目覚めてみたら……
「文菜、起きて」
――え? 諒くんの声……?
「文菜、おはよう」
背中越しに、頭の奥で響くような声。
まどろみのなかで寝返りを打ち、まぶたをゆっくり開けた。
カーテン越しの朝の光の中、ベッドサイドに人影がある。
ぼんやりとその輪郭をたどるように視線を移し、布団をめくると、そこには諒がいた。
優しく微笑みながら、静かにこちらを見つめている。
「ああ……諒くん……おはよう」
「おはよう、文菜」
諒の手が、そっと自分の髪に触れた。
優しく撫でるその動きに、胸がキュンと締めつけられる。
柔らかな喜びに包まれて、目を閉じた。
「文菜……」
また、諒くんの声――
……いや、違う。今度の声は、どこか甲高い。
「ちょっと……文菜ってば!」
ばっ! と布団が剥がされ、思わず身をすくめる。
「もう、文菜! 諒くん来てるわよ!」
母の声が頭上から降ってくる。
「っ!」
跳ねるように目を見開き、壁の時計に視線を走らせる。
――7時5分。
「うそっ……」
飛び起きてスマホを手に取る。画面には、諒からの着信と、いくつかのメッセージ。
(タイマー……たしかにセットしたはずなのに!)
手が震えそうになる中、急いで返信を打つと、すぐに既読がつき、「平気、待ってるから」と返ってきた。
「もう、早く支度しなさいよ」
母は呆れたように言い残し、部屋を出て行った。
「君と出会った奇跡が~この胸にあふれてる~」
呑気な母の歌声が階下に遠ざかっていく。
「ふう……」
溜め息を零しうなだれた。
次の瞬間、ベッドから飛び降りる。
髪はぼさぼさ、パジャマのまま、胸元のボタンが外れていたことにも今さら気づきながら、コーヒーの匂いが漂う階段を駆け下りる。
キッチンに行くと、諒が椅子に腰掛け、コーヒーを口にしていた。
「えっ、どうして……?」
咄嗟に髪を押さえ、パジャマの胸元を慌てて握りしめる。
反射的に肩を抱いて、身をすぼめた。
顔が熱い。
火照りがどんどん広がっていく。
「おはよう」
「え、あ、おはひょう」
恥ずかしさで舌がもつれる、まともに目も合わせられない。
「……ご、ごめんにゃさい……諒くん」
もじもじと小さな声で謝る。
肩を抱えたまま、視線は足元、つま先をそわそわ動かす。
「いや、なにもなくてよかったよ、あっ、ありがとうございます」
諒は笑って言いながら、母が差し出したコーヒーのおかわりを受け取った。
母はというと、湯気の立つカップを片手に、こちらをニヤリと見てウィンクしてくる。
「……じゃあ……ちょっと……待ってて……」
気まずさをごまかすように、言葉を置いて一歩ずつ後ずさりする。
言い終わるやいなや、くるりと背を向けて洗面所へ向かった。
鏡に映る自分の姿を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
……爆発したような寝癖に、外れたパジャマのボタン……。
「……」
赤くなった顔を何度も冷たい水で洗う。
歯を磨き、トイレを済ませ、やっと少しだけ落ち着きを取り戻す。
そのまま階段を駆け上がり、部屋に戻ると、ふうっと深呼吸をひとつ。
乱れたパジャマの前をぎゅっと握って、ベッドに崩れ落ち、布団に顔をうずめた。
「……どうして、あんな夢、見たんだろ……」
頬がまだ熱を持っていて、心臓は落ち着くどころか、ますます騒がしい。
こんな始まり、最悪だ――そう思いながらも、どこかで嬉しいと感じている自分がいる。
昨日着た水色のワンピースが、ハンガーにかけられているのが目に入った。
諒が「似合ってる」って言ってくれた言葉が、耳の奥でふっと蘇る。
――今日は、どんな服がいいんかな。
気持ちを切り替えるように立ち上がり、クローゼットの扉を開ける。
白、ベージュ、ピンク――
手が伸びかけたところで、一瞬迷う。
手に取ったのは紺色のスカートと、淡いブルーグレーのブラウス。
肩のラインがふんわりしていて、動くたびに揺れるデザイン。
メイクは最低限。日焼け止めと下地、リップはピンクベージュをひと塗り。
チークとマスカラは、時間がないので省略。
鏡の前で何度も髪を梳かす。寝癖で外にはねている毛先を、ストレートアイロンでざっと整える。
前髪を斜めに流し、ヘアピンで留める。
耳元に小さなピアスをつけてみる。
「よし……」
時計は7時46分。ショルダーバックを手に取り、スッと立ち上がる。
鏡の前で最終確認。
「……変じゃないよね?」
小さく息を吐いた。
「あ……」
机の上に置いてある、祖母の写真に手を伸ばし、歩きながらバックに仕舞う。
扉の前で、深呼吸をひとつして、ドアノブに手をかける。
自分の部屋から一歩踏み出すだけで、こんなに心臓が跳ねるなんて。
一歩一歩、心をなだめるように階段を下りる。
キッチンの静かな空気の中に、諒の姿がある。
木目のテーブルの前で、まだコーヒーを片手にしていて、窓の外にちらりと目をやっていた。
足音に気づいたのか、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間、瞳に光が差し込んだように、表情が少しやわらいだ。
「お待たせ……しました」
深々と頭を下げる。
「文菜コーヒー入ってるよ、朝ご飯は?」
「あ、はい。ご飯はコンビニで買う……」
どこか、声が裏がえる。
「そっか」
そろりそろりとテーブルに近づき、椅子に腰かける。
カップを手に取り、フーッとひと息吹きかけて、コーヒーに口をつけた。
「熱っ……」
思わず、カップから顔を逸らす。諒は優しく笑っていた。肩をすぼめ苦笑い。もう一度、息を吹きかけてから、少しずつ飲み干す。
ほどよくなった温かさのコーヒーが、少しずつ慌ただしさを溶かしていく気がした。
「今度こそ、お待たせしました」
そう言って腰を上げた。
「じゃあ、行こうか」
立ち上がる諒をチラッと見ながら玄関へ向かった。
「気を付けて、お二人さん、美味しいコーヒー淹れるからね。諒くん、また来てね」
まるで、待ち構えていたように、母がひょっこり現れ、軽く手を振る。
「ごちそうさまでした、コーヒー美味しかったです」
諒が礼儀正しく答える。その様子に、思わず、母と諒の顔を交互にキョロキョロと見比べた。
自然に会話している。
それが、ちょっとだけくすぐったくて、照れくさくて、髪を耳に掛ける。
「そうでしょ、何てったって」
「お母さん……」
何か余計なことを言われそうで、私は母の前に両手を差し出した。
母は親指を立てて、ウィンクを一つ。
「ごめん、ごめん、お邪魔でしたかね。じゃあね、諒くん」
片手を上げると、指を小刻みに振りながら、くるりと踵を返してキッチンへと引っ込んでいく。
その背中を追いかけるように、歌声がひらひらと舞ってきた。
「君に会うために生まれた~愛するために生まれた~」
「文菜のお母さんて面白いな、料理も上手いし」
玄関先で、諒が白いスニーカーのかかとを指で軽くつつく。
「……そうかも」
後を追うように、下駄箱から取り出した、白いスニーカーを履いて、つま先でトントンと軽く足元を鳴らした。
諒が玄関の扉を開けると、蝉の鳴き声と熱気が押し寄せた。
一歩、外に出た足元に、淡い朝の光がさし込む。
肩先に風が触れて、まるで今日という一日が、そっと背中を押してくれるようだった。
――きっと大丈夫。
小さく深呼吸をして扉を閉めた。
その音さえも、どこか心を整えてくれるようだった。
もしかしたら、未来にあるような光景に思えて、少し嬉しくて、唇をそっと噛みしめながら、諒の背中を追った。
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