小さな冒険の先で
重岩の駐車場は、がらんとしており自分達の車しか止まっていない。
外に出ると、午後の陽射しが容赦なく照りつけ、ムワッとした熱気が一気に全身を包む。
暑さに蝉の鳴き声さえ負けているようだった。
「暑いね」
「暑いな……」
たったそれだけの会話なのに、どちらからともなく笑い合う。
ここからは、重岩へ続くおよそ500段の階段を上ることになる。
文菜は、食後の運動と思って気合を入れ、麦わら帽子を深くかぶる。
手にはハンドタオルとペットボトル。
ふたり並んで歩ける階段の中央には、手すりが一本通っていた。
諒が先に立ち、私はその背中を追う。彼はときどき振り返って、「大丈夫?」と声をかけてくれる。
そのたびに、気づけば頬がゆるんだ。
両脇には木々が連なっているけれど、尾根に沿って設けられた階段には日陰がない。
当然、陽射しを遮る物はない訳で、降り注ぐ光のシャワーは浴び放題になる。
一段一段を踏みしめるたびに、汗がじわじわとにじむ。
けれど、諒は何度か立ち止まって、「休憩しよう、水、飲もう」と声をかけてくれる。
そんな小さな気遣いが、心に優しく染み込んでいく。
それでも、さすがに息が上がってくる。
「大丈夫?」
何度目かの声がかかる。
「うん、あとちょっとで階段終わるし」
そう言いながらも、自分に言い聞かせているようだった。
ようやく階段を上りきると、八畳ほどの平地の空間に出た。
ここには、お堂のような社と、古びたベンチがある。
瀬戸内海を一望できるこの場所は、ドラマのロケ地としても知られている。
さすがに、今は景色を楽しむ余裕はなかった。
「ふうー」
長く息を吐いてベンチに腰を下ろす。
じんわりと熱をもった座面の感触が、布越しに体へと伝わってくる。
額と首元の汗をシートとタオルで拭う。
そして、渇いた喉に、ペットボトルの残りを一気に飲み干した。
「もう少し風が吹いてくれたら、だいぶ違うんだけどな……」
そう言う諒も、眼鏡を外し、タオルで額を拭いていた。
「そうだね……」
空になったペットボトルをショルダーバッグの中に仕舞う。
もう一本、買っておけばよかったな……
と、少し悔やむ。
背中には、ジリジリと焼かれるような暑さが襲ってくる。
ああ、日焼けしちゃうな……
思わず苦笑い。
「俺は、もう一本あるから、これ飲みな」
諒がミネラルウォーターを差し出してきた。
「ありがとう」
本音を言えば、暑すぎて顔からそれを浴びたい気分。
早速キャップを開けて口をつけると、喉がゴクゴクと音を立てて応える。半分ほど一気に飲んだ。
「いい飲みっぷりだな」
「もう……」
口を尖らせて諒を睨んでみせると、諒は気まずそうにこめかみを掻いて照れたような顔をする。
視線が重なり、ふたりして笑い出す。
なんかいい感じ、嬉しい。
生暖かい弱々しい風が、ワンピースの裾を、申し訳程度にそよいでいった。
「……小瀬石鎚神社…」
諒が小さく呟いた。
「どうしたの?」
「え? いや、これが神社なんだって……」
諒は身長より少し高い社を指さしていた。
それはどこか可愛らしく小さな神様の家みたいに思えた。
社の脇には『小瀬石鎚神社』と記された幟が数本、ゆるやかな風にゆったりと靡いている。
この後は、社を囲む木々の裏にある、ちょっとした岩場を上り、尾根に出れば、重岩へと辿り着く。
「じゃあ、もう一息。行こうか」
「うん」
諒を先頭に、再び歩き始める。
岩場を上る時、足場が不安定な場所では、諒がためらいなく手を差し伸べてくれた。その手は少しだけ汗ばんでいて、けれど、不思議と心地よかった。
岩場を上りきり、尾根伝いの道に出ると、四方に視野が広がり、山並みや海、島々が目に入る。
「着いた」
声に出しながら、両手を組んで、グッと前に突き出し伸びをした。
目の端で、諒も同じように伸びをしていて、一瞬見つめ合い、ふっと吹き出して笑った。
視界の先、道の終わりに、少し押し潰された円のような形をした重岩が見える。
私たちは細い木で作られた鳥居をくぐり、先へ進む。
足元の道は起伏があり、両脇には簡素な杭と細い転落防止用のロープが張られていた。それは頼りなげで、風が吹けば今にも揺れてしまいそうで、思わず足がすくむ。
ほんの数歩先は、断崖のように切り立った斜面。思わず息をのむ。
そのとき、不意に、諒がそっと私の手を取った。
「……っ!」
ビクンっと跳ねる。
しっかりと握ってくれた手の安心感と同時に、その温もりが血液を伝って全身に巡っていく。
横目でそっと諒を見る。
いつもの、少しとぼけたような、それでいて真剣な顔で前を見ていた。
恥ずかしそうでもなく、戸惑った様子もなく、ただ自然に、私の手を包んでいる。
「あぶないから」
落ち着いた低い声に、小さくうなずく。
「ありがと」
声がうまく出ずに、かすれてしまった。
少し歩くと、道幅はやや広がった。足元の不安も少し和らいで、ふっと肩の力が抜ける。
ホッとしたのと、手を繋げた喜びが重なって、いたずらっぽく手をぶんっと大きく振ってみた。
繋いだままの手が揺れる。
諒は最初、ちらりとこちらを見て、目元にうっすらと笑みを浮かべた。
けれど、何も言わず、そのまま私の動きに合わせて、静かに手を振ってくれる。
そのさりげなさが、心をくすぐる。
照れ隠しのように、もう一度ぶんっと振ってみる。
今度は、ほんの少しだけ、諒の指先に力がこもるのを感じた。
ほんの些細な事で、心の中がぽうっとあたたかくなる。
立ち止まりたくなるほど、やさしい。
ただでさえ暑いのに、体の内側からも火照りがこみ上げてくる気がする。
やがて、足元の道が地面からコンクリートに変わり、両側にもコンクリートの壁が現れる。
さっきの道に比べれば十分安全だった。
そして正面には道を塞ぐように、大きな重岩が鎮座している。
まるでそこに何かを封じるかのように。
ふたりして、そこへ歩み寄ると、自然と手が離れた。
その手の余韻を確かめるように、胸の前でそっと握りしめる。
初めて手を繋げたことが、ただただ嬉しくて。
心の中で、密かに、二度目のガッツポーズ。
諒は、真っ平らな重岩の岩肌を仰ぎ見て大きく息を吐いていた。
重岩の表面は、光を反射してか、どこかぼんやりと輝いているように見える。
もちろん、ここも陽射しを遮るものはない。
ハンドタオルで汗を拭いながら、それを扇ぎ風を起こす。
「……久しぶりに来たけど…」
こぼれた言葉も、熱気に溶けるように消えた。
暑さのせいか、意識がぼんやりと霞みそうになる。
首を小さく振り、何とか気を保とうとする。
「この辺だよな、写真の人が立っていたの」
諒は、重岩を背にしてこちらを振り返った。
「ちょっと、ここに立って見て」
「うん……」
促されるまま、諒と入れ替わるようにして、その場所に立つ。
諒は写真を手にしながら、限られた空間をうろうろとさまよい、撮影場所を探しているようだった。
陽炎のように、ゆらゆらと景色が揺れている。
「……どう?」
あれ?……
……私が……揺れてる?……
体がふわっと浮いたような。
地に足がついていない感じ。
「おかしいな……」
諒の声が、遠くに聞こえる。
そのシルエットも揺れている。
頭の奥がスッと冷えた。
血の気がスーッと引いていく。
「諒……く……」
声が、うまく出ない。
視界がボンヤリとなる。
輪郭から徐々に色が抜けていく。
世界がモノクロに染まる。
「この写真だと……おい、文菜、文菜!」
あ、変だ――
そう思ったときには、もう。
諒の声だけが、真っ暗な中で反響していた。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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