幻影
玲美の車で家の前まで送ってもらう頃には、空はすっかり黄昏色に染まりはじめていた。
長年染み付いた習慣とは怖い物で、文菜は何気に玄関脇のポストを覗いていた。
中は空っぽだった。あの封書のことが一瞬、頭をかすめ――ホッと息を漏らす。
そして玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
家の中はしんと静まり返っていた。父はまだ仕事、母は買い物にでも出かけているのだろう。
キッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
乾いた喉に、冷たい液体をひと口流し込む。
そのとき、ふとテーブルに目をやった。
新聞の折込広告が、ばさばさと無造作に散らかっている。
――もう、お母さんったら……
苦笑いしながら手に取り、整えようとしたそのときだった。
一番下から、何かが、ぽとりと滑り落ちた。
「……え?」
それは、一通の封筒だった。
手が止まる。
視線が、自然とその封筒に吸い寄せられる。
宛名は――「真名井文菜様」
赤黒い墨で書かれた、どこか不気味なほど達筆な文字。
その文字を目で追ううちに、胸の奥がじわじわと冷たくなっていく。
息を呑み、震える指で封筒を裏返す。
「……」
……差出人の名前がない……同じ……
表を見返す、消印も、どこにも見当たらない。
冷たいものが背骨をなぞる感覚に、無理やり身体を動かした。
その場を離れ、駆け足で階段を駆け上がり、二階の自室に飛び込む。
扉を閉め、鍵をかける。
まるで見えない何かから逃れるように。
息を詰めるような静けさの中、机の上に封筒を置く。
カーテン越しの西陽が、薄く床に影を伸ばしている。
心臓の音が、鼓膜の内側でやけに大きく響く。
前回と同じ、少しざらついた質感の紙。筆跡も……あの日と同じ。
指先がかすかに震えながらも、破かないようにハサミで丁寧に封を切る。
中には――やはり、一枚の便箋と、もう一枚の写真。
それらを、机の上に並べる。
便箋の文字は黒の万年筆のような濃淡のあるインクで、流れるような筆致。宛名を書いた人物と同一に思える。
その一文に息が止まった。
「影に囚われし者よ――扉は、もう開きかけている」
読んだ途端、ぞくりとした寒気が背筋を這い上がっていった。
その下には、定規で引いた直線で「カゲヌシ」と、まるで署名のように書いてある。
私が、影に囚われているってこと……
声にならない吐息をついて、そっと写真を手に取った。
そこには、薄暗い森の中にぽつんと立つ、苔むした鳥居が写っていた。
「……どうして……」
見覚えがあった―――そう、昨日の夢で見たあの場所だ。
写真を眺めていると、そこに吸い込まれそうな感覚に襲われる。
鳥居、境内、巫女姿の女性、並ぶ蝋燭の炎。
夢の断片が、早送りで脳裏を駆け巡る。
「…るな!」
ハッとして、我に返る。写真を持った手が震え、写真がカタカタと微かに揺れる。
まるで夢と現実の境目が、じわじわと溶け崩れていくようだった。
自分がどこにいるのかわからなくなりそうな恐怖。
唇を強く閉ざしたまま、じっと写真を見つめた。
耳の奥で、遠く遠く、蝉の声がかすれていく。
喉が焼けつくように渇く。
声にならない叫びが、胸の中で苦しく膨らんでいった。
私は堪らず、サッサッと写真を机に置く。
嫌悪と恐怖を振り払うように、スマホを手に取った。
震える指先で、すがるように諒の名前を探す。
そのとき――
ピンポーン。
突然、玄関のチャイムが鳴った。
え……?
動きかけた手が止まり、胸の奥で小さな警鐘が鳴る。
ピンポーン。耳に刺さるような音。
そっと階段を降り、インターホンの画面を覗き込む。
そこに映っていたのは――
玄関のドアに向かって立つ、玲美の姿だった。
ホッと胸をなでおろす。
しかし、ドアに近づいた途端、混乱が押し寄せる。
なんで玲美が? さっき送ってくれたばかりなのに……
ドア越しに声をかけようとするも、喉が強張って言葉にならない。
代わりに、向こうから声がかかった。
「文菜ー?いるんでしょ?開けて?」
……声が、少し……違う?
耳に馴染んだ玲美の声――それとは、何かが違った。
いつもより低く、平坦で、抑揚のない声。
まるで、誰かが玲美の声を真似しているかのような、不自然な響き。
ピンポーン。またチャイムが鳴る。
おかしい……
直感が、激しく警鐘を打ち鳴らす。
息を潜め、そっとドアスコープを覗き込んだ。
そこには――
たしかに、玲美がいた。
違和感は、画面越しに見たときより、さらに濃くなっていた。
無表情のまま、直立不動で、じっとドアを見つめ続ける玲美。
違う…………!
咄嗟にドアスコープから目を離す。
本能が叫んでいた。
動くな、と。
ピンポーン。
ドア越しに、再び声がかかる。
「ねえ、文菜……さっき、忘れ物してたから、届けに来たの」
忘れ物?何か……してた……?
たしかに後部座席に荷物を置いてたけれど、ちゃんと持って帰ってきた。
何も忘れていない。
背筋を、氷の棘のような違和感が這い上がる。
そして。
「ねえ、文菜――」
玲美の声が、今度は耳元で囁くように聞こえた。
ドアを隔てているはずなのに、まるですぐ近くで。
「カゲヌシって、知ってる?」
ゾワリと、肌が総毛立つ。
胸の奥で、何かが弾けた。
「っ……!」
反射的に後ずさる。
次の瞬間、階段を駆け上がっていた。
ピンポーン。
自室に飛び込み、ドアを閉め、鍵をかける。
息を殺すように、震える指で諒の名前を必死にタップする。
スマホを耳に当て、チャイムが聞こえないように、片方の耳を手で覆おう。
プルル……プル
『もしもし』
諒の穏やかな声が、耳に飛び込む。
「……たすけて……」
ふるえる声を、どうにか絞り出す。
『どうした?』
「あのね……チャイムが鳴って……今も……家の前に……玲美がいる。だけど、なんか、おかしいの……」
『……玲美?』
「さっき家まで送ってもらって……もう一回来て、カゲヌシって……」
数秒の沈黙。
「……あのね……諒くん……」
『今すぐ向かう。いいか――どんな声がしても、開けるな』
低く真剣な諒の声が、耳に届く。
「うん……」
ツー、ツー……無機質な音が耳を打つ。
耳にあてた手をゆっくりと離す。
チャイムの音は――
聞こえない。
それでも、スマホを握る手は震え続けている。
その上からもう片方の手を重ね、胸に押し当てた。
足元から、音もなく世界が崩れ落ちる。
力が抜け、ずるずるとその場に座り込んだ。
心臓が、狂ったように打ち続けている。
そのとき、胸元で通知音が鳴った。
「っ!」
ビクンと身体が跳ねる。
スマホを握った手を遠ざけ、恐る恐る画面を覗く。
――差出人:玲美
『さっき、家着いた。久々に会えて楽しかったー』
……え?
そこには、ごく何気ない、今送られてきたばかりのメッセージ。
咄嗟にメッセージを返す。
すぐに既読が付き、返信が来た。
『ええんよ。今度は、文菜が御馳走してくれれば』
明るい絵文字さえ添えられたその文章に思わず固まった。
……じゃあ、今、玄関の前にいたのは……誰?
凍りついたように手足がこわばる。
スマホをぎゅっと胸に抱きしめた。
早く来て……諒くん……
チャイムはもう鳴らなくなっていた。
けれど、玄関のドアの向こうには、まだ“誰か”がいるような気配だけが、静かに、しつこく貼り付いている気がした。
部屋のドアから、一番離れた隅っこの壁にもたれかかり、身を縮めるように座り込んだ。
息を潜め、身動きひとつ取れない。
唯一の頼りは、手に握ったスマホだけだった。
スマホの着信履歴には、諒からの『今、向かってる』のメッセージ。
諒の家がある福田町から、ここまでは車でおよそ30分。
時計を見る。午後六時すぎ。
まだ……10分も経ってない……早く……
静寂のなか、時計の針の乾いた音が、カウントダウンのように響く。
一人、息をひそめ、諒の到着を待つ。
焦燥と恐怖と混乱が考える事さえ拒絶する。
微かなエンジン音が近づき、車が止まる気配。
続いて、バタン、と車のドアが閉まる音が響いた。
「文菜!」
張り詰めた空気を突き破る、男の声。
耳に馴染んだ、けれど今はどこか遠い声。
「諒くん……!」
震える足を引きずるように立ち上がる。
玄関へ向かいながら、心臓が不規則に脈打つのを感じる。
ドアスコープを覗き込むと、そこには確かに諒の姿があった。
額に汗を滲ませ、荒い息を吐きながら、周囲を鋭く見渡している。
……でも、あれから10分しか経ってない……
胸の奥に、不安が鋭い針のように刺さる。
本当に、諒くんなの……?
「文菜!大丈夫か?」
ドア越しに聞こえる懐かしい声。
けれど、それすら今は、確信を持てずにいる。
震える指でスマホを操作し、短くメッセージを送った。
ドアスコープ越しに、諒がスマホを取り出して返信している様子が見えた。
すぐに、通知音が鳴る。
『たまたま近くにいた。ドラッグストアで買い物してた』
……本当に、諒くん?
疑念は消えない。
けれど、答えを待っている猶予もなかった。
息を呑み、覚悟を決める。
震える手で、ガチャリと鍵を外し、ドアを開けた。
「諒くん!」
「大丈夫か?」
諒が声を落とし、そっと私の肩に手を置く。
その手の温かさと、ぐっと近づく真剣な瞳に、胸が詰まった。
そこに宿るのは、疑いようのない“心配”の色だった。
……本物だ。
胸に張り詰めていたものが、一気に崩れ、目に熱いものが滲む。
「何があった?」
諒がそっと尋ねる。
私は落ち着こうと、額と胸に手を当てながら、声を振り絞る。
「うん。……さっきね。インターホンで玲美の声がして……でも、あれ、絶対玲美じゃなかった。違和感があって……顔もはっきりとは見えなくて」
声が上ずり、上手く言葉にならない。
「そうか、とりあえず、ここじゃあれだから、お邪魔してもいいかな?」
諒の優しい声は、ゆっくりで、そして宥める様だった。
「え、あ、うん。どうぞ」
私は慌てて道をあけ、諒を招き入れる。
ドアを閉めて鍵をかける手が、わずかに震えていた。
「お邪魔します。ご両親は?」
「母さんは買い物だと思う、父さんは仕事……ああ……諒くん、ここ座って」
キッチンのテーブルの椅子を引いた。
「ありがとう」
諒が腰を下ろす。
私はぎこちない手つきで麦茶をコップに注ぎ、差し出した。
指先に、まだかすかに余韻の震えが残っている。
「ちょっと、待っててくれる?……見てほしい物があるんだ」
「ああ、わかった」
ぎこちないけれど、なんとか微笑んで、深呼吸。
震える心を落ち着けるようにして、自室へ向かう。
階段を上りながら、傍に諒がいる安心感が、ほんの少しだけ心を軽くしていく。
ざわめいていた胸の奥が、かすかに静まりかけていた。
薄暗い部屋で、机の上に置かれた封書を手に取り、再びキッチンへ。
諒は私の姿を見るなり、小さく微笑んだ。
その笑顔に、頬がふっと緩む。
テーブルを挟んで諒と向かい合って腰を下ろす。
そして、封筒、写真、便箋を並べた。
「これなんだけど……今日、実家に届いていたの」
諒は黙ったまま、一つ一つ手に取り、視線を走らせる。
封筒、写真、便箋――ひとつずつ確かめるように、丁寧に。
「……前と同じ封筒だな。消印もなし。差出人不明か」
「なんだか気味が悪くて……」
思い返すと、ざわめきが甦る。
寒いわけでもないのに、自然と両腕を抱きしめた。
「この写真の鳥居はどこだろ?」
「それは……」
信じてもらえるか不安だったけれど、バスの中で見た夢の話を打ち明けた。
諒は深く頷きながら、ひとつひとつ耳を傾けてくれる。
その静かな態度が、かえって胸に沁みる。
「影の社……」
諒の視線がかすかに揺れる。
私はさらに、玲美が見たという夢の話も伝えた。
話すほどに、諒の瞳に緊張が走っていくのがわかる。
重岩、山王神社、森。
言葉を重ねるたびに、諒の視線はわずかに泳いだ。
「文菜、あの鳥居が山王神社って事はないかな?」
「ううん、分からない……でも、神隠しとか変な噂があるって聞いた」
「神隠し……」
諒は、一点をじっと凝視した。
その瞳には、普段見せない鋭さと凄みが宿っている。
――こんな目、初めて見る。
思わず息を呑む。
けれど諒は、すぐにいつもの柔らかな表情に戻った。
「……どう……したの?」
「いや……この、“影に囚われし者よ――扉は、もう開きかけている”。どういうことだろうな……」
諒の声は静かだったが、その言葉に体が、黒い何かに覆われていくような感覚に囚われる。
それが恐怖によるものなのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からなかった。
「……分からない。……これをね、諒くんに連絡しようとしたら、玄関のチャイムが鳴って…」
さっきの体験を順を追って話す。
思い出して口する度に恐怖が甦ってきて、声がしどろもどろになる。
それでも諒は辛抱強く、最後まで耳を傾けてくれた。
でも、話せたことで心のざわめきが、少しずつだけど軽くなっていく気がした。
「大丈夫か?」
様子を窺うように、諒は少し顔を突き出した。
「うん、聞いてもらえて……少しスッキリした」
姿勢を伸ばし、小さく頷く。
「そっか、そういえば玲美の家ってどこだっけ?」
諒はこめかみを掻きながら、気恥ずかしそうに苦笑する。
「土庄町だけど、どうかしたの?」
「いや、でも、ほんと何もなくてよかったよ」
「でも、怖かった……」
ふと、自分が口にした言葉が思い起こされる。
「諒くん……私……」
それを伝えようとした時、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー、文菜おるん?あれ?お客さん?」
陽気な母の声がキッチンに響く。
「あら、いらっしゃい」
「お邪魔してます……じゃあ、文菜、失礼するよ」
諒は、手紙と写真をそっとバッグにしまいながら、私に目配せする。
――借りるよ。
そんな合図に、小さく頷き返すと、諒は少しだけ微笑んだ。
「あら、帰っちゃうの諒くん?ご飯食べていけばいいのに」
「あ、いえ、お邪魔しました」
玄関先まで見送ったとき、諒はもう一度、周囲を見回す。
「何かあったら、すぐに電話。夜でも構わない」
「……うん、ありがとう」
諒の背が遠ざかるのを見つめながら、そっと玄関の鍵を閉めた。
扉に寄りかかり深く息を吐く。
外では風が鳴り、木の葉がガサガサと音を立ている。
あの言葉が、目に焼きついたように浮かび上がってきた。
――影に囚われし者よ。扉は、もう開きかけている。
それって……私のことなの……私は誰かに……
「文菜、ご飯の支度、手伝って」
母の明るい声が、現実に引き戻した。
「はーい」
できるだけ普段通りの声を返す。
心の中のさざ波が、静かに、しかし確かに、広がり続けていた。
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