、表に出ていなかったことだった。

名もなき巫女を、自分なりに、きちんと演じきれた――その喜びが、嬉しくてたまらなかった。

自分でちゃんと噛み砕いた魂を、この舞に乗せることができた。それは、私に関わってくれたすべての人への、感謝の気持ち。

今の私が、少しだけ誇れるような「精一杯の想い」を、ちゃんと届けられたと思う。

津山さんは、私たちの前でご機嫌な様子で腕を組み、役柄のままの長い顎ひげを撫でながら、

「いや、これは名シーンになる。君たちの舞、素晴らしかったよ」

まるで我が事のように、誇らしげにそう言った。

そして目尻を下げ、仏さまのような、優しすぎる顔で私たちを見つめる。

「……うん、いい土産ができたよ。ありがとう」

そう言って、私と栞の肩をポンポンと軽く叩いた。

けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさが混じって見えたのは――気のせいだったのだろうか。

それとも、私の気持ちが、そう見させたのかもしれない。

ひとつの役目を終えた後の、静かな波が引いていくような、名残と余韻だけが残った。

でもこの一瞬だけは、どうか忘れずにいたいと思った。

どんなに時が過ぎても、心の奥にそっとしまっておけるように。

いつの間にか止んでいた雨。

神舞のさなかだけ降り続けていた。

雨音の代わりに、風がほんの少し、装束の袖を揺らした。

それは、見えない誰かが「よくやったね」と囁いたようにも感じられて、

私はただ、そっと目を伏せた。

それはまるで、夢の幕が、静かに下りていくようだった。

そしてそれは、終わりの訪れだと知らせる、静かな風だった。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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