アルバムの中
「ただいま」
玄関の扉を開けると、家の中に満ちた柔らかな冷気が肌に触れた。
パタパタ、と軽い足音が廊下から近づいてくる。
すぐに母が顔を出し、ぱっと目元を細めて笑った。
「あら、お二人さん、お帰りなさい」
「お邪魔します」
諒が控えめに頭を下げる。私は靴を脱ぎながら、どこかくすぐったい気持ちだった。なんだか、変にそわそわしてしまう。
「お家デートかしら?」
母はわざとらしくニヤニヤと口角を上げ、探るような目をして私たちを交互に見比べてくる。
その視線に、頬がじわりと熱くなる。
「お母さん、おばあちゃんの写真って、遺品の中にあるかな?」
話題をそらすように、少しだけ早口になって尋ねた。
「おばあちゃんの? あるんじゃないかなぁ」
母は肩をすくめて、あっさりと答える。
「諒くん、こっち、手洗おう」
振り向きざまに廊下の奥を指さすと、諒は素直に頷いてついてくる。けれど、その歩き方がどこかぎこちなくて、緊張しているのが伝わってきた。
「諒くん、ゆっくりしてってね〜」
背中越しに、母の明るい声が追いかけてくる。
スタスタッと軽快な足音が背後から近づいてきて、母が私のすぐ隣に並ぶ。わざと狭い廊下の端をすれすれに歩きながら、私の横顔を覗き込むようにして囁く。
「なんなら諒くん、泊まってったら? 文菜どうせ一人なんだからさ」
肘でこつんと小突かれて、思わず振り返る。
「あ、いや……」
洗面台の鏡越しに、諒は困ったように眉尻を下げて、こめかみを指で掻いた。鏡に映るその顔は、少しだけ赤くなっていた気がする。
「おかーさん」
思わず声が出た。抑えきれず、少し強めのトーンになってしまう。
「はいはい、お邪魔虫、お邪魔虫……」
母はおどけたように手で口元を隠し、くすくすと笑いながら私にウインクを飛ばす。
くるりと踵を返すと、スキップでもするような足取りでキッチンへ消えていった。
「諒くん……こっちだから……おばあちゃんの部屋」
視線を横に向けて、声をかける。
「あ、ああ」
諒はまだ少し照れくさそうに笑いながら、私の後をついてきた。
キッチンの方から、母の歌声がと届く。
「愛とは~あなたの為だとか言ったら~疑われるけど~がんばっちゃうもんね~」
思わず肩をすくめそうになるけれど、同時に、ふっと気持ちが和らぐ。
この空気の中に、諒と一緒にいられることが、少し照れくさくて、でも嬉しい。
今、並んで歩くこの一瞬が、どこか懐かしい日常の一場面に重なる気がして――私は、目の前に続く静かな廊下を見つめた。
祖母の部屋は、今では使われなくなった家具や荷物がしまわれていて、物置のようになっている。
私たちは畳に正座して、黙々と押し入れを探っていた。
諒が収納ボックスを一つずつ引き出しては、私が中身を確認していく。
探しているのは、卒業アルバムと昔の写真。
指先にざらつく埃。黄ばんだ紙の匂い。
古い紙やアルバムの束に指先を滑らせながら、過去をたどるような作業だった。
二つ目のボックスの底に、やっと目当てのアルバムを見つけた。
「――あった」
思わず漏れた声に、諒が隣に膝をつき、覗き込むように身を寄せてくる。
「小学校は飛ばそう。恐らく、高校だと思うから。そっちから見てみよう」
「うん」
アルバムを開くと、クラスごとに整然と並んだ生徒の顔写真が現れる。
ページをめくる指先が少し震える。
1組から7組まで――順にめくっていく。
すぐに、祖母を見つけた。
左右に垂らした三つ編みのお下げ髪、どこか照れたような微笑み。
たしかに、そこにいた。
「おばあちゃん……」
声に出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
「文菜にそっくりだ……」
隣で諒がぽつりとつぶやく。
その言葉に、ふいに涙が出そうになる。
思いがけないところで、心の糸がほどけたようだった。
しばらくその写真を見つめていると、諒が穏やかな声で問いかけてきた。
「……記憶の中に出てきた男の子は、いる?」
「……うん、ちょっと待って」
キリッとした細い目が印象的だった。
あの少年を思い出しながら、目をこらす。
「いない……あっ、でも、”こうたろう”で探したら?」
「おばあさんの呼び方を考えると、同じ様に有職読みで呼び合っていた可能性があるけど……それも気にしながら見ていこう」
一クラスずつ、指でなぞりながら丹念に目を通す。
ページをめくる指先にも力が入る。
そして、7組にその男の子はいた。――根元高太郎。
「こうたろう、かな? たかたろう、かも……」
「とりあえず、この子で、間違いないね?」
「……うん」
胸の奥が、少しざわめいた。
ようやく、あの写真の送り主にたどり着けるかもしれない。
諒がアルバムの住所欄を確認しながら、スマホに入力していく。
「小瀬✕✕ー〇ー△……」
電話番号の欄も確認して、迷いなくタップする。
ツー、ツーというコール音が、しんと静まり返った部屋に響いた。
……繋がらない。もう使われていないようだった。
「次は写真だね」
遺品の中には、あの一枚――差出人不明の封筒に入っていた写真は、見当たらなかった。アルバムはいくつか見つかったけれど、それはなかった。
収納ケースを押し入れに戻し、ふたりで静かに戸を閉める。
「ふうー……」
二人同時に吐いたため息。
顔を見合わせ、思わず小さく笑い合う。
そのとき、襖の陰から母がひょいと顔を出した。
「どうなの、お二人さん。探し物はあったの?」
「ううん、なかった。お母さん、知らない?おばあちゃんの写真、他にないかな?」
「どうだろうね。それより諒くん、今日は、晩ごはん食べていってね」
「え?いや、そんな」
「ダメよ、もう作っちゃったんだからー」
母はいたずらっぽく舌を出すと、軽く手を振って歌いながら去っていった。
「いとしさと~せつなさと~こころづよさと~」
歌声がキッチンの方へと遠ざかる。
「……参ったな」
こめかみを掻く諒。
「……なんか、ごめん」
首をすくめる私。
また、目が合って。
笑いがこぼれる。
「……でも、写真が無いとなると、探す範囲が広がるな。……男の子の住所は今度行ってみるとしても……」
「ふうー」
自然と出たため息に、けれどその先に、何かが見えてきたような気がした。
「でもさ、何で珠代って、本当の名前で呼ばなかったんだろう?」
「どういうこと?」
「だって、好きな人の事をわざわざ、有職読みだっけ、音読みにして呼んでたの?」
「その当時、流行っていたとかじゃないか、さすがに分からないけど」
「うーん」
私は腕組みをして首を傾げる。
祖母は結局、別の人――
私の祖父と結婚した。
その恋は、実らなかった。
それでも、あんなふうに名前を呼び合っていたなんて。
切なくて、不思議で。
「……やっぱりおかしいと思う。そんな呼び方……」
「でも実際、文菜はそう呼んでるのを聞いた訳だろ?」
「まあ、そうなんだけど」
「違和感があるのは分かるけど、あだ名みたいなもんなんじゃないか」
「そうかな……」
諒は音読みだけど、仮に訓読みの”まこと”という名前だったとして、わざわざ”りょうくん”って呼ぶかな?
あの記憶の中で、二人は確かに――みよ、こうたろう――そう呼び合っていた。しかも、まるで届いてほしい願いのように、大きな声で。
「諒くんさ、私の事、あやなって呼んでみて」
「ん?」
「お願い」
「……ああ、あやな、どうした?」
言ったそばから、諒は吹き出した。
「あれ?……男の子の名前って、”たかたろう”って読むんじゃないかな」
「だから?」
「例えば、例えばだけど、自分の名前を間違って呼ばれたら、普通、言い直さない?」
「そりゃあ、そうだな」
「もし、”たかたろう”が本当の名前で、それを好きな人に“こうたろう”って間違えて呼ばれたら……。どうするかな。言い直させる?」
「うーん、分からないけど、好きな相手なら名前くらい知ってるんじゃないの?」
「あ、そっか……」
気づけば、また振り出しに戻っていた。
「ご飯できたよー!」
母の声が、キッチンのほうから陽気に響く。
「想いを~いま届けたい~この先ずっと~」
歌声が、あの記憶の声に重なって、耳の奥で静かに木霊した。
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