表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カゲヌシ  作者: ぽんこつ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/95

名もなき巫女

挿絵(By みてみん)

檜の香りがかすかに満ちていた。

瀬田神社の社務所の廊下には、出演者の名前が書かれた張り紙が並び、関係者らしき人たちが静かに行き来している。

足音も、囁き声も、どこか控えめに抑えられていて、その空間ごと深呼吸をしているみたいだった。

私たちが案内されたのは応接室。

「ここで待ってて下さい」と声をかけたスタッフが引いていくと、再び静寂が戻ってきた。

栞と並んで腰を下ろす。ソファの座面が、ゆっくりと沈んだ。

「緊張してる?」

隣から、栞の小さな声。

目を向けると、栞の視線はまっすぐで、少しだけ揺れている。

思わず笑みがこぼれそうになって、私はそっと首を振った。

たぶん、緊張してるのは、私より栞のほうだ。

でも、そんなふうに声をかけてくれることが、すごく嬉しい。

窓から差し込む光が、壁の一角を淡く照らしていた。

応接室の入口が開け放たれたまま、小林監督が現れる。

私たちは揃って立ち上がり、

「おはようございます」

と声を合わせると、監督は帽子のつばを少し上げて笑った。

「おはよう、いいね」

そのままソファに腰かけた監督に合わせて、私たちも再び座る。

最初は気をほぐすような雑談が続いた。

やがて、少し空気が落ち着いたところで、監督が役柄のテーマについて静かに口を開いた。

「笑ってはいけない。儚げに、切なく」

それだけだった。

でも、その一言に、この舞に込める想いのすべてが含まれているような気がした。

たとえば、過去を背負う誰かの影、届かぬ祈り、あるいは別れの予感。

何かを想う、その切実さこそが、この舞の本質なのかもしれないと思った。

そもそも神舞かまいは神の化身である巫女が、人々のために舞を奉納するというもの。

私は監督の言葉と神舞の精神を自分なりに嚙み砕く。

監督は「じゃあ、後でね」と言って膝を軽く叩き、立ち上がった。

部屋を出ていくその背を見送りながら、私は深く息を吸う。

それを見計らったかのように、先ほどのスタッフが現れ、私たちを奥座敷へと案内した。

「こちらで、メイクと着替えをお願いします」

腰の低そうな彼は、私たちにも丁寧に頭を下げると、小走りに廊下を駆けていった。

奥座敷は、畳の匂いに包まれ、どこか懐かしい空間だった。

カーテンが閉めきられた部屋の奥には、私のための上下白一色の装束と、栞のための赤と黒の神舞独自の巫女装束が、衣紋掛けに丁寧にかけられている。

天井の明かりに照らされながら、まるでこれから舞う私たちの姿を見守っているかのように、そこに清らかに佇んでいた。

その隣には大きな鏡が二枚置かれていて、傍にいた着付けのスタッフが声をかけてくる。

私服から装束へと着替えると、装束の襟元を整えて鏡を覗き込んだ。

鏡の中には、一人の名もなき巫女の少女が立っていた。

ウィッグをつけた腰までの黒髪が、いつもより少し重たく感じる。

指でそっと髪をすきながら、自分を見つめる。

ふと、柔らかく微笑んでみた。

えくぼが浮かぶその顔が、少しだけ誇らしげに笑い返す。

そのとき、隣にいた栞が顔を寄せてきた。

鏡の中に並んだふたつの顔。

栞の笑顔がふわりと咲く。

肩がかすかに触れ合い、そのぬくもりが伝わった。

「やっぱり、あーちゃんかわいい」

「え?そうかな。しーちゃんだって、きれいだよ」

鏡越しに見つめ合い――

そして、ふたりで爆笑した。

やっぱり――巫女装束に身を包むと、心も体も落ち着く。胸の奥の違和感も静かにしていてくれる。

まるで装束そのものが、私を守ってくれているような気さえした。

昨日と同じメイク担当の女性が、柔らかく微笑んで近づいてくる。

「今日もよろしくお願いしますね」

化粧道具が肌をそっと滑り、白粉の匂いが静かに鼻をかすめる。

鏡の中の自分が、少しずつ「私」でなくなっていくような、名もなき巫女に命が吹き込まれるような気がする。

「今日もバッチリ、頑張れ!」

スタッフの明るい声に背中を押されるように、私は鏡の奥に目を凝らす。

映っているのは、生まれ変わった「私」。

あとはこの姿に、心を宿すだけ。

名もなき巫女の魂を、私自身で吹き込むだけ。

隣の栞のメイクが終わるまで、鏡の中の自分と見つめ合っていた。

そして、栞と一緒に立ち上がり、奥座敷を後にする。

「私、ちょっと緊張してる」

栞は口元に両手を合わせてはにかんだ。

「え?あれだけ人前でダンスしてるのに?」

「ああ、だってあれは自分一人でやってるからね」

「そんなふうにはみえないけどな、しーちゃん踊り出したら別人みたいだもん」

「そう?でも昨日より、いい顔してる。あーちゃんは本番に強いタイプだね」

「それ、プレッシャーにならないように言ってる?」

「ううん、ほんとにそう思ってるよ」

栞は肩をこつんとぶつけてきた。

社務所の戸を開けて、境内へと出る。

空は一面、鈍色の雲に覆われていた。陽射しは影を潜め、空気はどこか湿り気を帯びて重たい。

風はなく、神社の木々はそっと身じろぎもしない。時間がぴたりと止まったよう。

風も、空も、私の内側も――すべてが妙に静まり返っている朝だった。

境内に立つ自分の呼吸さえ、やけにくっきりと聞こえる気がする。

六角堂の舞台に目を向けると、すでに巫女装束姿の先輩たちが、談笑している姿が見えた。

相変わらず綺麗で、どこか神々しく思える。

先輩達に挨拶をすると、私のことをちゃんと覚えていてくれていて、それが本当に嬉しかった。

「あなた、あの時、教室まで会いに来てくれた……聡さんだよね。すごいね、スカウトされたんでしょ? こちらこそよろしくね、聡さん、栞さん」

香先輩の瞳は真っ黒で、まるで夜空のように深く澄んでいた。見つめられると、どこか落ち着く。言葉にしづらいけど、そばにいると安心できた。

「うちらの舞、見てやりたいって思ったんやろ? 頑張ろうな、聡ちゃん、栞ちゃん」

美樹先輩の笑顔は太陽みたいにあたたかくて、照らされた心の奥が、ぽかぽかとほっこりする。

まるで、月と太陽のような先輩達。曇り空の下でも、すっと光が差し込むように。二人の声が、空気ごとやわらかくしてしまう。

やさしく心がほどけていく瞬間を、私はちゃんと覚えていたいと思った。

私も、ここにいていいんだって、そう思わせてくれる。

やがて、まずはテストで一度、神舞を踊ることになった。

舞台の周囲では、撮影スタッフたちが忙しなく動き回っている。

大きなレフ板を抱えたスタッフが角度を調整し、照明が慎重に設置されていく。その光が舞台を淡く照らし出し、仄かな神秘性を演出していた。

私は舞台の端に立ち、呼吸を整えた。

緊張感すら溶かしてしまうような、深い静けさ――

手のひらに汗が滲んでいる。怖くはない。

今、この場所に立てていることが、ただ純粋に嬉しい。

境内には、コーンとロープで区切られた見物スペースが設けられていて、思っていた以上の人出があった。

本番ではエキストラも兼ねて、六角堂の周囲に観客を入れるらしい。

どうりで皆、どこか昔の衣装のような服を身にまとっている。色味も形も現代のものとは少し違っていて、まるで、現実の世界の外へ一歩、踏み出してしまったかのような、その時代にタイムスリップしたかのように思えた。

テストでは、監督から言われた“儚げに、切なく”という言葉を意識しすぎてしまって、自分の中の動きがどこか小さくまとまってしまった気がする。

舞いながらも、身体の奥にこわばりが残っているのがわかる。

そのせいか、装束までもがやけに窮屈に感じられ、長い袖や襟元に汗がじっとりとにじんで、布が肌にまとわりついてくる。

私はまだ、「物語の中の巫女」になりきれていない――そんなもどかしさが胸に引っかかっていた。

テストが終わると、スタッフがタオルで汗をそっと拭ってくれた。その仕草に少し照れながらも、ちょっとしたお嬢様気分味わう。

栞はお堂の隅で、黙々と動きを確認していた。静かな集中の気配が、その姿から滲み出ている。

一方、香先輩と美樹先輩は、お堂の外の椅子に腰かけて、お喋りをしながらリラックスしていた。

私は、人波の向こうに慎哉の姿を探した。

けれど、想像以上の人が集まっていて、見覚えのある顔はすぐには見つけられなかった。

頭上には、変わらず灰色の空が広がっている。

スタッフから声がかかり、神舞以外のいくつかのシーンも撮影された。

神主役の津山さんと共に、舞の前に行う儀式の場面。

「これか?付け髭。よくできてるよな」

津山さんは、顎の下に伸びる髭を絞るように撫でていた。

けれど、カメラが回ると、さっきまでの飄々とした雰囲気が一変する。

目の色が変わり、佇まいが締まる。

たった一瞬で、そこには“本物の神主”が立っていた。

言葉にしがたい威厳があり、見ているこちらの背筋も自然と伸びてしまう。

「カット」の声がかかると、また元のおじいちゃんに戻っていた。

プロのやるきスイッチのオン・オフの上手さを思い知る。

「君達の舞、楽しみなんだ、肩の力抜いて、気をいれるんだよ」

そう言いながら、お腹のあたりをぽんぽんとさすっていた。

先輩達とも顔見知りのようで、杵築八雲さんを交えてなにやら話していた。謎多きおじいちゃん。

続いて、杵築八雲さんとの撮影。

八雲さんが私たちの前に立つだけのシーン。台詞はない。

撮影場所を変えながら、同じシーンが何度も繰り返し撮影された。

それだけなのに、八雲さんが立つと、空気が変わる。

凛とした立ち居振る舞いに、音が遠のき、空の色すら濃くなる気がした。

その存在だけで、まるで場が息を呑んでいるようだった。

撮影が終わった後、栞と一緒に思いきって握手を求めると、笑顔で応じてくれて――

「ありがとう。神舞、頑張って、楽しみにしています」

やさしい声までかけてもらえた。

同世代とは思えない、所作から滲み出る包容力。

私たちはポッと見惚れていると、八雲さんは軽く手を振って、また別の撮影場所へと向かっていった。

背筋の伸びた後ろ姿を、ただ無言で見送る。

あんなふうになりたい、と思った。

誰かの前に立つだけで、場の空気を変えてしまうような――そんな強さと静けさを持った人に。

でも、それと同時に、自分には遠すぎるような気もした。

手を伸ばしても、届くかどうか分からない。雲の上の人みたいで。

それでも、たとえ届かなくてもいい。

少しでも近づきたい。

今は、そう思った。

テレビ画面の向こう側の人が目の前にいる。

本物の役者たちと同じ空間に立ち、共に物語を演じている――

それはまるで、自分が本当にこの物語の登場人物になったような錯覚を覚える。

背筋にひやりとした緊張が這い上がっていく。

けれど、それは嫌な感覚ではなく、

むしろ心地よい。

物語の中で生きている――――

今はただ、それが嬉しかった。

それでも、気づけば目は合間合間に人だかりを追ってしまっている。

――慎哉の姿を、探して。

こんなにも探してしまう自分が、少し恥ずかしい。

でも、きっと。どこかで見てくれていたら、それだけで頑張れる気がする。

けれど、曇り空の下に広がる人の波に、その姿を見つけることはできなかった。

「10分休憩入りまーす」

スタッフの声が飛ぶと、張りつめていた空気がふっと緩み、辺りに人々の息遣いが戻ってきた。

私はぼんやりと空を仰ぎ、長く息を吐く。

曇天の空は分厚く、どこまでも均一で、世界全体が灰色の薄い膜に包まれているようだった。

背後から柔らかな声が届く。

「あーちゃん、大丈夫?」

「ん? なにが?」

振り向くと、栞が眉を心配そうにひそめていた。

「なんか元気ない」

「そう?」

「うん……なんか、寂しそうに見える」

私は少しだけ口元を緩めた。

「ほんと?」

「え?」

「ほら、監督が儚げに、切なげにって言ってたでしょ。どうしたらできるかなって、テンションを落としてた」

「……ああ、そうだったんだ」

栞の表情がふわりと緩む。安堵したような、それでいてちょっと呆れたような、けれどどこか嬉しそうな。

「じゃあ、今のこの感じでいこう」

両手を腰に当て胸を張る。

「ふふ、あーちゃん、もう役になりきってる」

栞が小さく笑った。その瞳が、少し湿った曇り空を映しているように見えた。

「そうだよ。せっかくだから、楽しみたい。しーちゃんが教えてくれたでしょ」

「え? 私が?」

「そうだよ」

そう言いながら、私はそっと栞の手を取った。冷たくはない。ほんの少し、緊張の汗を帯びた手。

「ありがとうね」

栞は少し照れくさそうに笑い、小さく眉を上げた。

その時だった。

「リハ、行きまーす!」

スタッフの大きな声が境内に響いた。

「よしっ!」

お互いの手を強く握り合い、私たちは顔を見合わせる。

笑顔と気合と、そしてちょっとだけ震える期待を込めて――

この曇り空の下、また物語の中へ踏み出していった。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

感想やご意見ありましたら、お気軽にコメントしてください。

また、どこかいいなと感じて頂けたら評価をポチッと押して頂けると、励みになり幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ