あの時
「諒くん、ごめんね」
車に乗り込むや、文菜はしおらしく、頭を下げた。
「ああ、謝らなくていいよ」
諒はハンドルに手を添え、ゆっくりと車を走らせた。
「……でも、どうして、キッチンにいたの?」
文菜が不思議そうに首を傾け、こちらに顔を向ける。
少しだけ眉を寄せた表情が、妙に素直で、どこか子どもっぽく感じられた。
「ああ、15分前位に着いて、車で待ってたら、文菜のお母さんが新聞取りに来て、俺に気が付いて、最初は断ったんだけど……」
「だけど?」
「……『女の子は支度に時間がかかるのよ。こんなとこで待ってたら退屈でしょう?』って、けっこうしつこくてさ」
こめかみを掻きながら、苦笑いを浮かべる。
「そっか……」
文菜は首を傾げながら、何か考え込むように視線を落とした。
「でも、お母さんのコーヒー旨かった。三杯も飲んだよ」
「……もう、お母さん変なこと言ってなかった?」
不安げな声音。目を丸くしながら、唇を少し尖らせている。
「ん?……いや、今日はどこ行くの?的な感じかな?」
まあ、彼女はいるのかとか……聞かれたけど、それは胸の内にしまっておこう。
「そう?それだけ?」
文菜の視線がじっとこちらに注がれる。
さすが親子というべきか、妙に勘が鋭い。
「神舞を見に行くって言ったら、『お祭りでもないのに?』って首をかしげてたな。で、なぜか文菜が神舞を舞ったときの写真とか、町内の夏祭りの浴衣姿の写真とか、色々見せられたよ」
「ひえっ……もう、お母さんたら」
文菜は顔を真っ赤にして肩を落とし、膝の上で指先をぎゅっと絡めた。
その仕草を見て、文菜の母親とのやり取りがふと思い出される。
「これはね、私が着付けしたの、諒くんどう、どう?うちの文菜かわいいでしょ?」
「あ、はい」
「え?なんて」
「ああ、かわいい……です」
青地に、黄色やオレンジの花柄があしらわれた浴衣。普段は下ろしている髪を、きちんと後ろで結い上げて。写真に映るその姿は――
「かわいかった……」
思考の余韻が零れ落ちた。
「ん?何が?」
「え?何か言った?」
「うん、……かわいかったって」
「そう……?」
首を捻る。文菜も首を傾げ、ぽかんとした顔でこちらを見た。
「あっ、そうだ。諒くん、おばあちゃんの写真」
「……ああ、神舞が終わってからでいいよ」
「あ、はい」
文菜はショルダーバックから出し掛けた写真を戻している。
手がかりを得た事で少しの高揚感があるのは事実で「カゲヌシ」に一歩近づけるかもしれないという期待もある。
赤信号で止まる。横断歩道を年老いた夫婦が手を繋いで渡っていた。
チラッと助手席に目を遣る。
文菜の横顔。視線に気が付いたのか小首を傾げて微笑む。
隣にいてまた、話している。
あの頃よりは沢山の事を。
学生時代といっても会話したのは数か月だけど……
そう、初めて文菜を認識したのは、高校の入学式の通学バスの中だった。
内海町のバス停から、母親と乗り込んできた。
終始母親と喋りながらニコニコしていた。
それからというもの、行きの通学バスの中で高校の三年間、ほぼ毎日のように顔を合わせていたが、数多く顔を合わす生徒の一人だった。
三年の時クラスが一緒になった。
そして、文菜はその年の神舞の舞手の一人だった。
神舞を初めて見に行ったのは、まだ両親が生きていた頃だ。
事故で両親を失ってからも、一人で見に行った。
舞が好きだったわけじゃない。ただ、あの神事の場で両親の記憶に浸りたかった。
もしかしたら、また会えるんじゃないか――
そんな幻想にすがるために。
だが、何度も神舞を見るうちに、気づいたことがある。
同じ舞なのに、何かが違う。
舞う人による違いだけじゃない。
下手でも心を打つ舞があり、完璧でも何も響いてこない舞もある。
その“違い”を感じることが、次第に楽しくなっていた。
信号が青になる。ゆっくりアクセルを踏む。
その中で見た、文菜の舞。
相方は平凡だったし、文菜自身も、特別上手というわけではなかった。
なのに――目が離せなかった。
ひたむきな素朴さと、けがれのない静けさ。
その静けさの奥にある芯のようなものを感じた。
無垢な佇まいが白い巫女装束と相まって、夏の夜の舞台に一際映えていた。
空気に溶けるようなその姿は、心のどこかに、残像のように沁み込んでいる。
それから夏休みを挟んで、二学期が始まったある日。
校舎の二階にある図書室の窓から、体育館脇にいる文菜の姿を見つけた。
段差のある壁に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしている。
小さな子どものようなその仕草が、妙に印象的だった。
本を片手に、窓際に寄りかかりながら、ぼんやりとその様子を眺めていた。
少しして、男子生徒が一人、文菜に駆け寄ってきた。
文菜はぴょんと立ち上がる。
話している内容までは分からない。
その男子は、遠藤という生徒。学年で一番人気のあるやつだった。
興味がない俺でも、その程度の噂は耳に入っていた。
数分後、文菜はぺこりと頭を下げて立ち去ろうとした。
その腕を、遠藤がぐっとつかんで引き寄せた。
文菜を壁に押し付けるような形になった、その次の瞬間――
パチンッ。
文菜の平手が、遠藤の頬を打った。
図書室の中にいた俺の耳にも、はっきりと聞こえた。
ただ驚いたんじゃない。
あれもまた、文菜の“芯”だったのだと思った。
誰かに媚びるでもなく、声を荒らげるでもない、静かな決意のようなもの。
たった二つの出来事だったけれど、
俺の中で、文菜は“ただのクラスメイト”から、少しだけ特別な存在になった。
いつの間にか、視界の端に常にいるようになった。
気づけば目で追っていることが増えた。
声を聞けば、少し気になった。
でも、そんな自分の気持ちに、気づかないふりをしていた――
あの、冬の雨の日までは。
「そうだったんだ……」
「どしたの?」
文菜が、こちらを覗き込むように問いかける。
肩をすぼめ、首を小さく傾げた仕草が、どこか幼くて、あの頃の彼女と重なる。
その瞳はどこまでも澄んでいる。
その瞳に見つめられながら、俺はふっと視線を落とし、小さく笑った。
「ん?文菜が、神舞を舞った時のことをさ、思い出してた」
「えへ」
文菜が口元をゆるめる。
その笑顔には、過ぎた季節を懐かしむような優しさが含まれていた。
「懐かしいな……」
「そうだね……見てくれてたんだ」
少し照れたように眉尻を下げ、視線を一瞬だけ泳がせた文菜は、こっちを見た。
「ああ、良かったよ、とても。……見惚れてた」
「そう……ありがと」
声がほんの少し低くなり、文菜は肩をすくめながら、控えめに笑う。
その笑みに滲むのは、嬉しさと、ほんの少しの照れ。それが、なんとも文菜らしかった。
「でもさ、最後に飴を配るだろ」
神舞が終わった後、舞手の巫女の二人が観客に、勾玉の形をした飴を豆まきをするように配るという催しがある。
「ああ、うんうん」
文菜が頷く。思い出したのか、指先をぴんと立てて小さく弾ませた。
「あれ、貰えなかった」
「そうだったの?あの飴。結構な数、配るんだけどね」
「初めて取れなかった、でも……」
「でも?」
文菜が首を傾げる。髪がふわりと揺れて、耳元にかかる。
「見つけたんだ……気が付いたんだ」
「何に?」
文菜が、上目づかいでこちらを覗き込むように見つめてくる。
少しだけ前のめりになって、唇をすぼめている。
知りたくてたまらないという想いが、そのまま顔に出ていた。
「そうだな……内緒かな」
「えー、諒くん、なあに?教えてよぉ」
文菜が笑いながら、袖の端をちょこんとつまみ、引っ張ってくる。
粘る文菜を、いなすのは至難の業だったが、無邪気に笑うその顔を見て一つの決心がついた。
でもきっと、俺の紡いだ言葉なんて、文菜ならいとも容易くほどいてしまうのだろうとも思った。今のその表情が答えであるように。
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