あの頃の私
食卓を囲んだ諒は、母の料理に「旨い」「美味しいです」と何度も口にし、健啖家ぶりを発揮していた。
そんな諒を見ているだけで、私は幸せを感じられた。
母も、いつもより張り切っていたようで、煮物に、から揚げ、酢の物、サラダ、豆腐の味噌汁、品数も豊富だった。
母は諒が帰った後、一緒に洗い物をしながら、
「どう? お母さんの腕によりをかけた料理。男の子はね、胃袋を掴むのよ」
空中で何かを掴むような仕草をしながら、ご機嫌な様子だった。
お風呂や歯磨きの何気ない瞬間に、一日のハイライトが襲ってきて、にやけている自分がいた。
文菜は、余韻に浸りながら、自室のテーブルに向かい、頬杖をついて卒業アルバムをめくっている。
クラス写真の中で、諒だけが笑っていなかった。
指先で諒の顔の輪郭をそっとなぞる。
けれど今は、諒のたくさんの笑顔を知っている。
そう思うと、自然と目尻が下がる。
諒の存在を初めて認識したのは、高校一年の入学式の日だった。
瀬田町にある高校に通うためバスに乗った時、一番後ろの席で、お母さんと並んで座りながら、諒はじっと窓の外を見ていた。
それから高校三年になるまで、クラスが同じになることはなかったけれど、通学バスではよく顔を合わせた。
特に登校時は時間が決まっていたこともあり、ほとんど毎日のように――。
諒はいつも窓際に座っていて、やっぱり外を眺めていた。
三年生で同じクラスになってから、不思議と諒のことが気になり始めた。
席替えをしても、なぜか諒はいつも窓際にいた。
誰かと特別親しくすることもなく、本を読んだり、外を見ていたり。
あるとき、ふと思った。
彼はただ景色を見ているんじゃない。
何か――別のものを見ているんじゃないかって。
そして、それを探しているようにも見えた。
それから、私の中で“観察日記”が始まった。
人との距離を取っているように見えるけれど、裏を返せば、誰に対しても公平に接しているとも言えた。
隣の席の子が教科書を忘れれば、何も言わずに見せてあげていた。
廊下で落とした物を拾って、すぐにその子のもとへ駆けていく。
静かだけれど、優しさが垣間見える瞬間がいくつもあった。
頬杖をつくのは左手。
足は決して組まない。
月曜の放課後は、決まって図書室に向かう。
眼鏡を直す指は中指。
こめかみを掻く癖があって。
本気で走ったら学年一位だった。
手作りの栞を使っていた。
ペンをくるくる回しているときは、集中している証拠。
昼休みは三割位の確率で屋上にいる。
図書室で本を選ぶとき、目を閉じて、棚に手を伸ばすことがあった。
校庭の隅にある壊れかけたベンチの上に、時々座っていた。
先生の声かけに手を挙げたことがない。
……私は、ずっと諒を、目で追っていた。
挨拶をすれば、ちゃんと返してくれた。
「なに読んでるの?」と話しかけたら、本のタイトルを見せてくれるだけ。
「面白い?」と尋ねても、生返事が返ってくるくらいだった。
いつしか、諒が読んでる本を自分も読むようになった。
多くは小説で、中にはさっぱり内容が入ってこないものがあったり、あっという間に読み切ってしまうものもあった。
でも、二学期のある日、ふいに教室で目が合った。
お互いすぐに視線を逸らしたけれど――
あのとき、確かに私を見ていたと思う。
それからも、時折視線を感じることがあった。
けれど、会話が増えることはなかった。
諒と言葉を交わすようになったのは、あの日から卒業までの、ほんの数か月だけ。
特別なことは何もなかった。
デートをしたわけでもなく、メッセージや電話、登下校のバスや休憩中の教室、屋上、放課後の図書室――
ただ、言葉を交わすだけ。
それだけのことだったけど、それだけで、嬉しくて、楽しくて、幸せだった。
好きな食べ物は、素麺、から揚げ、ハンバーグ、豆腐。
好きな本は小説で、ジャンルは問わない。
好きな色は、青系統の色。空と海の色だから。
好きな漫画、好きな音楽、たくさん話したし、たくさん聞いた。
「あっ……」
アルバムの最後のページに、一枚の写真が挟まれていた。
頬杖をほどき、思わず背筋を伸ばして、その写真を両手でそっと手に取った。
卒業式の日、母が撮ってくれた諒とのツーショット。
少しぎこちない笑顔のまま、どこか距離を残して並んでいる私たちが、そこにいた。
あの頃、たしかに存在していた時間が、ふいに胸の奥によみがえる。
そう、この写真を――諒にも渡したくて。
何度も連絡をしてみたけれど、つながらなかった。
思いきって諒の家を訪ねたこともある。
バイト先だった葦田八幡神社にも何回か行った。
けれど、どこにも諒の姿はなかった。
神社に行ったとき、偶然、諒のお兄さんに会った。
その時、諒が東京へ旅立つ日を教えてくれた。
前日は、嬉しくて、なかなか寝付けなかった。
当日、私なりの精一杯のおしゃれをして、福田港へ向かった。
13時出発のフェリー。
万が一にでも遅れないように、1時間前のバスに乗った。
フェリーターミナルの出入り口が見える防波堤に腰掛け、諒を待つ。
霞んだ空に、細く薄い雲が何本もたなびいていた。
諒に会える――その想いだけで、1時間なんてあっという間だった。
そして、ようやく――
大きな荷物を抱えた諒の姿を見つけた。
水色のボタンシャツに、グレーのパンツ。白いスニーカー。
私服の諒。
私は思わず駆け出した。
けれど、ターミナルへと向かって歩くその背中を見た瞬間、足が止まった。
新しい旅立ちへ向かうその後ろ姿が、あまりにもまぶしくて。
この胸の張り裂けそうな想いを、そのままぶつけてしまいそうで、怖くなった。
ちょうど陽射しが差し込んでいたせいかもしれない。
でも、その背中は光を帯びて、静かにターミナルの中へと消えていった。
私は再び防波堤に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めた。
やがて、出港のアナウンスが響く。
フェリーが唸るようなエンジン音を響かせ、黒い煙を空へ押し上げながら、岸壁を離れ、ゆっくりと旋回を始めた。
私は立ち上がり、にじむ視界のまま、その船影に向かって、そっと手を振った。
「バイバイ、諒くん……」
その一言を口にした瞬間、張りつめていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
こらえていた涙が、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちる。
一粒、また一粒。
止めようとしても、次から次へとあふれてくる。
唇を噛みしめて堪えようとしたけれど、嗚咽がこみ上げ、肩がぶるぶると震え出し、私はその場に崩れるようにしゃがみこんだ。
胸の奥に溜め込んでいた想い――伝えられなかった言葉、抱えてきた寂しさ、交わした会話、重ねた時間、そして数えきれない思い出。
そのすべてが、涙となって、あふれ出した。
フェリーの航跡が凪いだ水面に溶けて、水平線の遥か向こうへと、小さく、小さく霞んでいくまで――
私は泣きながら、ずっと見送っていた。
もう船影が見えなくなっても、立ち上がることができなかった。
ただ、さらさらとした波音と、そよそよと吹く風が寄り添ってくれていた。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
帰り道、私は手紙を書いた。
神社に寄って、写真と一緒に、その手紙をお兄さんに託した。
諒に、届けてほしいと願いながら――
この写真は、諒を忘れようとしたあの頃。
諒にとっては、きっと迷惑だったのかもしれない。
私だけが楽しかったんだと、封印した一枚だった。
もう、会うことはないと思っていた。
“会いたい”という気持ちは、叶わないものだと思っていた。
――でも、いまの私なら、あの頃の私に、こう伝えてあげられる。
会えたよって。
あの日のことを思い出した瞬間、胸の奥がきゅうっと苦しくなったけれど、不思議と涙は出なかった。
「ふうー…」
写真をそっとバッグに仕舞う。この写真の存在を――あんなに大切に思っていたはずなのに――ずっと忘れていたなんて。ふいに込み上げてきた可笑しさに、思わずひとり笑いが漏れた。
「ん?」
もしかして……。
突如沸いた閃きに部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。夜の静けさの中で足音が響く。目指すのは、祖母の部屋。
襖を開けて電気を点ける。押し入れから、祖母の遺品の卒業アルバムが入った収納ケースを引っ張り出した。
その中から中学校の卒業アルバムを手に取る。
私はその場にぺたんと座り込んだ。
慎重にページを繰る。祖母は1組、あの男の子は――3組。
静かにページをめくる指先に、少し汗がにじむ。
そして、最後のページにそれを見つけた。
「あった!」
思わず声が漏れる。
そこには、三枚の写真が挟んであった。一枚ずつ目を通す。
祖母が一人で微笑んでいる写真。
男の子が一人で少し照れたように立っている写真。
そして、二人が並んで写っている一枚。
祖母の写真を裏返す。
重岩にて、私に送られてきた写真の黒く塗りつぶされていた箇所には、
――珠代。昭和43年撮影。
そう記載されていた。
「おばあちゃん……」
手にした写真を胸元に引き寄せた。
手放せなかった想い。忘れられなかった恋。燃やすことも、破ることもできなかった記憶。幸せそうな祖母の笑顔を見ていてポロポロと涙が出る。
訳もなく懐かしく感じた理由が、今ならわかる気がした。
手の甲でそっと涙を拭い、次の写真へと手を伸ばす。
二人で写っているもの。どこか気恥ずかしげに、それでも穏やかな笑顔を見せている二人。
この男の子は、どんな気持ちだったんだろう……。
男の子の人生もそうだが、この恋の顛末にも興味が湧いていた。
収納ケースを片付けて、三枚の写真を手に取る。
部屋の明かりを消して、そっと襖を閉めた。
階段を上っていると、母の声が飛んできた。
「文菜、何かあったん?」
階段の角から、心配そうに顔をのぞかせて、こっちを見上げている。
「うん、おばあちゃんの写真が出てきたの」
母は、ホッとしたようにため息をつく。
「なんだ、びっくりしたよ、部屋で……泣いてたから……」
「あ、ありがとう、お母さん」
「明日も、諒くんとデートやろ」
腕を組みながら、母は意味ありげな視線を送ってくる。
「……うん。あ、お母さん、寝過ごしそうだったら起こしてくれる?」
「はいはい、もう遅いから、早よねな」
「おやすみ」
「おやすみ……」
階段を上りきり、視線を感じて振り返る。
母がこちらを見上げている。
「どうしたの?」
「いいから、寝なさい」
にこっと笑ってから、母は奥へと引っ込んだ。
「なんだろ?」
そう思いながら、自室へと戻る。
時計を見ると23時になろうとしていた。
少し遅いかなと思ったけど、早く知らせたくて諒にメッセージを送る。
「写真あったよ、明日持っていくね」
すぐに“既読”はつかなかった。
部屋の明かりを消してカーテンを開ける。窓の外では星が瞬いている。
町の明かりは東京に比べたらずっと少ないけれど、そのぶん、たくさんの星が見える。
不安な事もある。分からない事もある。それでも―――
カーテンを閉めようとしたとき、ふと視線を落とす。
家の前の道路。斜め三軒先、隣の畑の前に止まっていた車が、ゆっくりと動き出した。
目で追うと、運転手の左手あたりが、街灯に照らされてキラッと光った。
――あれ?
どこかで、見たことがあるような気がした。
車はそのまま通り過ぎ、角を曲がっていった。
首をかしげながら、カーテンを閉める。
部屋の外から差し込む、かすかな明かりを頼りにベッドへ潜り込む。
不安や心配もあるけれど、幸せの余韻や、明日への期待もある。
それで、ちょうどおあいこ。
余計なことは考えずに、眠ろう。
スマホを胸に抱きしめて、そっと目を閉じた。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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