名前の秘密
諒が運転席のドアに手をかけた瞬間、ふと視線を感じて顔を上げる。
文菜と目が合った。
麦わら帽子を片手で押さえながら、唇の端を上げて笑った。
でもそのすぐあと、照れくさそうに目を伏せると、小さく会釈するようにして車に乗り込んだ。
俺もドアを開けてシートに身を沈める。
エンジンをかけると、車内にこもっていた、もわっとする熱気がエアコンの風に押され、ゆっくりと流れていく。
ハンドルに手を添えながら、さっきの畑の言葉を思い返す。
……結婚、か……
あの口ぶりからすると、畑の中では、俺たちは高校時代からずっと付き合いを続けている設定のようだった。
けど、実際は付き合ってはいなくて、あの頃の自分達が、そのように見えていた事に少しだけ驚いた。
ちらりと隣に目をやると、文菜はバッグから汗拭きシートを取り出し、首筋をそっと拭っていた。
その手元は、どこか落ち着かない。
次に指先は、腿のあたりをなぞるように撫でている。
そういう自分も、気づけば肘の内側を擦っていた。
ボンネットの上に、木漏れ日が落ちている。
葉の間を抜けてきた光が、車体に揺れて映る。
まるで過去の残像が、水面のようにきらめきながら広がっていくようだった。
……畑の話も気になる。磐座のこと、結界のこと、ももそ姫の伝説――
けれど今は、それよりも文菜に聞きたいことがある。
「諒くん、さっきの話の続きなんだけど……」
不意に文菜が口を開いた。
その声はかすかに揺れていた。
顔を向けると、文菜は伏し目がちに唇を噛み、こちらを窺うようにしていた。
その表情に、口元が自然と緩み、ゆっくりと尋ねた。
「……そうだね、その、誰かの記憶みたいな中で見た男の子に、見覚えは?」
「あるわけないよ、ただ、凄くまじめそうな感じはしたかな」
「みよと、こうたろうって名前も」
文菜は戸惑うように頷きながら、また太ももをそっと撫でた。
さっきまでと違って、その仕草には迷いや照れよりも、何かを確かめるような静けさがあった。
「確か男の子は、小さな岩場に上って写真を撮っていたんだよな」
バッグから例の写真を取り出した。それには、文菜によく似た女性が、重岩を背に微笑んでいる姿が写っている。
「この画角で撮るには、ある程度の高さが必要なんだ。でも……今はその岩場自体がない」
「そうなの?」
「うん。崩落してるところもあったし、以前はあったのかもしれない……」
文菜が静かに息を呑んだ気配がした。
「じゃあ」
「この写真は、かなり前に撮られた可能性が高いってこと。ちなみに、文菜のお母さんとおばあさんの名前は?」
「母さんは、さとみ。おばあちゃんは、たまよ」
「そっか……」
天を仰いだ。
名前が一致すれば、写真の謎の一端が解けるかもしれないと思った。
ただ、なぜそれが文菜に送られてきたのか。
その理由は、まだ闇の中にある。
「諒くん、さっきは……ありがとう」
文菜の声に振り返る。
「ん?いや、気分は?どう?」
「うん、大丈夫。……これからどうしようか……」
車内の時計は15時を過ぎたばかり。
調査もしたいが、今の所、安居と男からの連絡を待つしかない。
情報が欲しい。
「……でもさ、先生、今でも諒くんのこと、まことって呼ぶって、なんだかおかしいね」
文菜がふっと笑う。
「ああ、俺の名前、確か訓読みで”まこと”とも読むらしいし、甥っ子さんが……」
言い掛けた瞬間、ピクリと眉が動いた。
頭の中に引っかかりが生まれる。
思考の中に混ざり込んだ、微かな違和感。
ハンドルに突っ伏して、その正体を探る。
「……諒くん?」
文菜の声が届いたときには、もう身体が動いていた。
「文菜、おばあさんの名前どうやって書くの?」
高ぶった気持ちが抑えきれず、左手が自然と文菜の前に突き出されていた。
少し語気が強くなったのを自覚して、ハッと息を飲む。
文菜は小さく身体をすくめ、びくりと肩を揺らす。
戸惑いの色がにじんだまなざしで、こちらを見上げていた。
「あ……ごめん、驚かせたよな。ちょっと気になることがあって……」
呼吸を整えるように言い訳を口にすると、文菜はそっと首を横に振る。
「ううん……」
文菜はそっと目を伏せた。
そして、落ち着かせるように指先を太ももに添え、一度だけ撫でる。
「おばあちゃんの名前。……真珠の珠に、君が代の代で、珠代だよ」
「ありがとう」
文菜は伏し目がちに頷き、はにかむ。その顔を見て自然と微笑み返した。
ゆっくりと、スマホを取り出し、珠の字を調べる。読み方の一覧に、目が吸い寄せられる。――しゅ、じゅ、たま、す、ず、み。
「……みよさん」
つぶやいた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
それでも、文菜は瞬きをしてこちらを見返した。
「……有職読みだよ」
「ゆうそく……?」
「うん、詳しい事は分からないけど、確か名前を音読みで読む慣習のことだったはず」
ぞくりと背中を走る感覚。
息を呑む。
小さな、ほんの小さな糸口かもしれないが「カゲヌシ」に繋がる初めての情報。
高揚を押さえたくても無理というものだ。
「この写真に写っているのは……文菜のおばあさん、珠代さんだ」
「え?」
文菜は唇を少し開けたまま、固まっている。
その目が、驚きと混乱に揺れている。
「珠という字は「み」とも読む。みよさん。つまり文菜が体験した記憶の中の女性は珠代さんで間違いないと思う」
「おばあちゃん……」
「うん。男の子は二回シャッターを切ったって言ってたろ?きっと、お互いに現像した写真を持つためだよ」
「じゃあ、男の子って、おばあちゃんの恋人だったってこと?」
「うん、そうだと思う。ところで、おじいさんの名前は?」
「…え?あ、えーと……しげゆき。茂みに幸せで。茂幸」
「え?」
男の子の名前は、こうたろう。
――しげゆきとは、あまりにかけ離れている。
シートに深く身体を預けながら、目を閉じる。
どうすれば、この男の子を調べられる……?
それに、“こうたろう”も有職読みだったら……。
「……ごめん、ちょっと一服させて…」
シートベルトを外し、ドアに手をかけた。
そのとき、文菜の小さな声が引き留めた。
「諒くん……家来る?」
「ん?」
「おばあちゃんの写真があるか調べてみたいの。もし家にあれば、その”こうたろう”って呼ばれた人が、私に写真を送ったっていう事になるし、もしかしたら、”こうたろう”って子の写真もあるかもしれない」
「なるほど!」
まだ、望みはある。
シートベルトを締め、力強くハンドルを握った。
「ありがとう、文菜」
「え?……うん」
頬をわずかに紅く染め、恥ずかしそうに笑う文菜の指先が、また同じ場所に添えらていた。
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