episode 3
咳をするたびに、口からガラスの粒が砕け散るような勢いで、吐き出された。
浮気女のものではなかったのだ。
彼自身のものだったのだ。
さああっと、全身の血が引いていくのを感じていた。
もしかして……
嫌な予感。
「……すまない、香織。一度始まる、と、なかなか止まらなくてね。咳をする度に、身体の中から……出て、くるんだ……」
その『もしか』は当たっていたらしい。
「どうやら……終わり、ごほっ……近づいているみたいだ。黙っていてすまない、香織。おまえを……置いていってしまうな……」
夫は薄く笑った。
夫の身体はクリスタルでできていた。
結婚当初、楽しい結婚生活を営んでいく上で、その事実はそう重要ではなかったし、夫の外見はさほど人間と変わらなかったから、今の今まで忘れていたほどだった。
夫とはあるリサイクルショップで出逢った。無名の作家が作った作り物ということだったが、中古だったので、定価の半値で購入できたものだ。もしかしたらその分、寿命は短かったのかも知れない。
昨今、生きていく上でのパートナーは男女どちらでもいいし、もちろん人間でなくていいし、色々な材質で作られている作り物を選んでもいいし、そこに人工知能を搭載して、人間となんら代わりのない生き物にしてもいい。とにかくなんでもありのこの世界。
私はその時、クリスタルのあまりの美しさに惹かれて、夫に一目惚れをした。迷わず、夫を選んだ。
「どうすれば……どうすればいいの?」
いや、わかっている。
明確な解決策は見当たらない。けれど、どうにかしなければとの焦りと戦う。
『いつか来る別離に関して』
そういえば、夫の取扱説明書の最後のページに書いてあったっけ。
でも簡単に現実を受け入れることなどできやしなくて。
私はひとり、この世界に取り残されてしまうのか。
この寒々しい冬の朝には、ガラスの粒はひやりとして冷た過ぎる。私はバラけて床に落ちたクリスタルを、両手でかき集めた。
「香織、無駄……だよ」
「なんで黙ってたの?」
夫は苦く、苦く笑った。
「おまえを、悲しませたくなかったんだ。だけど……はは。まさか……最期にう、浮気を疑われるとは……な」
ああ、どうしたらいい?
夫との別れが近づいている。
「こんなふうに、内側からクルとは思ってもみなかったけど……ごほっごほっ」
咳をするたび、バララと洗面台に飛び散る。まるでそれはダイヤモンドのように、寒くて陰鬱な洗面所の一面、窓からの朝日に反射し、キラキラチカチカと光が飛び散っている。
夫との思い出はたくさんあって。
子どもを授かることはできないと分かっていたから、だから余計に夫婦仲良くやっていこう。喧嘩もするだろうけど、どちらかが折れて、すぐに仲直りしよう。
そう約束して、私たちはよく一緒に旅に出た。
美味しいものを半分こし、うまいっと笑い合う。温泉につかり、旅館の部屋で二人抱き合った。誕生日には当たり前のようにケーキとプレゼント。大きな花束を貰ったこともある。
幸せだった。
夫を形成するのは、クリスタル。長年過ごすうちに耐久性が落ち、いつか壊れる日が来るのだと。
その『いつか』が、今なのだと。
けれど、筋肉、骨、血液、心臓で形成される人間だって。いつかは寿命が尽きて、倒れる日があるのだから。
ごほごほっ。
私は急いで夫の口を手で押さえる。
「すぐに行く。私もすぐに行くから……」
涙がどっと溢れて流れて落ちた。その涙は重力に逆らうことなくスローモーションのように落ちていって、床に散る。
それと同じように、夫の身体も儚く散っていく。
「……香織、聞いて。香織、愛してる……これだけは言わせて、俺、香織に出逢ってからの人生、すっげー幸せだった」
夫は薄く笑って、力を振り絞る。
「ふふ……最後に……浮気、疑われるとは思わんかったけど……あーおもしろ」
私も笑った。
「浮気されたら、死んでも呪うとこだった」
「恐えぇ……でも大丈夫。愛したの、香織だけだったから。これはほんと。心から……信じて……」
──ゆっくりでいいから、
待っているね──
身体が。
崩れていく。
バラバラと砕け散って。
私は夫の身体を抱きしめながら、その冷たさに辟易する。
冬の朝。
「こんな寒い日に逝かなくてもいーのになあ」
最後に夫が笑った気がした。