名もなき巫女
檜の香りがかすかに満ちていた。
瀬田神社の社務所の廊下には、出演者の名前が書かれた張り紙が並び、関係者らしき人たちが静かに行き来している。
足音も、囁き声も、どこか控えめに抑えられていて、その空間ごと深呼吸をしているみたいだった。
私たちが案内されたのは応接室。
「ここで待ってて下さい」と声をかけたスタッフが引いていくと、再び静寂が戻ってきた。
栞と並んで腰を下ろす。ソファの座面が、ゆっくりと沈んだ。
「緊張してる?」
隣から、栞の小さな声。
目を向けると、栞の視線はまっすぐで、少しだけ揺れている。
思わず笑みがこぼれそうになって、私はそっと首を振った。
たぶん、緊張してるのは、私より栞のほうだ。
でも、そんなふうに声をかけてくれることが、すごく嬉しい。
窓から差し込む光が、壁の一角を淡く照らしていた。
応接室の入口が開け放たれたまま、小林監督が現れる。
私たちは揃って立ち上がり、
「おはようございます」
と声を合わせると、監督は帽子のつばを少し上げて笑った。
「おはよう、いいね」
そのままソファに腰かけた監督に合わせて、私たちも再び座る。
最初は気をほぐすような雑談が続いた。
やがて、少し空気が落ち着いたところで、監督が役柄のテーマについて静かに口を開いた。
「笑ってはいけない。儚げに、切なく」
それだけだった。
でも、その一言に、この舞に込める想いのすべてが含まれているような気がした。
たとえば、過去を背負う誰かの影、届かぬ祈り、あるいは別れの予感。
何かを想う、その切実さこそが、この舞の本質なのかもしれないと思った。
そもそも神舞は神の化身である巫女が、人々のために舞を奉納するというもの。
私は監督の言葉と神舞の精神を自分なりに嚙み砕く。
監督は「じゃあ、後でね」と言って膝を軽く叩き、立ち上がった。
部屋を出ていくその背を見送りながら、私は深く息を吸う。
それを見計らったかのように、先ほどのスタッフが現れ、私たちを奥座敷へと案内した。
「こちらで、メイクと着替えをお願いします」
腰の低そうな彼は、私たちにも丁寧に頭を下げると、小走りに廊下を駆けていった。
奥座敷は、畳の匂いに包まれ、どこか懐かしい空間だった。
カーテンが閉めきられた部屋の奥には、私のための上下白一色の装束と、栞のための赤と黒の神舞独自の巫女装束が、衣紋掛けに丁寧にかけられている。
天井の明かりに照らされながら、まるでこれから舞う私たちの姿を見守っているかのように、そこに清らかに佇んでいた。
その隣には大きな鏡が二枚置かれていて、傍にいた着付けのスタッフが声をかけてくる。
私服から装束へと着替えると、装束の襟元を整えて鏡を覗き込んだ。
鏡の中には、一人の名もなき巫女の少女が立っていた。
ウィッグをつけた腰までの黒髪が、いつもより少し重たく感じる。
指でそっと髪をすきながら、自分を見つめる。
ふと、柔らかく微笑んでみた。
えくぼが浮かぶその顔が、少しだけ誇らしげに笑い返す。
そのとき、隣にいた栞が顔を寄せてきた。
鏡の中に並んだふたつの顔。
栞の笑顔がふわりと咲く。
肩がかすかに触れ合い、そのぬくもりが伝わった。
「やっぱり、あーちゃんかわいい」
「え?そうかな。しーちゃんだって、きれいだよ」
鏡越しに見つめ合い――
そして、ふたりで爆笑した。
やっぱり――巫女装束に身を包むと、心も体も落ち着く。胸の奥の違和感も静かにしていてくれる。
まるで装束そのものが、私を守ってくれているような気さえした。
昨日と同じメイク担当の女性が、柔らかく微笑んで近づいてくる。
「今日もよろしくお願いしますね」
化粧道具が肌をそっと滑り、白粉の匂いが静かに鼻をかすめる。
鏡の中の自分が、少しずつ「私」でなくなっていくような、名もなき巫女に命が吹き込まれるような気がする。
「今日もバッチリ、頑張れ!」
スタッフの明るい声に背中を押されるように、私は鏡の奥に目を凝らす。
映っているのは、生まれ変わった「私」。
あとはこの姿に、心を宿すだけ。
名もなき巫女の魂を、私自身で吹き込むだけ。
隣の栞のメイクが終わるまで、鏡の中の自分と見つめ合っていた。
そして、栞と一緒に立ち上がり、奥座敷を後にする。
「私、ちょっと緊張してる」
栞は口元に両手を合わせてはにかんだ。
「え?あれだけ人前でダンスしてるのに?」
「ああ、だってあれは自分一人でやってるからね」
「そんなふうにはみえないけどな、しーちゃん踊り出したら別人みたいだもん」
「そう?でも昨日より、いい顔してる。あーちゃんは本番に強いタイプだね」
「それ、プレッシャーにならないように言ってる?」
「ううん、ほんとにそう思ってるよ」
栞は肩をこつんとぶつけてきた。
社務所の戸を開けて、境内へと出る。
空は一面、鈍色の雲に覆われていた。陽射しは影を潜め、空気はどこか湿り気を帯びて重たい。
風はなく、神社の木々はそっと身じろぎもしない。時間がぴたりと止まったよう。
風も、空も、私の内側も――すべてが妙に静まり返っている朝だった。
境内に立つ自分の呼吸さえ、やけにくっきりと聞こえる気がする。
六角堂の舞台に目を向けると、すでに巫女装束姿の先輩たちが、談笑している姿が見えた。
相変わらず綺麗で、どこか神々しく思える。
先輩達に挨拶をすると、私のことをちゃんと覚えていてくれていて、それが本当に嬉しかった。
「あなた、あの時、教室まで会いに来てくれた……聡さんだよね。すごいね、スカウトされたんでしょ? こちらこそよろしくね、聡さん、栞さん」
香先輩の瞳は真っ黒で、まるで夜空のように深く澄んでいた。見つめられると、どこか落ち着く。言葉にしづらいけど、そばにいると安心できた。
「うちらの舞、見てやりたいって思ったんやろ? 頑張ろうな、聡ちゃん、栞ちゃん」
美樹先輩の笑顔は太陽みたいにあたたかくて、照らされた心の奥が、ぽかぽかとほっこりする。
まるで、月と太陽のような先輩達。曇り空の下でも、すっと光が差し込むように。二人の声が、空気ごとやわらかくしてしまう。
やさしく心がほどけていく瞬間を、私はちゃんと覚えていたいと思った。
私も、ここにいていいんだって、そう思わせてくれる。
やがて、まずはテストで一度、神舞を踊ることになった。
舞台の周囲では、撮影スタッフたちが忙しなく動き回っている。
大きなレフ板を抱えたスタッフが角度を調整し、照明が慎重に設置されていく。その光が舞台を淡く照らし出し、仄かな神秘性を演出していた。
私は舞台の端に立ち、呼吸を整えた。
緊張感すら溶かしてしまうような、深い静けさ――
手のひらに汗が滲んでいる。怖くはない。
今、この場所に立てていることが、ただ純粋に嬉しい。
境内には、コーンとロープで区切られた見物スペースが設けられていて、思っていた以上の人出があった。
本番ではエキストラも兼ねて、六角堂の周囲に観客を入れるらしい。
どうりで皆、どこか昔の衣装のような服を身にまとっている。色味も形も現代のものとは少し違っていて、まるで、現実の世界の外へ一歩、踏み出してしまったかのような、その時代にタイムスリップしたかのように思えた。
テストでは、監督から言われた“儚げに、切なく”という言葉を意識しすぎてしまって、自分の中の動きがどこか小さくまとまってしまった気がする。
舞いながらも、身体の奥にこわばりが残っているのがわかる。
そのせいか、装束までもがやけに窮屈に感じられ、長い袖や襟元に汗がじっとりとにじんで、布が肌にまとわりついてくる。
私はまだ、「物語の中の巫女」になりきれていない――そんなもどかしさが胸に引っかかっていた。
テストが終わると、スタッフがタオルで汗をそっと拭ってくれた。その仕草に少し照れながらも、ちょっとしたお嬢様気分味わう。
栞はお堂の隅で、黙々と動きを確認していた。静かな集中の気配が、その姿から滲み出ている。
一方、香先輩と美樹先輩は、お堂の外の椅子に腰かけて、お喋りをしながらリラックスしていた。
私は、人波の向こうに慎哉の姿を探した。
けれど、想像以上の人が集まっていて、見覚えのある顔はすぐには見つけられなかった。
頭上には、変わらず灰色の空が広がっている。
スタッフから声がかかり、神舞以外のいくつかのシーンも撮影された。
神主役の津山さんと共に、舞の前に行う儀式の場面。
「これか?付け髭。よくできてるよな」
津山さんは、顎の下に伸びる髭を絞るように撫でていた。
けれど、カメラが回ると、さっきまでの飄々とした雰囲気が一変する。
目の色が変わり、佇まいが締まる。
たった一瞬で、そこには“本物の神主”が立っていた。
言葉にしがたい威厳があり、見ているこちらの背筋も自然と伸びてしまう。
「カット」の声がかかると、また元のおじいちゃんに戻っていた。
プロのやるきスイッチのオン・オフの上手さを思い知る。
「君達の舞、楽しみなんだ、肩の力抜いて、気をいれるんだよ」
そう言いながら、お腹のあたりをぽんぽんとさすっていた。
先輩達とも顔見知りのようで、杵築八雲さんを交えてなにやら話していた。謎多きおじいちゃん。
続いて、杵築八雲さんとの撮影。
八雲さんが私たちの前に立つだけのシーン。台詞はない。
撮影場所を変えながら、同じシーンが何度も繰り返し撮影された。
それだけなのに、八雲さんが立つと、空気が変わる。
凛とした立ち居振る舞いに、音が遠のき、空の色すら濃くなる気がした。
その存在だけで、まるで場が息を呑んでいるようだった。
撮影が終わった後、栞と一緒に思いきって握手を求めると、笑顔で応じてくれて――
「ありがとう。神舞、頑張って、楽しみにしています」
やさしい声までかけてもらえた。
同世代とは思えない、所作から滲み出る包容力。
私たちはポッと見惚れていると、八雲さんは軽く手を振って、また別の撮影場所へと向かっていった。
背筋の伸びた後ろ姿を、ただ無言で見送る。
あんなふうになりたい、と思った。
誰かの前に立つだけで、場の空気を変えてしまうような――そんな強さと静けさを持った人に。
でも、それと同時に、自分には遠すぎるような気もした。
手を伸ばしても、届くかどうか分からない。雲の上の人みたいで。
それでも、たとえ届かなくてもいい。
少しでも近づきたい。
今は、そう思った。
テレビ画面の向こう側の人が目の前にいる。
本物の役者たちと同じ空間に立ち、共に物語を演じている――
それはまるで、自分が本当にこの物語の登場人物になったような錯覚を覚える。
背筋にひやりとした緊張が這い上がっていく。
けれど、それは嫌な感覚ではなく、
むしろ心地よい。
物語の中で生きている――――
今はただ、それが嬉しかった。
それでも、気づけば目は合間合間に人だかりを追ってしまっている。
――慎哉の姿を、探して。
こんなにも探してしまう自分が、少し恥ずかしい。
でも、きっと。どこかで見てくれていたら、それだけで頑張れる気がする。
けれど、曇り空の下に広がる人の波に、その姿を見つけることはできなかった。
「10分休憩入りまーす」
スタッフの声が飛ぶと、張りつめていた空気がふっと緩み、辺りに人々の息遣いが戻ってきた。
私はぼんやりと空を仰ぎ、長く息を吐く。
曇天の空は分厚く、どこまでも均一で、世界全体が灰色の薄い膜に包まれているようだった。
背後から柔らかな声が届く。
「あーちゃん、大丈夫?」
「ん? なにが?」
振り向くと、栞が眉を心配そうにひそめていた。
「なんか元気ない」
「そう?」
「うん……なんか、寂しそうに見える」
私は少しだけ口元を緩めた。
「ほんと?」
「え?」
「ほら、監督が儚げに、切なげにって言ってたでしょ。どうしたらできるかなって、テンションを落としてた」
「……ああ、そうだったんだ」
栞の表情がふわりと緩む。安堵したような、それでいてちょっと呆れたような、けれどどこか嬉しそうな。
「じゃあ、今のこの感じでいこう」
両手を腰に当て胸を張る。
「ふふ、あーちゃん、もう役になりきってる」
栞が小さく笑った。その瞳が、少し湿った曇り空を映しているように見えた。
「そうだよ。せっかくだから、楽しみたい。しーちゃんが教えてくれたでしょ」
「え? 私が?」
「そうだよ」
そう言いながら、私はそっと栞の手を取った。冷たくはない。ほんの少し、緊張の汗を帯びた手。
「ありがとうね」
栞は少し照れくさそうに笑い、小さく眉を上げた。
その時だった。
「リハ、行きまーす!」
スタッフの大きな声が境内に響いた。
「よしっ!」
お互いの手を強く握り合い、私たちは顔を見合わせる。
笑顔と気合と、そしてちょっとだけ震える期待を込めて――
この曇り空の下、また物語の中へ踏み出していった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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