心は水色
文菜は、7時に目が覚めた。
体は元気なのに、心と頭がどんよりと重い。昨日のあの奇妙な出来事が、心の奥に重しのように沈んでいる。
パンにバターを塗ってトースターに入れ、焼き上がるのを待つ間、椅子に腰を下ろして目を閉じた。
せっかくの“デート”の朝なのに、不安と戸惑いが胸の中で渦を巻いている。
昨夜、玲美に電話で不思議な体験談を話した。
玲美は驚きの声を上げながらも、しっかり最後まで聞いてくれた。
『何それ、怖いんやけど……私にも何かあるって事なんかな』
「玲美に?」
『だって、私さおかしな夢みたやん』
「でも、私の夢でしょ?」
『そうやけど、それ本当に私だったん?』
「うん、玲美に似てたけど…」
『そうなんや、私のそっくりさんか…でも、よく玄関開けんかったね』
「それは、声とか話し方が、何か違ってた」
『さすが、親友っていう感じやね』
「何か、変な話でごめん」
『ううん、何かあったら連絡してよ、水臭い』
「うん、ありがとうね、玲美」
『あ、そうそう、ちょうど文菜にメッセージ送った後にな、亜希が来たんよ、文菜帰って来てるって、教えたら会いたい言うてたよ』
「そうなんだ、私もみんなに会いたいな」
『亜希も、連絡するって』
「私もしてみる」
『あ、そうや、もしあれだったらさ、文菜、お祓いしてもらったら?』
「お祓い?」
『ほら、前に話した行方不明になった男の人、その人を島のあちこちで見たって人がいるみたいでさ、でも、みんな幽霊みたいに消えたって、そんなんで怪異やないのかって噂話が広がったん、気味悪いじゃん』
「そうなんだ」
『そうなん、もし気が向いたら、神主さんに話しとくよ、あっでも、諒くんのとこのがいいか、彼の家も神社じゃなかったっけ』
「もう、玲美ー」
『はいはい、お邪魔虫です』
「もう、玲美。感謝してるん、ありがとう」
『…して…』
「ん?」
『ううん、そしたら…また連絡するねー、おやすみー』
「うん、おやすみ」
チン――乾いた音が響き、目を開けた。
香ばしいパンの匂いが、キッチンの空気にゆっくりと広がっている。
椅子を引いて立ち上がり、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出す。
焼き上がったトーストを皿にのせ、テーブルへと運ぶ。
並べ終えたところで、椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
グラスに口をつけると、アイスコーヒーの冷たさに、思わず肩がすくんだ。
一口、トーストをかじる。
けれど、その手がふと止まる。
視線が、窓の外へと自然に向かっていた。
夏の日差しに洗われた空が、ゆったりと流れている。
心の奥にはまだ、掴みきれない何かが、ひっそりと居座っていた。
──呼ばれている。
そんな感覚が、うっすらと胸をかすめる。
昨日、諒が”助けに”来てくれた時、その漂う感覚を伝えようとしたけれど、母が帰ってきたので声に乗せる事が出来なかった。
それから、どうしても、話したくて”デート”の事を口実に諒に電話をかけた。声が聞きたいのもあったから。
諒は、その事について何も語らなかった。ただ一生懸命考えてくれている。そんな沈黙があって。
「あまり考え込まないで、ちゃんと休めよ」
あたたかな声だった。
私の性格を見透かしたような、気遣いが込められた言葉、寄り添おうとしてくれる、そんな気配が嬉しかった。
完璧に吹き飛ばせたわけじゃないけれど、それでも──
そのお陰で、きちんと眠れた。
昨日だって、何もなければ、ただの楽しい一日だったはずなのに。
でも、”あれら”の出来事があったからこそ、諒との”デート”の約束につながったという一面もある。
そう思うと、全てが悪いことだったわけじゃないのかもしれない。
とはいえ――
……諒くんには、迷惑はかけちゃってるよね……
──だから、今日はちゃんと顔を上げたい。
食べかけのトーストをアイスコーヒーで流し込む。
冷たさが喉を通ると、少しだけ気持ちもシャキッとした。
両手を組み、頭の上でぐっと伸びをすると、体と一緒に、心も少しほぐれた気がする。
よし、と小さく息を吐き立ち上がった。
──きちんとした自分で会いたい。
そんな思いを胸に、洗面所へ向かう。
顔を洗い、歯を磨き、鏡に映る自分に微笑み返す。
――今日は、ちゃんと笑えるよね。
さらに気持ちを切り替える為、ベッドの上に服を並べた。
一枚一枚、手に取って、鏡に映してみる。
選んだのは、淡い水色のワンピース。
夏らしい、涼しげな色合いが気に入っている。
メイクを済ませて、髪は低めの位置でまとめる。
麦わら帽子を被り、ショルダーバッグを肩にかけて、鏡に向かい全身をチェックする。
鏡の前でひと呼吸。
「……大丈夫かな」
つぶやく声が小さく部屋に溶けていく。
部屋を出て階段を降り。
キッチンにいる母に声を掛ける。
「母さん、行ってくるね」
「あらあら、珍しく可愛らしい格好して……さては諒くんとデート?」
廊下に出てきた母は、にやけている。
「……うん」
「焦らないで楽しみな。きっと諒くん、お前のこと……好きなんじゃない?」
「え?」
「さあ、行った、行った」
母は背中をポンと押した。
「じゃあ、行ってきます」
ベージュのキャンバスシューズを履いて、玄関を出る。
夏の日差しが眩しくて手を翳す。
プーッ。
軽くクラクションの音が響く。
車の運転席の窓が下がり、諒が顔を覗かせている。
「おはよう」
いつもの、柔らかい声。
「おはよう、諒くん」
自然と頬が緩み、小さく手を振る。
ほんの少し心が浮ついて、小走りで近づき、助手席に乗り込んだ。
少し鼓動が早い――
諒との“初めてのデート”が始まる。
隣にいる諒を、サッと視線でなぞる。
マリンブルーのTシャツに、グレージュのパンツ。
昨日よりもきちんと整えられた髪型に、緩みそうになる頬を堪える。
姿勢を正してハンドルを握る手が、妙に落ち着いて見えるけれど――
ときどき、ギアに添える指先が微かに動いたり、喉仏が上下したり。
……諒くんも緊張しているのかも。
「店って何時から?」
「……え?えっと、11時から……」
「そっか、まだ少し時間あるな……」
ほんの少しでも一緒にいたくて、約束の時間を早くした――
それを口に出すのは、なんだか気恥ずかしかった。
「そう……だね」
「少し、ドライブでもするか」
こっちを向いた諒の視線が、朝の光を受けて優しく揺れる。
「うん」
小さく頷くと、車はゆっくりと動き出す。
「後ろの荷物は気にしないで。これ、伯父さんの車だからさ」
ちらりと後部座席を覗くと、段ボール箱がいくつか積まれていた。
日常の延長にある小さな風景が、今はなんだか少しだけ特別に思えた。
「天気よくて、良かったね」
「ああ。……昨夜、ちゃんと眠れた?」
気遣うようにかけられた言葉が、胸にすっとしみ込む。
嬉しい。でも、迷惑をかけてしまった申し訳なさも、どこかで小さな棘のように引っかかっている。
「……うん、眠れた」
信号待ちで車が止まる。諒は一瞬だけ、こちらに視線を向け、すぐに前を見た。
「……文菜、その服だけど……」
「ん?」
「……似合っていると思う」
褒め慣れていないのか、ちょっと照れたような声音。
ほんの一瞬、視線が重なり、それからまたすぐに逸れる。
たったそれだけのやり取りなのに、頬がほんのりと熱くなり、小さく微笑む。
「ありがとう」
心に巣くっている感覚が、少しだけ溶けていくのを感じた。
それから、諒は仕事中、つまり荷物の配送中に起きた、エピソードを話し出した。
「去年の暮れの事なんだけど、一戸建ての配達先で、インターホン鳴らしたら、渋い男の人の声で“どうぞお入りください”って」
「うん」
「それで、玄関開けたら、黒スーツの男が3人、正座で並んでた」
「え?怖いんだけど?」
思わず声が裏返る。諒の語り口は淡々としていて、それがなおさら可笑しさを誘った。
「“お持ちの品は例のブツでしょうか”って言われた。米だったんだけど」
「お米?」
「そう、サインもらったら“取引完了です。これで今年も越せます”って深々と頭下げられた」
「何それ!」
おかしさがこみ上げて、思わず吹き出してしまう。
お腹の底がふるふると震えて、痛いくらいだった。
「結構あるんだよ面白い事……そうそうこの間なんか、荷物の宛名が苗字は伏せるけど“クロ様”でさ、カタカナでクロ」
「クロ?猫っぽい……」
「当たり。で、玄関出てきたおばあちゃんが、“この子が受け取ります”って言って、猫を抱えて出てきた」
「えっ、本人登場……」
「“じゃあ、代筆で……”って言ったら、“筆がないの。肉球でお願いします”って」
「まさか?肉球サイン!?どうしたの?」
必死にこらえながら聞く。
「スタンプ台、出てきた。慣れてた」
「すごい!」
「でも、お婆ちゃんもサインしてくれたけどね」
「もう……もう、お腹痛い」
こんなふうに呼吸が追いつかないほど笑ったのは、いったいどれくらいぶりだろう。
「まだあるけど」
「お腹いっぱいだよ」
「そう」
必死で笑いを抑える私に、諒はちらりと視線を寄越す。
そして、ほんのわずかに、口元を緩めた。
フロントガラス越しに、あたたかい光が差し込んでいる。
その光が、全身をやさしく包み、すべてを洗い流してくれるようだった。
緊張も、迷いも、不安も。
体の内側から、やわらかな温もりが、じわじわと満ちていく。
この時間を、今だけは、ただ素直に大切にしたいと思った。
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