頭と心に浮かぶもの
何もかもが、骨の髄まで重たかった。
最近の睡眠不足も、それに拍車を掛けている。
流石に、疲労感が体の隅々までじわじわと染み込んでいて、まともな思考すら阻まれていく。
窓を少し開け放ったままの部屋に、夜の湿った空気が流れ込んでいた。
ひぐらしの声はとっくに途絶え、遠くで虫の音だけが細く、頼りなく続いている。
今日一日だけでも、溢れる情報の波に吞まれそうになった。
散らばった断片に、答えを求め続けた代償だ。
それは、分かっていても、体は正直だった。
諒は両手を前に突き出して伸びをする。
「ふうー」
溜め息をひとつ。
机の上には、封筒、手紙、写真、御朱印帳が雑然と散らばっている。
それらから無意識に目を逸らし、椅子にもたれかかるように身を沈め、そっと瞼を閉じた。
ぼんやりと、文菜の姿が脳裏に浮かぶ。
「助けて…」
か細い弱々しい声が静寂の中にこだまする。
あんなにも取り乱した文菜を見るのは、初めてだった。
震える声、強ばった顔、消沈した瞳。
どれも、文菜には似つかわしくない――
などと勝手な事を思う。
自分の顔を見た途端、まるで神様か何かを見るように向けてきた、あの安堵の眼差し。
それが、どれほど文菜を追い詰めていたかの、何よりの証だった。
「ふぅー」
目を開き、再び、大きく息を吐き出した。
煙草を一本手に取り、口に咥える。
文菜が見た"玲美"──あれは、何者なんだろうか。
本物の”玲美”は家に着いたとメッセージを送っていた。
得体の知れない存在なのか。
カチリと火を灯し、立ち上る煙を目で追う。
ゆらゆらと天井の辺りで広がって空気に馴染んでいく。
思い起こされるのは、あの男の忠告だった――
男は、辺りに目配せをして、煙草を吸う。
『いいか、信じてもらうとは思わない』
言い終わったあと、吐息と一緒に煙を吐いた。
男は、自分の顔の前に指を二本、力強く突き出した。
『俺が、あんたの依頼で調査を兼ねて"影の男"として動き回ってたときだ。……二度だ、二度死にかけた』
男の声音には、いつになく切迫したものが滲んでいた。
『一度は重岩、一度は寒霞渓だ。……声を聞いたよ。何を言っていたかも、男か女かもわからない。ただ、気がついたら、足元は崖。一歩前は、奈落だった。記憶にないんだ。どうやってそこに行ったのかも…でもな、背中を誰かに、確かに押されたんだよ」
そして、男は苦虫を噛み潰したような顔で、つばを吐いた。
落ちそうになった煙草の灰に気づき、灰皿を引き寄せる。
指先でそっと煙草をはじき、灰を落とした。
あの男が嘘をつくとは思えない。
何せ、元刑事の探偵だ。
男があれほど動揺した顔を見たのは、初めてだった。
やはり伝承にあるようにカゲヌシは怪異な存在なのか。
だとしても。
それが、自分とどんな関係にあるのだろうか?
なぜ文菜まで巻き込まれる?
目の前に立ち上る煙の向こう側に、答えはぼんやりと見えそうで見えない。
吸い殻で溢れた灰皿に、煙草を押し込む。
小さな火種が、じりりと音を立てて──一筋の煙と共に消えた。
「やるしかないんだよ…」
膝を叩いて、気休めの気合を入れる。
ノートを開き、少しずつ、絡まった糸を解くように、情報を整理していく。
――俺と文菜、それぞれに届いた謎の封筒。
共通点は、赤黒い墨で書かれた宛名。楷書体のような筆致。
明らかに、同じ人物の手によるもの。
消印も同じ夕凪島。投函された日付は自分は7月17日。文菜の物は23日。
定規で引いたような直線的な「カゲヌシ」の文字。
俺宛の手紙には、印刷された文字でこう書かれていた。
『君の過去を知らんと欲すれば求めよ。欲さざるは有り得ないと思うがね』
写真は、自分のものはぼやけていて、人物なのかすら定かではない。
重岩で撮影されたものだけは確かだった。
文菜に届いた封筒には、便箋に「カゲヌシ」とだけ記され、
同じく重岩で撮られた写真。そこには、文菜に似た女性が写っていた。
――御朱印帳。
記されていたのは、小瀬石鎚神社、山王神社、三宝神社、葦田八幡神社――4つの神社の御朱印。
葦田八幡神社のみ、今年の日付。他の三社は、26年前のもの。
持ち主は、白髪交じりの老人。
聡が見たとき、彼は独り言のようにこう呟いたという。
『この対比を、あいつに見せてやろう』
持ち主と、"あいつ"。
この二人は、何かを知っている。間違いない。
――赤黒い墨
三宝神社の御朱印は赤黒い墨で書かれ、俺と文菜に届いた封筒の墨と同じと思われる。
俺の封筒の墨は検査の結果、血液と硫化水銀が混ざっていた。血液型はAB型。
――男が調べてくれたヒント。
3つの神社――小瀬石鎚神社、山王神社、葦田八幡神社。
この三社の神社の神紋(家紋)が同一。神紋は六芒星。
山王神社のある地区には、カゲヌシの怪異伝承が残されている。
さらに、重岩、山王神社、葦田八幡神社は地図上で一直線に並び、
そのラインは、8月11日の日の出の軌道と重なる。
根子、夜子、羽子という妖怪伝説。三種の神器を盗んで夕凪島に逃げてきた。内容はカゲヌシの怪異伝説に酷似している部分がある。朝方、夕方に出現し姿を見たものは不幸になるという。
――冥鬼の報告。
夕凪島には、複数の結界が存在する。
葦田八幡神社の磐座も、その一部かもしれない。
"ある界隈では、君は有名人なのかもね"――冥鬼の言葉が、妙に引っかかる。
余談だが、冥鬼は失踪した香取諒の調査を行っているようだが、それは無駄なことだと思う。
なにせ、失踪した香取諒の正体は、自分の協力者の探偵だからだ。
失踪騒ぎを起こしてもらったのは、自分に届いた封筒の意図を探るため。
自分の名前を騙って島で動けば、何かが起きるのではないか――そう考えた。
実際、御朱印帳を求めて動いた人物がいて、経緯はわからないが、今、手元にある。
伯父からの手紙。
安居からの調査依頼。
自分が仕組んだことが、引き金かどうかは分からない。だが、何かが、確実に動き出している。
――三宝神社。
これについては、手がかりがない。
ただ、御朱印帳に記された赤黒い墨と、威圧的な書体だけが、異様に目に残る。
――文菜に送られた2通目の封書。
それには、消印がなかった。
つまり、誰かが直接、彼女の家のポストに投函した。
差出人は、十中八九、島の人間だ。
しかも、文菜が帰省していることを知っている人物――。
もちろん、後をつけて来た可能性も否定はできないが。
写真には、古びた鳥居。
文菜が夢で見た、「影の社」の鳥居に酷似していた。そこには文菜の声に似ている巫女姿の女性がいた。
『影に囚われし者よ――扉は、もう開きかけている』
文言の意味は不明。
だが確実に、何かが進行形で動いている。
……でも、なぜ文菜なんだ?
文菜にも、何か秘密があるのだろうか?
――羽代という姓。
養子に出る前、自分が名乗っていた苗字。
ネットで検索してみたが、何も出て来ない。
伯父も珍しい苗字だと話していた。もしかしたら、自分の産みの両親の代で途絶えたのかもしれない。
調査を安居に依頼中。結果待ち。
――玲美の夢。
文菜が重岩に佇み、その後、山王神社の裏手の森が現れる。
そして、文菜はどこかへ――。
漠然と、消えていく感覚を覚えたという。
山王神社裏手の森には、神隠しの噂があった。
――産みの両親と、育ての両親の事故。
どちらも同じ場所で、同じ日付。寒霞渓へと続く山道、8月11日。
今年の、その日の日の出は、3つの神社を結ぶ線と重なる。
――影に纏わる言葉。
『影を追うものは、影に囚われる』
『重岩にて、影は目覚め待つ』
両親が伯父への手紙に記していた。
これらを知る人物は、自分、伯父、義兄、あの男。
あとは、山王神社がある地区の高齢者たち。
それから失踪騒ぎを起こした時の関係者。
ただし――
『影を追うものは、影に囚われる』という言葉は、文菜も知っている。
高校時代、自分の栞に記されていたものを、偶然目にしていたからだ。
『影に囚われし者よ――扉は、もう開きかけている』
この言葉は、初めて聞く。
文菜に封筒を送った差出人は、確実にこの言葉を知っている。
――不可思議な現象
男の体験談。
文菜を訪問した、偽物の玲美。
――カゲヌシ
自分が事故に遭った時、うわごとのように発していた言葉。
山王神社がある地区に伝わる怪異伝説。
朝方や夕方、霧や薄明かりの中に現れるという。
その姿を見た者は、"影に囚われ"、不幸になるという。
カゲヌシとは、人の心の奥にある影を映したもの。
己が何を恐れ、何から逃れようとしているのか――
それが、影に姿を変えて現れるのだという。
立ち上る煙は、形を成す間もなく、もつれ、ほどけ、空間に溶けた。
それは、追おうとする影と、どこか似ている気がした。
どこまでが偶然で、どこからが誰かの意図なのか。
だとしても、俺は……俺自身の中にある“空洞”を知るために、動き出した。
きっかけは奇妙な封書だったとしても、これほど多くの事柄が一度に噴き出してくるとは、さすがに想像していなかった。
首を左右に捻り、椅子から立ち上がる。
軽く伸びをして、窓を開け放ち、桟に腰掛けると、ミシッと軋む音がした。
煙草に火をつける。
夜風が、ひやりと首筋をなでた。
静かに揺れる炎の先で、煙が細くたゆたいながら闇に溶けていく。
東京に比べれば、島の夜は涼しい。騒がしい音もない。
闇に向かって語りかけていた。
「父さん、母さん……俺に何があるんだよ…何が…」
父の大きな手が頭を撫で、母の柔らかい手が両手を包み込む…感触。
あの日もそうだった――
今みたいに窓の桟に腰掛けて本を読んでいた。
ドタドタと階段を駆け上がる音。続いて、バタンと扉が開く。
「諒ちゃん…」
青ざめた顔で俺を見つめた伯母は、言葉に詰まり、しばらく立ちすくんでいた。
そして、急に駆け寄ってきて、ぐっと俺を抱きしめた。
「伯母さん?どうしたの、暑いよ…」
もう、その時に嫌な予感はしていた。伯母が泣いていたから。
伯母はそっと俺の肩を掴み、涙の跡を残した顔で、両親が事故に遭ったことを告げた。
それから何か話してくれていた気もするが、内容は何一つ覚えていない。
霊安室で見た両親は、傷だらけだった。
けれど、よくある表現かもしれないが、本当に——ただ眠っているように見えた。
俺はその場で泣き崩れた。その日に両親から貰ったお守りを握りしめながら。――
桟に座ったまま、ふと夜空を見上げる。
濃い藍色の空に、星がひとつ、にじんで揺れていた。
「お守り…」
急いで立ち上がって、煙草を灰皿で押し消す。
机の脇に置いた鞄から財布を取り出し、その中にしまっていた小さなお守り袋を引き抜いた。
それを手に、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
あれから、もう13年――
もとは鮮やかだった袋の紫色も、今ではすっかりくすんでしまっている。
けれど、”お守り”と金糸で刺繍された文字だけは、今もあの頃のまま、かすかに光を宿していた。
俺は思い立って、袋の口を両手でそっと開ける。
確か、中身は和紙にくるまれた小さなお札。
朱色の文字で”お守り”と記されていたはずだ。
何年ぶりかに目にするそれは、黄ばんでいたが、記憶と変わらぬ姿だった。
本来、この手の和紙にくるまれたお札は開封厳禁とされている。
それでも、指はためらいがちに、和紙の端をゆっくり、慎重にほどいていた。
中から現れたのは、固い正方形の木片。「封」と朱で書かれた文字が中央にあり、裏面には朱色の六芒星が描かれている。
一辺は3㎝ほど、厚みは5㎜あるかないか。他に何も見当たらない。
六芒星は例の3つの神社の神紋と同じ。ということは自分自身の家紋ということなのかもしれない。
お札を元のように包もうとしたとき、ふと和紙の裏側に何か淡い模様が浮かんでいるのに気がついた。
それをそっと広げると、10㎝四方ほどの正方形に、朱の紋様が現れた。
円形の構図に、花や星を思わせる細やかな意匠が、繊細な線で散りばめられている。
どちらが上かもわからない――が、目を凝らすと、隅に署名のような文字が見えた。
「三輪円?…平成✕✕年7月14日」
聞き覚えのない名前。これを描いた人物ということだろうか。
日付は今から13年前。両親が亡くなった年だ。事故の約一月前に、このお守りをどこかで手に入れたということになる。
そもそも、このお守りは普通の物とは違う。
子供の頃は知らなかったが、本来、和紙にくるまれたお札の表面には、必ず神社名が記されている。
ところが、これには”お守り”としか書かれていない。入手先を突き止めるのは困難だろう。
お札を丁寧に包み直し、もとのお守り袋にしまった。
何かが分かると思った。だが、増えたのは謎ばかりだった。
首を左右に倒し、煙草に手を伸ばした時、
ブルル、ブルル…スマホが震えた。
その手でスマホを取る。ディスプレイには「文菜」の名前。
すぐに通話をタップする。
「どうした、文菜、何かあった?」
少しだけ声を低めると、受話口の向こうから、柔らかく、けれどどこか落ち着きのない、揺れる声が聞こえてきた。
「あ、ごめん、そうじゃなくてね、明日なんだけど何時頃が良いかなって…」
何かあった訳ではないようでホッとする。
「ああ、何時でも構わないよ」
「…じゃあ、10時頃でどうかな」
「分かった、10時に文菜の家に行くよ」
「え、あ、うん、ありがとう…」
一瞬の間があり、少しだけ息をのむような気配。
何かを言いかけて、躊躇しているようにも聞こえる。
「あ、それと、明後日の神舞のロケの時間。午前中にやるみたいで8時からみたいなんだけど大丈夫?」
「了解。問題ないよ」
「よかった…」
「文菜、大丈夫か?」
「……うん……うん、大丈夫。……あのね、さっき話そうと思ったんだけど、お母さんが帰ってきちゃったから、言えなくて…」
「なに?」
「……あの手紙を見て、思ったんだけどね。もしかしたら…私、誰かに呼ばれているんじゃないかって思って……少し怖いんだ……」
どう声を掛ければいいか言葉が出ない。何故と返せば文菜の頭の中は理由集めになって不安をあおるだけだろう。それとも何か優しい言葉を掛けたほうがいいのだろうか、それも気休めにしかならない気もする。文菜自身を取り巻く出来事が不安に拍車を掛けている訳で、それを解明するしか根本的な解決にならない。
「……もしもし?諒くん?」
「ああ、ごめん。考えてた」
「……なんか、ごめんね諒くん。私、変なことに巻き込んじゃって……」
その言葉に、心がわずかに疼いた。
まさか、自分自身がその“変なこと”の渦中にいるとは、文菜は知らない。
知らなくて当然だ。
俺が隠しているんだから。
なのに文菜は、自分を責めるように謝る。
まるで、自分のせいで俺に迷惑をかけているとでもいうように。
さすがに、良心が揺れた。
どれだけ口をつぐんでいようと、文菜の純粋な思いは、容赦なく心の隙間に入り込んでくる。
「……いや……気にするな」
声に出した瞬間、それがあまりにも表面的な慰めのように聞こえて、思わず言葉を継いだ。
「それより、あまり考え込まないで、ちゃんと休めよ」
「ありがとう……」
その声は、少し震えていて、でもどこか嬉しそうだった。
電話越しの静けさに、微かに息づかいが重なる。
「……ところで、店、どこにした?」
「あ、えーとね、瀬田町の「松寿庵《松寿庵》」にしたよ」
「ああ、知ってる。何回か食べに行ったことあるよ、確かに美味しい」
「よかった……すごく楽しみにしてるの。明日、会えるの」
それまでより、文菜の声のトーンが少しだけ上がる。
「うん、そうだな」
「そしたら……諒くん、明日ね、おやすみ」
「じゃあ、明日、おやすみ」
通話が切れたスマホの画面が、静かに暗転する。
夜の静けさの中に残されたのは、言葉にならなかった想いの余韻。
けれど、それを口にすれば、たちまち何かが崩れてしまいそうで。
だからせめて、文菜が今夜、少しでも穏やかに眠れるように。
その願いだけを、言葉の中に押し込めた。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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