花紅柳緑の英雄、交差する鏡像 6
膝の上で寝ていたゆきさんが我が物顔で伸びをする。慌てて落ちないように手を添えたあたり、僕はお猫様の下僕なのかもしれない。
「それは、すごく素敵だね」
「……素敵?」
「だってそうじゃない? 僕らはあの頃のことをただの夢のように、あるいは一つの人生のように覚えてるけど、君にとってはそうじゃなかった。自分の知る物語の中に入り込めるなんて、そんなワクワクすること、ふつう絶対に味わえない」
目を見開く彼女に、僕は羨望が止まらなかった。
物語の中に入ってみたい、なんて。きっと誰もが一度は夢見たことがあるはずだ。
胸躍る魔法使いの世界の一員になってみたい。
勇猛な英雄譚の中で、一緒に旅をしてみたい。
魅力的なキャラクターと日常を過ごしてみたい。
彼女はそれを味わったのだ。
恋焦がれても、常人なら決して触れることのできない物語の中を、彼女は赤霧涼として駆け抜けた。
それのどれほど羨ましいことか。
「僕はどこまでも、読者だった」
「読者、ですか? 緑橋くんは私の知る限り立派な主人公だったと思いますが。引っ込み思案な少年が、ヒロインと出会って少しずつ変わっていく、ような」
「はは、緑橋優汰はね」
気を紛らわせるように僕はゆきさんの背中を撫でた。良きにはからえ、とでも言わんばかりの満足げな顔に、少しだけ気がまぎれたような気がした。
彼女はとても、不安定に見えた。それでも、誠実に僕と話をしようとしてくれてる。
「僕は、緑橋優汰じゃないよ。僕は弥緑優汰。緑橋優汰の姿を最前列で見続けていた。観客だ」
「……緑橋優汰があなたになったわけでも、緑橋優汰として存在していた、という認識もないってことですか?」
「うん、大体そうだね。僕は緑橋優汰の観客だった。自分と似てるとは思ってたけど、彼が僕だと思ったことはないんだ。彼がそこにいるのを、僕は幻影か何かみたいに見えてた」
「……ということはもしかして、弥緑くんは私と面識があるわけでは、」
「うん。さっき会った時、あなたは久しぶりって言ったけど、僕にそういう認識はなかったんだ。あなたが緑橋優汰の見ていた人だっていうことはわかったくらいで」
「な、んて迷惑な」
ずっと澄ました顔をしていた白鷺涼は崩れ去り、視線を彷徨わせ、何か言おうとした口を閉じ、赤くなりかけた顔を手で覆った。
「だ、大丈夫……!?」
「大丈夫じゃないです、大けがです……。前世のあなたの知り合いです、みたいなノリでつい話しかけてしまって……すごく不審者じゃないですか……」
「で、でもあなたが赤い彼だっていうのはすぐわかったし、その、僕の友達って印象はなかったけど、僕は物語の中の人に会えたみたいですごくうれしかった」
慌ててフォローを入れるが、しどろもどろになる。彼女がどんな思いなのか、想像に難くない。きっと彼女は今まで白樺蓮や黄師原煌太郎達と会っていて、今回のようなノリで話をしたのだろう。しかもそれで何の問題もなかった。なのに肝心の僕と来たら緑橋優汰であるという自認もないし、しっかりした記憶を持っているわけでもない。そこに友達面、それも前世の縁というように話しかけてしまった。僕が同じ立場だったなら膝のゆきさんを投げ出してわき目も降らず逃げ出したい。この場から逃げ出そうとはせず羞恥に打ち震える彼女を尊敬する。
「僕はきっと、あなたや他の人たちみたいにしっかりした記憶を持ってない。夢を見ている状態に近いかもしれないけど、僕は緑橋優汰の姿しか基本的には見られなかった。彼の近くに誰かいる、彼が誰かと話をしているっていうのを認識できるくらい」
「……それで、私が赤霧涼ってわかったんですか?」
「名前を知ったのはついさっきだけどね。でも緑橋優汰が、子供のころからあなたにずっと憧れてたのは知ってるんだ」
はっと顔を上げた彼女に、心中嘆息する。
彼女は、赤色の彼は僕が思っていたよりずっと人間らしい。微かな怯懦と困惑、罪悪感に縁どられた赤い瞳を見つめた。
「あなたの姿は僕には見えなかった。でも君と緑橋優汰が初めて出会った日、僕も一緒に公園で見てたんだ。いじめられっ子だった彼を、あなたは救ってくれた。薄暗い日陰で、蹲るしかなかった彼を、あなたが日向に連れ出したんだ。あなたの姿はノイズ交じりだった。でも今も覚えてる。白い光のようなノイズの中で、真っ赤な目が光ってた。あなた自身が太陽みたいだったんだ」
今も鮮明に思い出せる。
あの夏の日差しを。焦げ付きそうな太陽の光を。影を払い眩く照らす赤い光を。幼い彼の瞳に宿った憧れと希望、そして運命と出会ったような高揚感を。
「地球上に、目に見える”希望”があるとするなら、きっとそれはあなたのことだったよ」
希望とはあんなにも光輝いて見えるものなのだと、僕は初めて知ったのだ。
しかしどうしてか、顔を上げたはずの赤い希望はさっきよりも深く突っ伏していた。
「……君は、どうして、そうも……」
「ええと、どうしたの?」
「……そんな赤い希望に、実際会ってみてどうでしたか? 太陽のように、私は強く光れません」
「うん、そうだね。今のあなたは月みたいだ。静かで、綺麗。でもきっと太陽が当たるところはとても熱くなるような」
「がっかりは、しませんか?」
「そんなまさか!」
自嘲するようにそう囁いた彼女の言葉をかき消すようについ叫んでいた。至極迷惑そうに、ゆきさんがにゃあと鳴く。ゆきさんには悪いが、今の僕は態度を改めることはできなかった。
「がっかりなんてしない! 確かに、緑橋優汰の手を取って、日向へ連れ出してくれるような力強さは感じられないよ。でもあなたは物語の中を生きた。物語の中へと入りこんだ。眠りを通してあなたは別の世界で暮らしてみせたんだ! 赤霧涼として生きて、キャラクターたちと言葉を交わし、思いを交わした。きっとあなたの歩いた道が物語そのものになってる」
彼女はゲームのプレイヤー決められた道もなければ、定められたゴールもない。その中で白鷺涼は赤霧涼として生きて、キャラクターたちと物語を紡いだ。
「あなたはきっと、あの世界の主人公だった。あなたの不思議な眠りと旅は、世界中にいる物語に焦がれる人の夢なんだ」
赤霧涼は、緑橋優汰の憧れだった。
赤霧涼は、白鷺涼のきっと理想だった。
けれど物語に足を踏み入れ、生き、紡いだ彼女は、物語を愛する者の夢に、希望に違いなかった。
独りよがりじゃない。誰かと繋がり、綴れる不思議な縁。
「緑橋優汰が赤い彼に憧れたように、あなたは僕の憧れだ」
ふと我に返り、とんでもなく恥ずかしい口説き文句を連発していたことを自覚した僕はゆきさんのお腹に突っ伏していたし、恥ずかしい言葉を真正面から受け止めることとなってしまった白鷺涼も春の麗らかな天を仰ぐこととなっていた。
揃いも揃って挙動不審になる僕らを嘲笑うかのように、僕の膝からゆきさんがするりと逃げ出し地面に降り立つ。干したての布団のような匂いがなくなり、まだ少し冷たい風が僕の顔を撫でた。
「君は、なんだかすごいですね。緑橋くんとも、違う。でもとても、こう、個性的です」
「あんまりそんな風に言われることはないね。でも今は少し、いやすごくはしゃいじゃったんだ、きっと」
じゃなきゃあ臆面もなくあんな言葉をポンポンと投げつけることはできなかっただろう。柄にもなくはしゃぎ、しゃべりすぎてしまった。けれどどこか悪い気はしなかった。
「そう言えば、会ってすぐに”物語を書かせてほしい”って言ってましたね。あれっていったい何のことだったんですか?」
「……忘れて。どうぞ忘れてください」
少しメンタルが回復してきたと思ったら、数十分前に自分が落とした爆弾を起爆された。突然の追撃に僕のライフはもうゼロだ。
我ながらほぼ初対面の相手にノータイムに不審すぎることを口走った気がする。頭の中の映像を彼女の側に立って再生してみれば、僕はまごうことない不審者だ。地域の不審者情報のメールで配信されてしまう。
「あれはちょっと、パニックになって取り乱したというか、なんというか……」
「君は何か書いたりしているんですか?」
「しゅ、趣味というか、妄想というか……? 人にお見せできる大層なものじゃないデス……」
「でも書きたいと思うくらいには、物語や小説に親しんでいるのでしょう? どんなものを?」
頼むから引いてくれ、と思うのにまるで引いてくれる気配がない。彼女ほどの人間であれば、こちらが言い渋っていることなどとうに察しがついているだろうに、意地が悪い。
「……僕の見た幻影を。あなたたちと違って、僕の見る世界は不完全だった。大筋どころか緑橋優汰が出ているところしか覗き見ることができないし、彼の表情や仕草くらいでしか、周囲の人間の様子等も知れなかった。だからそれを補完するために、書いたんです。臆病で小心者な彼が幸せになれるような世界を書いてたんだ」
あなたたちのことを妄想しながら緑の彼に都合のいいように書いていました、などという僕の告白を、彼女は侮蔑の視線一つくれることなく、静かに僕に聞いた。
「それで彼は、幸せになれましたか?」
「……多分。緑の彼は変わった。自分に自信を持つようになって、一歩前に進んだんだと思う。あの桃色の彼女のおかげで」
「そうですか、彼女は本当に不思議な人でしたからね。きっといろんな人を変えてみせたのでしょう」
言葉にしない声で、彼女はヒロインだから、と言っているように聞こえた。
彼女は確かにすごかった。緑橋は彼女と出会って急速に変わっていった。だが赤い彼、基赤霧涼と出会った時のような輝きや衝撃はなかった。彼女はもっと普通で、もっと変わっていた。一つの目的に向かっているようで、目移りして。誰に対しても心を傾けながら、あっさりと飽きたように離れてみせて。
「……でも僕は、あの終わりが一番のハッピーエンドじゃなかったと思う」
いろいろ考えることはあったけど、これが一番しっくりくる答えだった。
確かに彼は幸せになっただろう。古い自分から変わることができただろう。
でも彼が本当に欲しかったものはそんなものじゃない。
もっと早くに変われなかったから、諦めたのだけ。
他のどんなハッピーエンドを迎えたとしても、焦げ付くようなあの憧憬は決して止まない。
「緑橋優汰は変わった。それでも、あの夏の日に、あなたと友達になりたいと言えなかったことだけはずっと後悔として残ってる」
あの衝撃は、運命の予感は、彼の身体から抜けきることはない。声をかける勇気もないのに、そんなことはわかってたのに、後悔しないでいられない。けれどそれでも、何度繰り返したって、きっとあの夏の日に緑橋優汰がそう言えることはない。彼はそういう子供だった。
あの日あの時、彼らの道が一瞬重なった。けれど、それだけだ。二つの道は交差して、あとは重ならず、ただ時は流れた。
「僕は緑橋優汰を知らない。ただ彼が生きていたらしい陽炎を見ていただけ。彼がどんな風に話すのか、あなたとどんな話をしていたか、僕は知らない。もしかしたら僕は記憶がないだけであなたたちみたいに、僕自身が緑橋優汰かもしれないし、もしかしたら赤の他人の傍観者かもしれない」
どれだけ話を聞いても、僕は自分が緑橋優汰だとは認識できなかった。彼はどこまでも、僕が見てきた緑の少年だった。けれど、白鷺涼は、赤霧涼は一目見た瞬間僕を緑橋優汰として認識した。
そこに何の意味もない、なんてことはないんじゃないだろうか。
いや、僕はそこに意味を見出したいだけかもしれない。
「でももしあなたが、僕の中に彼の存在を見てくれるなら、僕と友達になってもらえませんか?」
赤い目が零れ落ちそうなほど見開かれる。
途中から自分でも何を言っているかわからなくなりつつあったが、無言で彼女の目を見つめている間に自分で整理する。
緑橋優汰は、彼女と対等な友人になりたかった。多分。
彼女が割と気さくに声をかけてきた当たり、たぶん知人ではあったのだろう。けれどその表情や口調はお行儀よく繕われていて、親しみや気軽さというものはあまり感じない。彼女からすれば名前と顔のわかる同級生、くらいの距離感だったのかもしれない。
しかしふと思う。
彼女は他のキャラクターとは違うのだ。彼女は、赤霧涼は最初からキャラクターのことは知っていた。ならば初めて出会ったあのときも、緑橋優汰がゲームの攻略キャラクターであることはわかっていたはずだ。にも拘わらず、彼女と緑橋優汰の絡みはとても少ない。
もしかしたら、緑橋優汰は避けられていたのかもしれない。
そうであれば、彼の憧憬はどれほど無為なものだったのだろう。
「……君は、」
「やぁっと見つけた!」
薄い唇を開きかけた彼女の言葉を遮ったのは怒りを孕んだ聞きなれた声だった。
「いきなり走って行ったと思ったら、私を放置して女の子をナンパ? 大学デビューとはいい度胸してるわね」
「ちが、いや本当に違うんだ……」
比較的に普段から穏やかな花房ににらまれ縮み上がり言い訳を模索する。
胸倉を掴まれ現実を鼻面にたたきつけられた気分だ。
夢見心地の白昼夢がいきなり昼ドラのクライマックス。
しかしながら事情を知らない花房からしたら僕はクズ以外の何者でもない。知り合いに似てたからって声をかける、というルート自体が完全にナンパだ。
「……これはすみません、弥緑くんの彼女さんでしたか」
「か、のじょ、じゃあないですけど……ってあらやだ美人」
また綺麗なお面を付け直した白鷺涼が爽やかに花房へ対応する。人を手玉に取るのに慣れすぎている気がする。立ち振る舞い、言葉選び、そのどれもが相手の感情を揺さぶる。
1分もすれば僕ではどうしようもなかった修羅場を白鷺涼が解ききり、花房と和やかに談笑していた。
初手から戦線離脱した敗残兵の僕は再び気が乗って戻ってきたユキさんを手持ち無沙汰にホールドしていた。
白鷺涼は本当のことを、彼女らの記憶や僕の幻影の話をしていない。けれど説明するときに嘘はついていないのだ。確信からずれたことを言って、勘違いを誘発させているだけで。
ゆきさんのお腹を両手で擽りながら、なんとなく、赤霧涼という人はこういう人だったのだろうな、と独り言つ。
完璧な笑顔で疑念をけむに巻き、正義は自分にあるかのように振る舞い、そして決して揚げ足を取られたり言質を取られるような発言をしない。
きっとそんな少年だったのだろう。
「…………お前」
「ひっ!?」
あるはずのない懐かしさを持って彼女を見ていたら赤髪の青年が僕の真横に現れた。じろりと僕を見下ろしたその両目は赤霧涼によく似た赤さだった。
慌てて脳内検索するが、目の前にいる青年が誰なのかわからない。赤髪赤目なら赤霧翡翠だが、わんこ系のキャラクターの微塵もない。どちらかと言えばにじみ出る傍若無人さをひしひしと感じる。
生来のビビりである僕はただただ和気藹々と花房と会話をする白鷺涼に救助求むという視線を必死に送るしかない。
「蓮さん、あんまり見つめると彼に穴が開いてしまいますよ」
「こいつ、前に会ったことがあるような気がする」
「あ、会ったこと……!?」
こんな派手な見た目の人と会ったら忘れるはずもない、とまで考えてはたと気が付く。
この彼の言った”前に”、以前に、という意味ではない。”前の世界で”という意味ではないだろうか。そして赤霧涼、もとい白鷺涼が”蓮”と呼ぶ。
ならば彼は、
「しらか、」
「私の友人ですよ」
白樺蓮。そう言おうとした僕を白鷺涼が遮った。
にっこりと笑う彼女は視線だけで花房を指す。そうだ、彼女もゲームのプレーヤーだ。もしここで彼のことを白樺蓮などと呼ぼうものなら僕は現実虚構の区別のつかなくなった廃人のような目で見られること請け合いだ。
「私の古い友人です」
「……ああ、あれか。カツアゲされて眼鏡割られてお前にお姫様抱っこされた奴」
「待って何の話?」
微塵も身の覚えがない。花房がドンびいた顔をしているが僕もドンびいてる。彼が言っているのは僕ではなくて緑橋優汰のことなのだろうが、彼はいつの間にそんな事件に巻き込まれていたのか。少なくとも僕の見ていた幻影の中にそんな情報盛りだくさんなシーンはなかった。
「かなり尾ひれがついて変形してますが、まあ大体そんな感じです」
「そんな感じなの!?」
一体緑橋優汰に何があったのだろうか。あんなおどおどして自信なさげな彼に降りかかった災難を思うと両手を合わせるしかない。
「ふうん」
興味があるのかないのかよくわからない返事をして、白樺蓮は僕から視線を外した。燃えるような赤い髪とルビーのような目はその色に反してどこまでも冷たい。
「もう日も落ちるし、春でも寒い。帰るぞ」
「ええ、お迎えわざわざありがとうございます」
だがそんな彼を見る白鷺涼の笑顔は飾ることなく、穏やかだ。きっと、緑橋優汰に見向きもしなかった赤い少年は、ただかの白い少年のことしか見えていなかったのだろう。
もう僕は、どうして憧れの赤い少年は緑の少年を救ってくれなかったのか、とは思わない。
凛としたあの赤い少年は、ただ人に与える人間ではなかったのだろう。
「白鷺さん」
緑の彼と同じように、悩むことも、くじけることも、苦しむこともきっとあった。そしてそれを支えたのが、白樺蓮だったのだろう。
「僕はわからないことや知らないことが多い。それを知りたいと言っても、知るすべもない。でも僕は彼や、君たちのことをもっと知りたいって思うんだ」
「ええ、」
「だから、また話を聞かせてほしい。今度は、君と対等な友達になりたいんだ」
緑橋優汰と赤霧涼は、決して対等ではなかった。
緑橋優汰は赤霧涼を、決して手の届かない憧れという席に座らせてしまっていた。
赤霧涼にとって緑橋優汰は数多いる、愛想を振りまく人間の一人にすぎなかっただろう。
二人は話すことはあれど、対等な友人であることは一度たりともきっとなかった。
2対の赤目が僕を見下ろしていることにハッとする。
今の言葉選びはあまりに不遜だっただろうか。はっきりとしていた意志がみるみる萎んでいく。そもそもよく考えてみれば対等だとかそういう話はあくまでも全て僕の考察に過ぎない。それもその過程を口にしていないから、彼女からすれば突然何を言い出すのか、と怪訝に思っているに違いない。
「……ええ、喜んで」
しかし彼女の言葉は僕の想像を裏切った。
「以前の私は、明確にあなたのことを避けていました。私は、あなたのことをその実、恐れていました。だからこそ私は決してあなたと誠実に話をしてはいなかったでしょう。上っ面だけの聞こえのいい言葉ばかり吐いて、あなたとまともに向き合おうとしなかった」
その言葉は、緑橋優汰に対して自身は不誠実だった、というものだった。けれど僕はそれを決して怒れはしないし、彼女の気持ちも、今ならわかる。
緑橋優汰は、彼女にとってゲームのキャラクターだった。
それも主要キャラクターの一人。
怖かったのだと、彼女は言う。
きっと怖がっていたのは僕だけじゃない。白樺蓮を除く、すべてのキャラクターを、だ。
ゲームのストーリーを知っているだけに、本来は登場しないキャラクターの赤霧涼が何を齎すのか、何を齎せてしまうのか、きっとそれを恐れていた。
そしてつい先ほどまでは赤霧涼と白鷺涼との差を、恐れていた。
「でもあなたの言葉で、私は、かつての私を救われた気がするんです」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げてしまう。穏やかに笑う彼女に、揶揄っている様子も嘘も見られなかった。
けれど実際、僕の言葉の何が彼女の琴線に触れたのかわからなかった。
さっきから余裕のない僕は、ほとんど言葉を遂行することなく口にしてしまっている。どれだけ言葉を遡っても、彼女を救えるような言葉はなかった気がする。
「そんな大したこと言ってなかったと思うけど?」
「でも私にとっては、予想もできなかった、救いの言葉だったんですよ」
わからない。
けれど彼女の表情を見て、僕は少しだけ僕のことを褒めたくなった。
ふと彼女が隣に立つ白樺蓮、基、赤い蓮を見上げる。つられて僕も視線を向けてその無表情さにぎょっとした。
さっきから変わらず、無表情だ。けれど無表情ながら不機嫌だというのがひしひしと伝わってくる。口には出さず、不機嫌だということを強制的にわからせる彼は大型動物のように見えた。逆鱗に触れたら何をされるかわからないという不穏さまでも再現している。
「まあわからないならそれでも大丈夫です。あなたの中から自然と出てきた言葉なのでしょう」
「ええ……」
「知りたかったら、また今度お話ししますね」
不機嫌な彼の手を取る去り際、彼女は一枚のメモを僕に渡した。彼女の今の名前、SNSのID、それから大学の名前。どうも同じ学校の他学部らしい。
たった今書いた走り書きであるはずなのに、その字は丁寧で、書き手の几帳面さがにじみ出ていた。
「今の美男美女は一体何だったの?」
怒っていたはずの花房はすっかり毒気を抜かれて彼らの背を見送った。
「昔の知り合い、かなあ」
「かなあってなに?」
「いや、僕もほとんど覚えてないから。辛うじて白鷺さんはうっすらわかるけど、もう一人の赤髪さんはよく知らないし」
「国宝級のビジュアルね」
「僕らと同じ大学の同学年だから、また学内で会うかもね」
「ふぅん?」
飽きたように膝の上から去るゆきさんを見送りながら、ちらりと花房を見上げると、彼女もまたどこか不機嫌だった。
「……不機嫌?」
「別にー?」
「綺麗な人と話せて機嫌治ったんじゃないの?」
どうしてか後頭部を引っぱたかれた。
大学入学と同時に新調したノートパソコンに、使い慣れた白いUSBを接続する。
いつかのノートの落書きはすべてUSBに移行させてある。
見慣れたフォルダの下に新しいフォルダを作って、新規のWordファイルを立ち上げる。
真っ白い画面に、僕はキーボードを叩いた。
今までの物語は完結した。
緑の少年はそれなりに救われ、それなりの幸福を得た。それはきっと、それでいい。
でも物語はまた始まりだした。
幻影はすでに見えない。あの日聞いた運命の足音はすでに遠い。
でも僕の高揚感は決して萎んだりはしない。
もう僕だけの物語じゃない。緑の少年のための物語じゃない。
記憶を繋ぎ合わせよう。パズルのピースを埋めていこう。
今度こそ、きっと誰も結末を知らない物語を。