空模様
フェリーのデッキで煙草をくゆらせる。
吐き出した白い煙は、潮風にあっという間に攫われ、空へと溶けていく。
文菜から借りた写真と手紙。
それと、まるで対になるように、自分の手元にも似たような一枚がある。
違うのは、その写真に写っている人物の輪郭が曖昧で、影のようにぼやけていたこと。
写っているのは、本当に“誰か”だったのだろうか。
「カゲヌシ……影を追う者は、影に囚われるか……」
文菜からこの言葉を聞いたとき、さすがに動揺を隠せなかった。まさか、ね……
大きくついたため息と共に、昔の記憶が呼び起こされた。
校門を出た所で雨がパラついてきた。鞄から折り畳み傘を出し、手際よく差す。パラパラと雨が傘に不規則に跳ねる。
「?」
視線の先、バス停脇の街路樹で雨をしのいでいる文菜がいた。
うらめしそうに灰色の空に向かって白い息を吐き出している。
その姿が妙に面白くて単純に可愛らしく見えた。
クラスメイトだが日常的な会話をするくらいで、明るくて友達といつも輪を作り、分け隔てのない優しい美人。それと神舞の舞手を務めていた。それから……
でも、そのとき目にした彼女は、そういった“誰にでも優しい文菜”とは違っていた。どこか不器用に、空と会話しているように見えた。
灰色の雲を見つめ、小さく白い息を吐く。そしてマフラーの奥に顔を埋めながら、何かと必死に戦っているような横顔。
教室で見る穏やかな姿とはまるで違って、あまりに無防備で、心の内をさらけ出しているように見えた。
傍に近づいても気づかずそっと傘を差し出す。
「え?香取君?」
目と口をまんまるにして、こちらを見上げてくる。余程驚いたのだろう。
「風邪ひくよ」
「え、でも……」
文菜は雨に濡れた自分の肩を見つめていた。
「ああ、俺は濡れても平気。……真名井さんが風邪引いたら、面倒だろ」
自然に出た言葉だったが、自分でも少し戸惑う。
でも、面倒って、なんだよ。気になっているって事なのか……
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
何故か嬉しそうに笑っている。人に近づくことに、抵抗があったはずなのに。自分に向けられた笑顔が、思っていたよりもずっと自然に自分の中に入り込んできた。
傘の下にふたり。肩が、少しだけ触れそうな距離。何を話せばいいか分からず、ただ雨の音と風の流れを感じていた。
風が吹き、傘がわずかに揺れる。そのたびに、彼女が濡れないよう無意識に傘を傾ける自分に驚く。
「風冷たいな」
「……雨、意外と好きかも」
「なんで?」
「こうやって、普段話さない人と話せるから」
俯く文菜を見て、面白い事を考える子だなと思った。何故か…
「確かに……それ、俺も今思った」
同じことを思っていた事に思わず頬が緩んだ。
やがて、バスに乗り込み二人掛けのシートに並んで座る。
驚いたのは、文菜は自分が呼んでいる文庫本のタイトルを、全部知っていたこと。
クラスでそんな話をしたことは、一度もないのに。
それ以外にも文菜は自分の事を色々と知っていた。
それを楽しそうに、嬉しそうに話しながら、「好きな物は?」「それで?」「他には?」と質問を次々と投げてきた。
ああ、自分のことを知ろうとしてくれているんだ……そう感じ、戸惑いながらも、何故か悪い気はしなかった。
それから、クラスでも会話するようになったけど、それ以上の進展はなかった。
自分が望めばあったのかもしれない。
だけど、踏み出すことはなかった。
東京の大学に進学が決まっていたのも理由の一つだが、一番の枷になったのは、自身の境遇。
それが、自分のなかで、どこか線を引いてしまっていた。
卒業式の日、文菜は制服のボタンをせがんで来た。
断る理由はないからボタンを外し、文菜のか細い両手の上にそっと置いた。
両手でボタンを包み込み、何か言いたげに下唇を噛みしめていた。
少しの沈黙が流れ――
「……ありがとう、諒くん」
潤んだ瞳で見上げ、微笑んだその顔は、あの冬の日と同じように、何かと会話しているような、不思議な静けさを湛えていた。
もし、連絡を取っていたら、今とは違う時間が、あったのかもしれない……
俺は首を振り、現実に意識を戻す。
俺には、思い出せない記憶がある。
忘れている“誰か”がいるような気がしてならない。
だが、それを思い出そうとするたび、心の奥に黒い靄が立ちこめ、思考が絡め取られていく。
「……俺は、誰なんだ……?」
煙を吐き、もう一度空を仰いだ。雲ひとつない空。
どこまでも蒼く、澄み渡っている。
けれど、その美しさが、逆に胸を締めつけた。
まるで自分だけが、この世界に確かな“実体”を持たずに立っているかのように。
ある時期を境に、それ以前の記憶が完全に断絶している。
とくに小学校低学年より前の出来事は、霧の中にある。
両親の顔すら、思い出せない。
――産みの親の、という意味で。
記憶にあるのは、育ての親の姿だけだ。
その二人も、中学生の頃に事故で亡くなり、そしてそのとき、伯父から「お前は養子だった」と知らされた。
その瞬間、胸に湧き上がったはずの感情――驚き、悲しみ、怒り……
それらは渦のように混ざり合い、結果として「何も感じたくない」という思いだけが残った。
それから、高校を卒業するまでの数年間を伯父の家で過ごすことになる。
伯父夫婦も義兄もよくしてくれて、これといった不満はなかった。
けれど、そこはやはり“仮の居場所”のように感じられた。
まるで、与えられた役割を演じているだけのように。誰にも心を預けず、淡々と――ただ、時間を消費していた。
そして先日届いた、伯父からの手紙。
『諒。俺はお前に、本当のことを話していなかった。過去を知ることでお前が傷つくのではないかと、ずっと恐れていた。だが、もうその心配はいらないだろう。お前には、自分の過去と向き合うべき時が来た。今度帰って来たときに、俺が知っていることをすべて話そう。お前には真実を知る権利がある。だがそれでも、お前が俺の息子であることに変わりはない――』
驚きはなかった。
むしろ、知りたいという思いが一層強くなった。
電話で尋ねても、伯父は「直接会って話す」との一点張りだった。
その頑なな態度が、逆に何か“触れてはならないもの”に踏み込もうとしている予感を強くした。
「今になって……何だよ」
風が頬をなでる。冷たくはないのに、体温がじわじわと奪われていくような錯覚に陥る。
心の中に、ずっとある空洞。
何をしていても、誰といても、埋まることのなかった虚ろな空白。
それに、名をつけることを拒んできた。
孤独。
無重力のような、浮遊感をともなう孤独だった。
学生の頃よりは、多少“慣れた”が、それは癒えたのではない。
ただ“感じなくなった”だけだ。
あまりに長くその空洞と共にいたせいで、痛みの輪郭すら曖昧になっていたのだ。
だが今、ようやくその輪郭が浮かび上がろうとしている。
この空洞の正体、自分という存在の“根”を知るときが来た。
恐怖と安堵が同時に芽吹き、相反する感情がせめぎ合う。
知りたくてたまらないのに、同時に知るのが怖い。
まるで、長く閉ざされていた“扉”に、ようやく手がかかろうとしている感覚。
何本目かの煙草を咥えていたときだった。
「諒くん、もう着くよ」
自分の分の荷物を持った文菜が、風に髪をなびかせ、こちらに手を振っている。
変わらない笑顔――
いや、以前よりもずっと眩しく、輝いて見えた。
それにしても……よく……覚えていたものだ……
思わず口元が緩む。
「ああ、今行くよ」
煙草を灰皿に押し込み、文菜のもとへ駆け寄る。
強い風が吹き抜け、思わず目を瞑ったその瞬間――
「……るな……」
耳元に囁くような声。
はっとして空を仰ぐ。
だがそこには、どこまでも青く澄んだ空が広がっているだけだった。
「どうしたの?」
文菜が心配そうに顔を覗き込む。
「……いや、なんでもないよ。行こうか」
自分の荷物を受け取り、文菜と並んで歩く。
船の揺れに合わせて、足元がふわりと浮いたような感覚に包まれる。
――あの声を、俺は知っている?
けれど、誰の声だった?
忘れている誰か……
いや、そもそも“俺の知らない誰か”だったのか?
記憶の奥にひっかかるその響きは、どこか懐かしく、それでいて不気味なほど澄んでいた。
「諒くん、煙草吸い過ぎじゃない?」
その声には、とがめるような響きはなく、どこか気遣うような優しさがにじんでいた。
「……そうかもな」
癖でこめかみを掻いてしまう。
言い訳しようとも思わない。
自分がそれを“やめられないこと”を自覚しているからだ。
「ほどほどにね」
文菜は下から仰ぎ見るようにして微笑んだ。
その笑顔が、フェリーが作る波の音に紛れて静かに胸に染み込んでくる。
歩きながら、視線を感じ背後を振り返る。
さっきまでいたデッキの一角には誰もいなかった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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