3話
震えあがって我が身をいだき、あたふた辺りを見まわします。すみっこの、すみっこの、すみっこの方まで、目を皿のようにして、声のあるじを探しました。
けれど、やっぱり、誰もいません。
絵師は足をガクガクさせて、口をあわあわさせました。いったい、誰の声なのでしょう。びくびく森を見まわしますが、森はやはり変わることなく、おだやかに静まっているばかりです。
ふと、絵師は「声」の言葉を思い出しました。
「……葉っぱは緑で、木の実は赤で、地べたは黒か」
ぶつぶつとなえて、ふーむ、と白いひげをなでます。確かに、それは、そのとおり。
古びたコートのポケットから、絵師は筆をとりだしました。ならば、ひとつ、ためしてやろうと思ったのです。
おっかなびっくり近くの大木に近よって、そおっと葉っぱをなでてみます。
すると、どうでしょう。
そっとぬぐった絵筆の先が、木々の緑そっくりの、あざやかな緑色に染まったではありませんか。
「これはすごいぞ!」
絵師はびっくりぎょうてんし、絵筆の色を、わなわな興奮して見つめました。
すっかりうれしくなってしまい、色々な場所に歩いていっては、絵筆の先でなでてみます。すると、やっぱり、幹をなぞれば、木の幹そっくりの黒っぽい灰色に、しゃがんで足元の地面をなぞれば、ぬかるんだ赤茶色がすくいとれるではありませんか。
「すごい! すごいぞ!」
けれど、はしゃいでいたのもつかの間で、絵師はのろのろ首をふり、またため息をつきました。
「じゃが、色はあっても、かんじんの紙がなくてはのう」
それでは、絵は描けません。あるのは絵筆が一本と、アルミのカップに、パンの景品の丸皿が一枚、それきりです。
「せめて、紙があればのう」
あきらめきれずに、絵師はふかぶかとうなだれます。
森のこずえがさらさら鳴って、ざわり、と空気がうごめきました。
《 描くものなら、あるじゃないか 》
さわり、と何かが絵師の手をなでました。
見れば、まっすぐおいしげった草の葉でした。それが絵師の手をなでています。そう、偶然さわったというのではなく、何かをさすようにして、なでているのです。絵師は驚いてそちらを見ました。すると、パレット代わりの丸皿が、ズボンのおなかにはさまっています。
「もしや、これに描け、と言うのかの?」
絵師はおなかから丸皿をとりだし、ためつすがめつ、ながめてみました。たしかに元は白かったので、描こうと思えば、描けないことはないかもしれません。けれど──
絵師は顔をくもらせて、力なく首を振りました。
「絵の具がこびりついていて、これに描くなど、とうてい無理じゃ。こうなっては、ちょっとやそっとじゃ、とれやせん」
この皿は、若い頃から使いつづけているのです。その長い年月で、絵の具は色とりどりに層をなし、ボコボコ岩のようにもりあがっています。
《 川で洗えば、いいじゃないか 》
両手で皿をもったまま、絵師はきょとんとまたたきました。長年、使いつづけた皿なのです。絵の具はガチガチに固まって、今ではけずりとることさえ、ままならないのです。それが、ちょっと川で洗ったくらいで、とれるわけがありません。
けれど、絵師は(まてよ?)と思い直しました。さっきも、ためしにさわってみたら、絵筆で色がすくいとれたではありませんか。あの「声」が言ったとおりに。
絵師は川にとんでいき、皿を川の流れにひたしてみました。
すると、どうでしょう。
ぶ厚くこびりついた絵の具の山が、するりするりと、とけだしていくではありませんか。
「とれた! とれたぞ!」
絵師は流れに手をつっこんで、お皿をぶんぶん振りました。
じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ──!
色とりどり絵の具の筋が、川を染めて流れていきます。
やがて、固いかたまりが、ぽろりととれて、皿はまっ白くかがやきました。