人間がさ、一番されて悲しい事って何? 三章
朝のお清めが終わり、見上げた空には、綿のようにふんわりとした白い雲たちが、思い思いの形に姿を変えながら、のんびりと流れていた。
心の奥でざわついていた感情の残滓も、今はまるで瀬戸内海の穏やかな水面のように、静かに落ち着いている。
——まさに奇跡みたいだった、栞との再会。
まるで時を越えて手を差し伸べてくれたような、そんな不思議な感覚がまだ胸の奥に残っている。昨夜は寝る間際まで、メッセージを何度もやり取りしていた。
あれはきっと、ご先祖さまが引き合わせてくれたのかもしれない。
「ありがとう」
胸の奥からこぼれた言葉と共に、ひと粒の涙が頬を伝った。
山から吹き下ろしてきた清らかな風が、まるでそれを拭ってくれるかのように優しく攫っていく——その一瞬、「ありがとう」という女性の声が聞こえた気がした。
え?
キョロキョロと見回す。
蝉の声、鳥のさえずりと葉擦れの音しかないはずのこの空間に、確かに聞こえた声。
すると、参道の方から足音がした。
黒縁の眼鏡をかけ、髪を几帳面に分けた痩身の中年男性が、こちらに向かって歩いてくる。上下ジャージ姿に、脇にはノートパソコンを抱えている。
「おはようございます」
礼儀正しく、少し息を整えるようにして男性は言った。
「はい、おはようございます」
小さく会釈を返す。
「もう、お清めは終わってしまいましたかね」
「ええ、今さっき」
「そうですか…いや見たかった」
残念そうに肩を落とし、ふう、とため息を漏らす。
「すんません、私は畑といいます。夕凪島の歴史を研究してるおじさんですわ。ここの弓削……宮司とは昔馴染みでね」
「ああ」
その声に、思い当たる節があった。座敷の掃除を頼まれた日に来た、お客さんだった。
「ちょっと、聞きたいことがありまして」
「何でしょう?」
「ももそ姫って聞いたことありますか?」
「は?」
突拍子もない質問に思わず間の抜けた返事をしてしまう。
「ですよねぇ、やっぱりご存じないか……」
畑はパソコンを抱え直し、眉をしかめてつぶやく。
「あの、そのももそ姫?って何ですか?」
「分かりません」
「へ?」
またしても、おかしな返事をしてしまう。
「いや、何ちゅうか、先日尋ねて来た人がいましてね、夕凪島に文献に残っていない儚き姫様の物語があるんですって話を聞いてね、色々調べているんです。姫というくらいだから身分は高い、だから神社を片っ端から回って話を聞いてるところなんです」
まるで少年が冒険譚を語るときのように、畑の目はキラキラと輝いている。
「何でも、島の未来の為に若くして亡くなったとか…私も郷土史家の端くれとして文書の蔵書は多いんです。ただ、肝心のももそ姫に関する記述があるものが全くもって見つからんのですわ」
「なる…ほど」
「そしたら」
畑は行儀よくお辞儀をすると、磐座の方に向かい、丁寧に手を合わせた。静かに祈りを捧げる姿に、歴史への真摯な姿勢が滲んでいる。
それを横目に見ながら、社務所へと戻ろうとした——その時、ふと足を止めた。
あれ……?
畑の姿が見えない。
視線を彷徨わせる、彼は社殿の脇から山へと続く細道へと歩を進めていた。
「あの……」
気づけば声が出ていた。畑は振り返り、微笑みながら待っていてくれる。
思わず早足になり、チョコチョコと、そばまで駆け寄った。
「どうかしましたか?」
「この先って何かあるんですか?」
「ああ、そこにある磐座は元々はここを少し登った先にあったみたいでね」
畑は指をさして山の方を見る。
「?」
「おそらく地震か何かで今の場所に落ち着いたって言われているんですよ」
「……なるほど」
山道の先を見つめた。木々の間から差し込む光が、まるで導くかのように小道を照らしている。
「何か気になる事でも?」
「いえ…ありがとうございました」
小さく頭を下げると、畑はにこやかに頷いて、軽やかな足取りで山道を進んで行く。あの“影の男”が姿を消したあの山道へ。
「おはよう」
ビクッと体が跳ね上がる。
「あの、普通に登場できないんですか?」
振り返らずに答える。背後から間の抜けたような声が返ってきた。
「そうかな?僕はいたって普通だけど?」
ゆっくり回れ右をする。
跳ね毛くんは、腕を組みながら、手に持った木の枝を指揮者のように揺らしている。
「?」
首を傾げると、跳ね毛くんは、両手を広げて首を傾げる、まるで鏡の中の自分と対話しているようで、妙におかしい。
すると、跳ね毛くんは、ひょいとしゃがんで、手にした枝で地面に何かを書き始めた。
――清原慎哉――
丸みを帯びた文字。
意外なほど愛らしいその筆致に、つい笑ってしまう。
彼のイメージとはあまりにも違っていて。
跳ね毛くんこと慎哉は書き終わると、枝を掌にトントンと打ち付けながらこっちを見上げている。
「僕の名前」
「はい、きよはらしんやさん」
慎哉はニコリと笑って、ゆっくりと立ち上がり、片足でその名を踏み消した。
「今日の御用はなんですか?」
「ふーん、じゃあね、クイズを一つどうかな?」
「クイズ?」
慎哉は片手でポケットからスマホを取り出し、何やら操作している。
「そう。制限時間は1分。じゃあ、問題。人間がさ、一番されて悲しい事って何だと思う?スタート!」
「え?え?」
「50秒」
「え?ちょっと」
「40秒」
「……」
一番されて悲しい事…なにそれ……急に。分かるわけないじゃん。だってそんなの、人によるでしょ?
「30秒」
焦りに思考がからまり、言葉が喉の奥でつかえる。頭の中が真っ白になる。
「20秒」
不意に――栞の顔が浮かんだ。昨日、10年ぶりに偶然再会した彼女の、あの笑顔。私の名前を呼んでくれた声。覚えていてくれたことに、胸の奥がじんわり熱くなった。
私は――
「10秒…9…8…7…6…5…4…」
「忘れられる事」
言葉を口にした瞬間、慎哉が表情を変えずに近づいて来て、また鼻先が触れるくらいの距離に顔を寄せてきた。
「どうして、そう思ったんだい?」
鳶色の目が、少し潤んでいるようだった。
「どうしてって、もし私が忘れていたら、しーちゃん……悲しかっただろうなって……」
忘れていたわけじゃない。でも、思い出そうともしなかった。それが、どこか申し訳なかった。
「……あ、しーちゃんって幼稚園の頃の友達で、昨日10年ぶりにバッタリ会えて……しーちゃんは私の事、すごく大切に思っていてくれていたけど……私は忘れていた訳じゃないけど……その……」
言葉が詰まると、慎哉の手がそっと伸びて、私の口元を優しく覆った。
「うん、その通り。誰にも覚えていてもらえない。一番悲しい事。誰にでも覚えていてもらえる偉人になる必要はなくて、大切な人に、忘れられてしまうこと。それは、生きた証を失うことなんだ」
「…」
「あの、掛け軸の女性がそうだったんだよ…人知れず、みんなのために命を犠牲にしたのに、みんなに忘れられてしまった。当然、誰にも思い出されることがなかった」
「…」
口を覆っていた彼の手が頭を優しく撫でる。まるで、古い記憶をなぞるように、静かで、優しい手つきだった。
「その人の名前は……」
慎哉はニコリと微笑むと、またしゃがみ込み、枝を使い地面に文字を刻んだ。
――神奈備百々楚――
「かむなびのももそ姫」
「百々楚姫……」
胸の中の何かが弾ける。名もなきものに光が差すような、不思議な感覚。
哀しくはない、むしろ嬉しい、喜んでいる。そんな感情。
目の前の慎哉の顔が滲んでいく。
「……どうしてだろう、聞いたこともないのに……懐かしい気がする」
呟くと、慎哉は静かに頷いた。まるで、その反応が当然のものだと知っているような目をしていた。
「きっと、心の奥底にあるんだよ。忘れてしまっただけで、大切な記憶が」
慎哉は今度はゆっくりと両手で土をなでるように平らにし始めた。その指先の動きにはどこか儀式的な美しさがあり、見ているだけで自然と背筋が伸びる。
「ねえ、聡ちゃん。人の記憶って、心じゃなくて“魂”に刻まれるって言われてる。だから、理屈じゃ思い出せなくても、魂はちゃんと覚えてるんだ」
「……魂に」
「うん、だから君が涙ぐんだのも、きっと、魂が反応してるんだと思う。……ねえ、少しだけ、ももそ姫の話をしてもいいかな」
慎哉の声は、いつになく静かで、でも確かな温もりを帯びていた。
小さく頷いた。頷きながら、無意識に手を胸に当てていた。
そこにまだ余韻のように残る、ももそ姫という名の響きを、確かめるように。
慎哉は枝を手に取ると、何も言わずに小さく息を吐き、地面に今度はゆっくりと、慎重に言葉を刻んでいく。
――生まれながらにして、人柱の運命を背負わされた少女。
――祈りと共に、光の中へと消えていった。
――誰の記憶にも残らぬまま、名もなき風となって。
一文字一文字に、慎哉の指先が心を込めるように動く。その姿に、息を呑んだ。
「……忘れられるために生まれた人なんて、あんまりだよ」
声が震えた。
「そうだね。でもね、誰かが思い出したその瞬間、彼女はもう“忘れられた存在”じゃなくなる」
慎哉はそう言って、またふわりと笑う。
どこか哀しみを含んだその笑みに、胸が締めつけられるようだった。
「聡ちゃんは、今、彼女を覚えた。だから……百々楚姫は、生き返ったんだよ」
「……そんなこと」
「あるさ。だって、君の涙は“覚えている”証なんだから」
優しく、慎哉の指先が聡の頬に触れた。さっきと同じく、そっと涙の軌跡をなぞるように。
その温もりに、心の奥で、何かがぽたりと落ちた気がした。
「……慎哉くんって、本当に何者なの?」
そう問いかけると、慎哉は地面に枝をトン、と叩いて、またにこりと笑った。
「ただの、跳ね毛くん」
「……変なの」
呆れ混じりの声で言うと、慎哉は嬉しそうに目を細めて言った。
「それ、褒め言葉だね」
見つめ合っ笑う。
胸の奥に、確かに“百々楚姫”の名が刻まれていた。
「でも、あの掛け軸の絵は?」
「僕が描いたんだ」
「え?」
「上手い、上手い!上手いでしょ?」
慎哉は身をよじって手を叩きながら、まるで褒められて得意になった子供のように笑う。
その無邪気な仕草に、肩の力がふっと抜けるのを感じた。
「今のダジャレ、神レベル」
「…ああ」
頬を膨らませていると、両手で頬を押さえてきて、吹き出した息が、ブーと間抜けな音を立てた。
笑いと涙が交じる空気の中、風が静かに山道を抜けていった。
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