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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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38/95

あの頃の私

挿絵(By みてみん)

食卓を囲んだ諒は、母の料理に「旨い」「美味しいです」と何度も口にし、健啖家ぶりを発揮していた。

そんな諒を見ているだけで、私は幸せを感じられた。

母も、いつもより張り切っていたようで、煮物に、から揚げ、酢の物、サラダ、豆腐の味噌汁、品数も豊富だった。

母は諒が帰った後、一緒に洗い物をしながら、

「どう? お母さんの腕によりをかけた料理。男の子はね、胃袋を掴むのよ」

空中で何かを掴むような仕草をしながら、ご機嫌な様子だった。

お風呂や歯磨きの何気ない瞬間に、一日のハイライトが襲ってきて、にやけている自分がいた。

文菜は、余韻に浸りながら、自室のテーブルに向かい、頬杖をついて卒業アルバムをめくっている。

クラス写真の中で、諒だけが笑っていなかった。

指先で諒の顔の輪郭をそっとなぞる。

けれど今は、諒のたくさんの笑顔を知っている。

そう思うと、自然と目尻が下がる。

諒の存在を初めて認識したのは、高校一年の入学式の日だった。

瀬田町にある高校に通うためバスに乗った時、一番後ろの席で、お母さんと並んで座りながら、諒はじっと窓の外を見ていた。

それから高校三年になるまで、クラスが同じになることはなかったけれど、通学バスではよく顔を合わせた。

特に登校時は時間が決まっていたこともあり、ほとんど毎日のように――。

諒はいつも窓際に座っていて、やっぱり外を眺めていた。

三年生で同じクラスになってから、不思議と諒のことが気になり始めた。

席替えをしても、なぜか諒はいつも窓際にいた。

誰かと特別親しくすることもなく、本を読んだり、外を見ていたり。

あるとき、ふと思った。

彼はただ景色を見ているんじゃない。

何か――別のものを見ているんじゃないかって。

そして、それを探しているようにも見えた。

それから、私の中で“観察日記”が始まった。

人との距離を取っているように見えるけれど、裏を返せば、誰に対しても公平に接しているとも言えた。

隣の席の子が教科書を忘れれば、何も言わずに見せてあげていた。

廊下で落とした物を拾って、すぐにその子のもとへ駆けていく。

静かだけれど、優しさが垣間見える瞬間がいくつもあった。

頬杖をつくのは左手。

足は決して組まない。

月曜の放課後は、決まって図書室に向かう。

眼鏡を直す指は中指。

こめかみを掻く癖があって。

本気で走ったら学年一位だった。

手作りの栞を使っていた。

ペンをくるくる回しているときは、集中している証拠。

昼休みは三割位の確率で屋上にいる。

図書室で本を選ぶとき、目を閉じて、棚に手を伸ばすことがあった。

校庭の隅にある壊れかけたベンチの上に、時々座っていた。

先生の声かけに手を挙げたことがない。

……私は、ずっと諒を、目で追っていた。

挨拶をすれば、ちゃんと返してくれた。

「なに読んでるの?」と話しかけたら、本のタイトルを見せてくれるだけ。

「面白い?」と尋ねても、生返事が返ってくるくらいだった。

いつしか、諒が読んでる本を自分も読むようになった。

多くは小説で、中にはさっぱり内容が入ってこないものがあったり、あっという間に読み切ってしまうものもあった。

でも、二学期のある日、ふいに教室で目が合った。

お互いすぐに視線を逸らしたけれど――

あのとき、確かに私を見ていたと思う。

それからも、時折視線を感じることがあった。

けれど、会話が増えることはなかった。

諒と言葉を交わすようになったのは、あの日から卒業までの、ほんの数か月だけ。

特別なことは何もなかった。

デートをしたわけでもなく、メッセージや電話、登下校のバスや休憩中の教室、屋上、放課後の図書室――

ただ、言葉を交わすだけ。

それだけのことだったけど、それだけで、嬉しくて、楽しくて、幸せだった。

好きな食べ物は、素麺、から揚げ、ハンバーグ、豆腐。

好きな本は小説で、ジャンルは問わない。

好きな色は、青系統の色。空と海の色だから。

好きな漫画、好きな音楽、たくさん話したし、たくさん聞いた。

「あっ……」

アルバムの最後のページに、一枚の写真が挟まれていた。

頬杖をほどき、思わず背筋を伸ばして、その写真を両手でそっと手に取った。

卒業式の日、母が撮ってくれた諒とのツーショット。

少しぎこちない笑顔のまま、どこか距離を残して並んでいる私たちが、そこにいた。

あの頃、たしかに存在していた時間が、ふいに胸の奥によみがえる。

そう、この写真を――諒にも渡したくて。

何度も連絡をしてみたけれど、つながらなかった。

思いきって諒の家を訪ねたこともある。

バイト先だった葦田八幡神社にも何回か行った。

けれど、どこにも諒の姿はなかった。

神社に行ったとき、偶然、諒のお兄さんに会った。

その時、諒が東京へ旅立つ日を教えてくれた。

前日は、嬉しくて、なかなか寝付けなかった。

当日、私なりの精一杯のおしゃれをして、福田港へ向かった。

13時出発のフェリー。

万が一にでも遅れないように、1時間前のバスに乗った。

フェリーターミナルの出入り口が見える防波堤に腰掛け、諒を待つ。

霞んだ空に、細く薄い雲が何本もたなびいていた。

諒に会える――その想いだけで、1時間なんてあっという間だった。

そして、ようやく――

大きな荷物を抱えた諒の姿を見つけた。

水色のボタンシャツに、グレーのパンツ。白いスニーカー。

私服の諒。

私は思わず駆け出した。

けれど、ターミナルへと向かって歩くその背中を見た瞬間、足が止まった。

新しい旅立ちへ向かうその後ろ姿が、あまりにもまぶしくて。

この胸の張り裂けそうな想いを、そのままぶつけてしまいそうで、怖くなった。

ちょうど陽射しが差し込んでいたせいかもしれない。

でも、その背中は光を帯びて、静かにターミナルの中へと消えていった。

私は再び防波堤に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めた。

やがて、出港のアナウンスが響く。

フェリーが唸るようなエンジン音を響かせ、黒い煙を空へ押し上げながら、岸壁を離れ、ゆっくりと旋回を始めた。

私は立ち上がり、にじむ視界のまま、その船影に向かって、そっと手を振った。

「バイバイ、諒くん……」

その一言を口にした瞬間、張りつめていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

こらえていた涙が、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちる。

一粒、また一粒。

止めようとしても、次から次へとあふれてくる。

唇を噛みしめて堪えようとしたけれど、嗚咽がこみ上げ、肩がぶるぶると震え出し、私はその場に崩れるようにしゃがみこんだ。

胸の奥に溜め込んでいた想い――伝えられなかった言葉、抱えてきた寂しさ、交わした会話、重ねた時間、そして数えきれない思い出。

そのすべてが、涙となって、あふれ出した。

フェリーの航跡が凪いだ水面に溶けて、水平線の遥か向こうへと、小さく、小さく霞んでいくまで――

私は泣きながら、ずっと見送っていた。

もう船影が見えなくなっても、立ち上がることができなかった。

ただ、さらさらとした波音と、そよそよと吹く風が寄り添ってくれていた。

どれくらい時間が経ったのか、わからない。

帰り道、私は手紙を書いた。

神社に寄って、写真と一緒に、その手紙をお兄さんに託した。

諒に、届けてほしいと願いながら――

この写真は、諒を忘れようとしたあの頃。

諒にとっては、きっと迷惑だったのかもしれない。

私だけが楽しかったんだと、封印した一枚だった。

もう、会うことはないと思っていた。

“会いたい”という気持ちは、叶わないものだと思っていた。

――でも、いまの私なら、あの頃の私に、こう伝えてあげられる。

会えたよって。

あの日のことを思い出した瞬間、胸の奥がきゅうっと苦しくなったけれど、不思議と涙は出なかった。

「ふうー…」

写真をそっとバッグに仕舞う。この写真の存在を――あんなに大切に思っていたはずなのに――ずっと忘れていたなんて。ふいに込み上げてきた可笑しさに、思わずひとり笑いが漏れた。

「ん?」

もしかして……。

突如沸いた閃きに部屋を飛び出した。

階段を駆け下りる。夜の静けさの中で足音が響く。目指すのは、祖母の部屋。

襖を開けて電気を点ける。押し入れから、祖母の遺品の卒業アルバムが入った収納ケースを引っ張り出した。

その中から中学校の卒業アルバムを手に取る。

私はその場にぺたんと座り込んだ。

慎重にページを繰る。祖母は1組、あの男の子は――3組。

静かにページをめくる指先に、少し汗がにじむ。

そして、最後のページにそれを見つけた。

「あった!」

思わず声が漏れる。

そこには、三枚の写真が挟んであった。一枚ずつ目を通す。

祖母が一人で微笑んでいる写真。

男の子が一人で少し照れたように立っている写真。

そして、二人が並んで写っている一枚。

祖母の写真を裏返す。

重岩にて、私に送られてきた写真の黒く塗りつぶされていた箇所には、

――珠代。昭和43年撮影。

そう記載されていた。

「おばあちゃん……」

手にした写真を胸元に引き寄せた。

手放せなかった想い。忘れられなかった恋。燃やすことも、破ることもできなかった記憶。幸せそうな祖母の笑顔を見ていてポロポロと涙が出る。

訳もなく懐かしく感じた理由が、今ならわかる気がした。

手の甲でそっと涙を拭い、次の写真へと手を伸ばす。

二人で写っているもの。どこか気恥ずかしげに、それでも穏やかな笑顔を見せている二人。

この男の子は、どんな気持ちだったんだろう……。

男の子の人生もそうだが、この恋の顛末にも興味が湧いていた。

収納ケースを片付けて、三枚の写真を手に取る。

部屋の明かりを消して、そっと襖を閉めた。

階段を上っていると、母の声が飛んできた。

「文菜、何かあったん?」

階段の角から、心配そうに顔をのぞかせて、こっちを見上げている。

「うん、おばあちゃんの写真が出てきたの」

母は、ホッとしたようにため息をつく。

「なんだ、びっくりしたよ、部屋で……泣いてたから……」

「あ、ありがとう、お母さん」

「明日も、諒くんとデートやろ」

腕を組みながら、母は意味ありげな視線を送ってくる。

「……うん。あ、お母さん、寝過ごしそうだったら起こしてくれる?」

「はいはい、もう遅いから、早よねな」

「おやすみ」

「おやすみ……」

階段を上りきり、視線を感じて振り返る。

母がこちらを見上げている。

「どうしたの?」

「いいから、寝なさい」

にこっと笑ってから、母は奥へと引っ込んだ。

「なんだろ?」

そう思いながら、自室へと戻る。

時計を見ると23時になろうとしていた。

少し遅いかなと思ったけど、早く知らせたくて諒にメッセージを送る。

「写真あったよ、明日持っていくね」

すぐに“既読”はつかなかった。

部屋の明かりを消してカーテンを開ける。窓の外では星が瞬いている。

町の明かりは東京に比べたらずっと少ないけれど、そのぶん、たくさんの星が見える。

不安な事もある。分からない事もある。それでも―――

カーテンを閉めようとしたとき、ふと視線を落とす。

家の前の道路。斜め三軒先、隣の畑の前に止まっていた車が、ゆっくりと動き出した。

目で追うと、運転手の左手あたりが、街灯に照らされてキラッと光った。

――あれ?

どこかで、見たことがあるような気がした。

車はそのまま通り過ぎ、角を曲がっていった。

首をかしげながら、カーテンを閉める。

部屋の外から差し込む、かすかな明かりを頼りにベッドへ潜り込む。

不安や心配もあるけれど、幸せの余韻や、明日への期待もある。

それで、ちょうどおあいこ。

余計なことは考えずに、眠ろう。

スマホを胸に抱きしめて、そっと目を閉じた。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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