突然に……
聡はパソコンのモニターを見つめている。
そこには、昨日と今日、栞と練習した神舞の映像が繰り返し流れていた。
明日は、いよいよ映画撮影の日。
8時に瀬田神社に集合し、リハーサルを終えたあと、本番の収録に入る。
早起きには慣れているけれど、今日は映画スタッフからも「しっかり睡眠をとるように」と何度も言われていた。
普段より一時間早くお風呂を済ませ、髪も丁寧に乾かして、あとは寝るだけ。
現場には津山勲の他、主演の杵築八雲もいるという。まさか、そんな人達の映画にワンシーンといえ自分が出演するなんて、今もどこか夢の中にいるようで、現実感がふわふわと薄い。
不思議なほど緊張も不安もない。
ただ栞と先輩達と一緒に神舞が踊れるというワクワク感が気持ちの大部分を占めている。
夕食のとき、むしろソワソワしていたのは母の方だった。
昔から津山勲の大ファンで、もしかしたら直接会えるかもしれない、なんて落ち着かない様子で。
たとえ保護者同伴の条件がなかったとしても、あの調子なら絶対について来ていたに違いない。
時刻は20時を過ぎている。
けれど、もう一度だけ見てから寝ようと、椅子の背もたれから身体を起こし、マウスに指を添えた。
そこには、私と栞が踊る姿。
まだぎこちない部分もあるけれど、昨日より、今日。
今日より、さっきの方が、少しずつ呼吸が合ってきているのが、映像越しにも分かる。
先輩たちほどではないけれど、動きが揃い、視線が合うたびに空気がふっと変わる瞬間があった。
たった二日間の練習で、ここまでシンクロできるなんて、自分でも信じられなかった。
この調子なら、明日の撮影だけじゃなく、来年の本番の神舞も、きっと私たちで……。
そんな風に、未来がほんの少しだけ明るく見える。
今日の衣装合わせのあと、公民館に残って栞と二人で練習した。
最後に踊った神舞は、言葉で説明するのが難しい、無意識のような、無心のような感覚に包まれていた。
頭では何も考えていないのに、身体が自然と動いて、風も、光も、音も、その一瞬にすべてが溶け合ったような、不思議な時間だった。
その時、公民館の片隅で見守っていた映画スタッフの数人が、静かに涙を流していたのを覚えている。
どうしてそうなったのかは分からない。
でも、口々に「感動した」と言ってくれた。
人に、心から喜んでもらえた。
御朱印を書く以外で、そんな風に感謝されたのは、初めてだったかもしれない。
そのことを栞に話すと、彼女は少し微笑んでこう言った。
「それが、私がダンスを続けてる原動力。もちろん、踊るのが好きっていうのが一番だけど――。でもね、私のダンスを見た人が、一人でも、ちょっとでも優しい気持ちになってくれたら嬉しいの。それだけで、もう充分なんだよ」
そう話した栞の瞳の輝きと言葉が、私の心の中に道を照らす明かりのように灯した。
再び視線をモニターに戻す。
そこに映る自分の表情は、自分のものとは思えなかった。
まっすぐに前を見つめ、迷いのない動き。
手の先、足の先まで神経が行き届き、巫女装束の袖や裾が舞いにあわせてゆったりと揺れている。
まるで布の方から身体の動きを読み取っているかのように。
そして、隣で舞う栞。
ときおり、舞の中に混じるように浮かぶ、微笑のような表情に、なぜかドキリとしてしまう。
あの瞬間、私は――何を感じていたのだろう。
終盤、テンポが上がり始めると、動きに力強さと熱が宿る。
呼吸がぴたりと合った時、空間がふわっと持ち上がったような、そんな錯覚を覚えた。
マウスを動かして、動画を停止する。
モニターが暗くなり、部屋の静けさが戻ってくる。
でも、どこかで思ってしまう。
あのとき、私の中にいる百々楚姫の記憶――あるいは魂のようなものが、ふっと降りてきたのではないか、と。
舞っていた記憶は、確かにある。
でも、それでも、やはりそう思えてしまうのだ。
何かが、私の内側で目を覚ましたような気がして。
「百々楚姫様……」
慎哉が渡してくれた冊子には、百々楚姫は怨霊を鎮めるため、自ら人柱となったと書かれていた。
──人柱。炎の中で、静かに消えていった命。
椅子を押しのけ、部屋の明かりをぱちりと消す。
カーテンを開けて窓を引くと、夜風がひんやりと頬を撫でる。
「ハックション!」
思わず身をすくめるようにして、くしゃみが一つ飛び出した。
家が高台にあるせいで、窓の先はまるで奈落のような闇。
視線を落とすと、点在する街灯が、舞台のスポットライトのようにアスファルトを照らしていた。その先は、黒一色の世界。
昼間なら見分けがつくはずの海と陸と空の境目も、夜の帳にすべて呑まれていた。
かすかに聞こえるさざ波の音だけが、穏やかなテンポで時間を刻んでいる。
「あなたの事、知ってる人、もう3人もいる、もっともっと増えるから」
でも、どうして――
どうして、忘れられてしまったんだろう?
あの場所には男の人が何人もいた。
その中に、あの人に似た顔を見た気がする。あれは……どういうことなんだろう?
ご先祖様なのかな、それとも、まさかのタイムスリップ……?
吹く風に乗って、遠くから微かに車の音が聞こえてくる。
目を遣ると、街灯に導かれるように、車のヘッドライトがゆっくりと近づいてきた。
やがて、ブーンと低いエンジン音がにわかに大きくなり、そして遠ざかっていく。テールランプが、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。
「ハックション」
静けさの中、自分のくしゃみの音だけが妙に大きく響く。
ブゥッ……ブゥッ……
机の上のスマホが震えている。
画面には「跳ね毛くん」と表示されている。
手に取り、通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「こんばんは」
慎哉の声は、少し気だるげで、それでもどこか優しさを含んでいた。
「こんばんは、どうしたんですか?」
「だって、物憂げな女子が、ぼんやり外を眺めてる。何かあったかなって」
「あっ……」
いちいち驚くのが馬鹿らしくなってくる。
そこまでお見通しなんだ……もう、適わないなと笑ってしまう。
「あ、そうだ聞いて欲しいんですけど……」
今日、神舞を踊った時に見えた、不思議な景色の話をした。
今このことを話せるのは、慎哉しかいない。
「……そう」
慎哉にしては珍しく、返事が遅い。何かを飲み込んだような、重い間があった。
「どうしたんですか?」
「あは、いや……」
いつもは淀みなく言葉を繰り出す慎哉にしては、明らかに様子が違う。
「なんかあるんですか?……あっ、そういえば、記憶の中で、会ったことある人を見たんです」
「へー、それは誰かな?」
「名前は分からないんですけど……?」
言い掛けて、頭の中に疑問が湧いた。
「あのぉ、慎哉さんって、私が今、何してるかも見えるんですか?」
「……電話してるでしょ」
「ああ、もう、そうじゃなくて……さっき、外を眺めているって言ったましたよね!」
「フフフ、それはね……外見てみてくれるかな?」
「は?」
「いいから、言う通りにして」
少し呆れつつも、言われた通りに窓の外を覗く。
変わらない闇の世界。
「どこ見てんのかな?」
「意地悪しないで……」
「……街灯を見てくれる?」
言われた方向に目を向ける。
「え!?」
煌々とした街灯の下。
その光の中で、両手を大きく振っている慎哉の姿があった。
まるで舞台の上で、カーテンコールに応える役者のように。
「何やってるんですか?」
「散歩」
「はあ……?」
「それで、会った事がある人って、どこでかな?」
「神社です」
「ふーん、もう一度顔見たら分かるかな」
「はい、だって……」
鼻の奥がむず痒くなり、くしゃみをこらえて鼻をすする。直後、小さく咳き込む。
それだけのはずだった。
……でも。
口元に添えた指先が、じんわりと濡れていた。
なんだろう?
そっと電気を点ける。
その指先は──赤く染まっていた。
血……?
「大丈夫? もしもーし?」
スマホ越しの慎哉の声が、遠くから聞こえるように感じた。
机の上のティッシュを取り、慌てて指についた血を拭う。
鼻がむずむずする。喉の奥にも違和感がある。
鼻をすすり、咳払いをしながら、もう一度スマホを耳に当てた。
「もしもし? 聡ちゃん?」
答えようとするのに、喉が塞がれたようで、声が出ない。
何度か喉を鳴らし、ようやく絞り出すように言う。
「大丈夫。……もう寝ます」
かすれた声でそう告げ、通話を切ると、そっと窓を閉めた。
咳がまたこみ上げる。
今度のそれは深く、胸の奥の奥を抉るような鋭さで込み上げてくる。
次の瞬間、内側から締めつけるような痛みが胸に走った。
呼吸が苦しい。
心臓のすぐ近くを、誰かにぎゅうっと鷲掴みにされたような感覚。
熱い。
胸の内側が焼けるように熱くて、痛くて、息が吸えない。
思わず胸と口元を両手で押さえ、そのまま力なく床に崩れ落ちる。
手のひらに、また──あの赤い血。
電灯の明かりが、それを嫌に鮮やかに映し出していた。
……テレビで見たことがある。こういうの、たしか……
胸が、燃えているみたいに熱い。
手のひらを通して、脈打つ鼓動がじかに伝わってくる。
ドク、ドク。まるで胸の奥で何かが、暴れだそうとしているみたいに。
……明日、せっかく栞と先輩達と……神舞が踊れるのに……
床に置いたスマホが震え続けている。
それが、誰かの心配によるものだと知っていながら、もう――手を伸ばす気力さえなかった。
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