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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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21/95

幻影

挿絵(By みてみん)

玲美の車で家の前まで送ってもらう頃には、空はすっかり黄昏色に染まりはじめていた。

長年染み付いた習慣とは怖い物で、文菜は何気に玄関脇のポストを覗いていた。

中は空っぽだった。あの封書のことが一瞬、頭をかすめ――ホッと息を漏らす。

そして玄関の鍵を開ける。

「ただいま」

家の中はしんと静まり返っていた。父はまだ仕事、母は買い物にでも出かけているのだろう。

キッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。

乾いた喉に、冷たい液体をひと口流し込む。

そのとき、ふとテーブルに目をやった。

新聞の折込広告が、ばさばさと無造作に散らかっている。

――もう、お母さんったら……

苦笑いしながら手に取り、整えようとしたそのときだった。

一番下から、何かが、ぽとりと滑り落ちた。

「……え?」

それは、一通の封筒だった。

手が止まる。

視線が、自然とその封筒に吸い寄せられる。

宛名は――「真名井文菜様」

赤黒い墨で書かれた、どこか不気味なほど達筆な文字。

その文字を目で追ううちに、胸の奥がじわじわと冷たくなっていく。

息を呑み、震える指で封筒を裏返す。

「……」

……差出人の名前がない……同じ……

表を見返す、消印も、どこにも見当たらない。

冷たいものが背骨をなぞる感覚に、無理やり身体を動かした。

その場を離れ、駆け足で階段を駆け上がり、二階の自室に飛び込む。

扉を閉め、鍵をかける。

まるで見えない何かから逃れるように。

息を詰めるような静けさの中、机の上に封筒を置く。

カーテン越しの西陽が、薄く床に影を伸ばしている。

心臓の音が、鼓膜の内側でやけに大きく響く。

前回と同じ、少しざらついた質感の紙。筆跡も……あの日と同じ。

指先がかすかに震えながらも、破かないようにハサミで丁寧に封を切る。

中には――やはり、一枚の便箋と、もう一枚の写真。

それらを、机の上に並べる。

便箋の文字は黒の万年筆のような濃淡のあるインクで、流れるような筆致。宛名を書いた人物と同一に思える。

その一文に息が止まった。

「影に囚われし者よ――扉は、もう開きかけている」

読んだ途端、ぞくりとした寒気が背筋を這い上がっていった。

その下には、定規で引いた直線で「カゲヌシ」と、まるで署名のように書いてある。

私が、影に囚われているってこと……

声にならない吐息をついて、そっと写真を手に取った。

そこには、薄暗い森の中にぽつんと立つ、苔むした鳥居が写っていた。

「……どうして……」

見覚えがあった―――そう、昨日の夢で見たあの場所だ。

写真を眺めていると、そこに吸い込まれそうな感覚に襲われる。

鳥居、境内、巫女姿の女性、並ぶ蝋燭の炎。

夢の断片が、早送りで脳裏を駆け巡る。

「…るな!」

ハッとして、我に返る。写真を持った手が震え、写真がカタカタと微かに揺れる。

まるで夢と現実の境目が、じわじわと溶け崩れていくようだった。

自分がどこにいるのかわからなくなりそうな恐怖。

唇を強く閉ざしたまま、じっと写真を見つめた。

耳の奥で、遠く遠く、蝉の声がかすれていく。

喉が焼けつくように渇く。

声にならない叫びが、胸の中で苦しく膨らんでいった。

私は堪らず、サッサッと写真を机に置く。

嫌悪と恐怖を振り払うように、スマホを手に取った。

震える指先で、すがるように諒の名前を探す。

そのとき――

ピンポーン。

突然、玄関のチャイムが鳴った。

え……?

動きかけた手が止まり、胸の奥で小さな警鐘が鳴る。

ピンポーン。耳に刺さるような音。

そっと階段を降り、インターホンの画面を覗き込む。

そこに映っていたのは――

玄関のドアに向かって立つ、玲美の姿だった。

ホッと胸をなでおろす。

しかし、ドアに近づいた途端、混乱が押し寄せる。

なんで玲美が? さっき送ってくれたばかりなのに……

ドア越しに声をかけようとするも、喉が強張って言葉にならない。

代わりに、向こうから声がかかった。

「文菜ー?いるんでしょ?開けて?」

……声が、少し……違う?

耳に馴染んだ玲美の声――それとは、何かが違った。

いつもより低く、平坦で、抑揚のない声。

まるで、誰かが玲美の声を真似しているかのような、不自然な響き。

ピンポーン。またチャイムが鳴る。

おかしい……

直感が、激しく警鐘を打ち鳴らす。

息を潜め、そっとドアスコープを覗き込んだ。

そこには――

たしかに、玲美がいた。

違和感は、画面越しに見たときより、さらに濃くなっていた。

無表情のまま、直立不動で、じっとドアを見つめ続ける玲美。

違う…………!

咄嗟にドアスコープから目を離す。

本能が叫んでいた。

動くな、と。

ピンポーン。

ドア越しに、再び声がかかる。

「ねえ、文菜……さっき、忘れ物してたから、届けに来たの」

忘れ物?何か……してた……?

たしかに後部座席に荷物を置いてたけれど、ちゃんと持って帰ってきた。

何も忘れていない。

背筋を、氷の棘のような違和感が這い上がる。

そして。

「ねえ、文菜――」

玲美の声が、今度は耳元で囁くように聞こえた。

ドアを隔てているはずなのに、まるですぐ近くで。

「カゲヌシって、知ってる?」

ゾワリと、肌が総毛立つ。

胸の奥で、何かが弾けた。

「っ……!」

反射的に後ずさる。

次の瞬間、階段を駆け上がっていた。

ピンポーン。

自室に飛び込み、ドアを閉め、鍵をかける。

息を殺すように、震える指で諒の名前を必死にタップする。

スマホを耳に当て、チャイムが聞こえないように、片方の耳を手で覆おう。

プルル……プル

『もしもし』

諒の穏やかな声が、耳に飛び込む。

「……たすけて……」

ふるえる声を、どうにか絞り出す。

『どうした?』

「あのね……チャイムが鳴って……今も……家の前に……玲美がいる。だけど、なんか、おかしいの……」

『……玲美?』

「さっき家まで送ってもらって……もう一回来て、カゲヌシって……」

数秒の沈黙。

「……あのね……諒くん……」

『今すぐ向かう。いいか――どんな声がしても、開けるな』

低く真剣な諒の声が、耳に届く。

「うん……」

ツー、ツー……無機質な音が耳を打つ。

耳にあてた手をゆっくりと離す。

チャイムの音は――

聞こえない。

それでも、スマホを握る手は震え続けている。

その上からもう片方の手を重ね、胸に押し当てた。

足元から、音もなく世界が崩れ落ちる。

力が抜け、ずるずるとその場に座り込んだ。

心臓が、狂ったように打ち続けている。

そのとき、胸元で通知音が鳴った。

「っ!」

ビクンと身体が跳ねる。

スマホを握った手を遠ざけ、恐る恐る画面を覗く。

――差出人:玲美

『さっき、家着いた。久々に会えて楽しかったー』

……え?

そこには、ごく何気ない、今送られてきたばかりのメッセージ。

咄嗟にメッセージを返す。

すぐに既読が付き、返信が来た。

『ええんよ。今度は、文菜が御馳走してくれれば』

明るい絵文字さえ添えられたその文章に思わず固まった。

……じゃあ、今、玄関の前にいたのは……誰?

凍りついたように手足がこわばる。

スマホをぎゅっと胸に抱きしめた。

早く来て……諒くん……

チャイムはもう鳴らなくなっていた。

けれど、玄関のドアの向こうには、まだ“誰か”がいるような気配だけが、静かに、しつこく貼り付いている気がした。

部屋のドアから、一番離れた隅っこの壁にもたれかかり、身を縮めるように座り込んだ。

息を潜め、身動きひとつ取れない。

唯一の頼りは、手に握ったスマホだけだった。

スマホの着信履歴には、諒からの『今、向かってる』のメッセージ。

諒の家がある福田町から、ここまでは車でおよそ30分。

時計を見る。午後六時すぎ。

まだ……10分も経ってない……早く……

静寂のなか、時計の針の乾いた音が、カウントダウンのように響く。

一人、息をひそめ、諒の到着を待つ。

焦燥と恐怖と混乱が考える事さえ拒絶する。

微かなエンジン音が近づき、車が止まる気配。

続いて、バタン、と車のドアが閉まる音が響いた。

「文菜!」

張り詰めた空気を突き破る、男の声。

耳に馴染んだ、けれど今はどこか遠い声。

「諒くん……!」

震える足を引きずるように立ち上がる。

玄関へ向かいながら、心臓が不規則に脈打つのを感じる。

ドアスコープを覗き込むと、そこには確かに諒の姿があった。

額に汗を滲ませ、荒い息を吐きながら、周囲を鋭く見渡している。

……でも、あれから10分しか経ってない……

胸の奥に、不安が鋭い針のように刺さる。

本当に、諒くんなの……?

「文菜!大丈夫か?」

ドア越しに聞こえる懐かしい声。

けれど、それすら今は、確信を持てずにいる。

震える指でスマホを操作し、短くメッセージを送った。

ドアスコープ越しに、諒がスマホを取り出して返信している様子が見えた。

すぐに、通知音が鳴る。

『たまたま近くにいた。ドラッグストアで買い物してた』

……本当に、諒くん?

疑念は消えない。

けれど、答えを待っている猶予もなかった。

息を呑み、覚悟を決める。

震える手で、ガチャリと鍵を外し、ドアを開けた。

「諒くん!」

「大丈夫か?」

諒が声を落とし、そっと私の肩に手を置く。

その手の温かさと、ぐっと近づく真剣な瞳に、胸が詰まった。

そこに宿るのは、疑いようのない“心配”の色だった。

……本物だ。

胸に張り詰めていたものが、一気に崩れ、目に熱いものが滲む。

「何があった?」

諒がそっと尋ねる。

私は落ち着こうと、額と胸に手を当てながら、声を振り絞る。

「うん。……さっきね。インターホンで玲美の声がして……でも、あれ、絶対玲美じゃなかった。違和感があって……顔もはっきりとは見えなくて」

声が上ずり、上手く言葉にならない。

「そうか、とりあえず、ここじゃあれだから、お邪魔してもいいかな?」

諒の優しい声は、ゆっくりで、そして宥める様だった。

「え、あ、うん。どうぞ」

私は慌てて道をあけ、諒を招き入れる。

ドアを閉めて鍵をかける手が、わずかに震えていた。

「お邪魔します。ご両親は?」

「母さんは買い物だと思う、父さんは仕事……ああ……諒くん、ここ座って」

キッチンのテーブルの椅子を引いた。

「ありがとう」

諒が腰を下ろす。

私はぎこちない手つきで麦茶をコップに注ぎ、差し出した。

指先に、まだかすかに余韻の震えが残っている。

「ちょっと、待っててくれる?……見てほしい物があるんだ」

「ああ、わかった」

ぎこちないけれど、なんとか微笑んで、深呼吸。

震える心を落ち着けるようにして、自室へ向かう。

階段を上りながら、傍に諒がいる安心感が、ほんの少しだけ心を軽くしていく。

ざわめいていた胸の奥が、かすかに静まりかけていた。

薄暗い部屋で、机の上に置かれた封書を手に取り、再びキッチンへ。

諒は私の姿を見るなり、小さく微笑んだ。

その笑顔に、頬がふっと緩む。

テーブルを挟んで諒と向かい合って腰を下ろす。

そして、封筒、写真、便箋を並べた。

「これなんだけど……今日、実家に届いていたの」

諒は黙ったまま、一つ一つ手に取り、視線を走らせる。

封筒、写真、便箋――ひとつずつ確かめるように、丁寧に。

「……前と同じ封筒だな。消印もなし。差出人不明か」

「なんだか気味が悪くて……」

思い返すと、ざわめきが甦る。

寒いわけでもないのに、自然と両腕を抱きしめた。

「この写真の鳥居はどこだろ?」

「それは……」

信じてもらえるか不安だったけれど、バスの中で見た夢の話を打ち明けた。

諒は深く頷きながら、ひとつひとつ耳を傾けてくれる。

その静かな態度が、かえって胸に沁みる。

「影の社……」

諒の視線がかすかに揺れる。

私はさらに、玲美が見たという夢の話も伝えた。

話すほどに、諒の瞳に緊張が走っていくのがわかる。

重岩、山王神社、森。

言葉を重ねるたびに、諒の視線はわずかに泳いだ。

「文菜、あの鳥居が山王神社って事はないかな?」

「ううん、分からない……でも、神隠しとか変な噂があるって聞いた」

「神隠し……」

諒は、一点をじっと凝視した。

その瞳には、普段見せない鋭さと凄みが宿っている。

――こんな目、初めて見る。

思わず息を呑む。

けれど諒は、すぐにいつもの柔らかな表情に戻った。

「……どう……したの?」

「いや……この、“影に囚われし者よ――扉は、もう開きかけている”。どういうことだろうな……」

諒の声は静かだったが、その言葉に体が、黒い何かに覆われていくような感覚に囚われる。

それが恐怖によるものなのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からなかった。

「……分からない。……これをね、諒くんに連絡しようとしたら、玄関のチャイムが鳴って…」

さっきの体験を順を追って話す。

思い出して口する度に恐怖が甦ってきて、声がしどろもどろになる。

それでも諒は辛抱強く、最後まで耳を傾けてくれた。

でも、話せたことで心のざわめきが、少しずつだけど軽くなっていく気がした。

「大丈夫か?」

様子を窺うように、諒は少し顔を突き出した。

「うん、聞いてもらえて……少しスッキリした」

姿勢を伸ばし、小さく頷く。

「そっか、そういえば玲美の家ってどこだっけ?」

諒はこめかみを掻きながら、気恥ずかしそうに苦笑する。

「土庄町だけど、どうかしたの?」

「いや、でも、ほんと何もなくてよかったよ」

「でも、怖かった……」

ふと、自分が口にした言葉が思い起こされる。

「諒くん……私……」

それを伝えようとした時、玄関の鍵が開く音がした。

「ただいまー、文菜おるん?あれ?お客さん?」

陽気な母の声がキッチンに響く。

「あら、いらっしゃい」

「お邪魔してます……じゃあ、文菜、失礼するよ」

諒は、手紙と写真をそっとバッグにしまいながら、私に目配せする。

――借りるよ。

そんな合図に、小さく頷き返すと、諒は少しだけ微笑んだ。

「あら、帰っちゃうの諒くん?ご飯食べていけばいいのに」

「あ、いえ、お邪魔しました」

玄関先まで見送ったとき、諒はもう一度、周囲を見回す。

「何かあったら、すぐに電話。夜でも構わない」

「……うん、ありがとう」

諒の背が遠ざかるのを見つめながら、そっと玄関の鍵を閉めた。

扉に寄りかかり深く息を吐く。

外では風が鳴り、木の葉がガサガサと音を立ている。

あの言葉が、目に焼きついたように浮かび上がってきた。

――影に囚われし者よ。扉は、もう開きかけている。

それって……私のことなの……私は誰かに……

「文菜、ご飯の支度、手伝って」

母の明るい声が、現実に引き戻した。

「はーい」

できるだけ普段通りの声を返す。

心の中のさざ波が、静かに、しかし確かに、広がり続けていた。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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