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■第6話「似てるって何だよ」

ミナ・クロフォードとして学校に通い始めて、俺はだいぶ自分の限界を知った。更衣室は無理。スカートも無理。名前事故も無理。つまり、ほとんど全部無理だった。

それでも、ここまで来た。俺は女子更衣室に吸い込まれず、春の強風にも負けず、去年の文化祭にいた先輩の名前をうっかり言ってしまった件も、なんとか乗り切った。


つまり、ミナ計画は順調。……の、はずだった。


朝、教室に入る前、俺は廊下の窓に映った自分を見た。ウィッグは整っている。制服も問題ない。表情も、たぶん昨日よりミナっぽい。

俺は小さく息を吐いて、鞄からミナ計画ノートを出した。


今日の目標。

正体疑惑を出さない。

名前に注意。


朝比奈湊の癖を出さない。

特に、すぐ怒らない。


俺は最後の一行を見て、少しだけ眉を寄せた。すぐ怒らない、という注意事項が必要な時点で、俺はミナに向いていない。

それでも、やるしかない。女みたいだと笑われたなら、その女みたいを使って、あいつらを負かす。


俺はノートを閉じて、教室に入った。


「おはようございます」


ミナとして丁寧に挨拶すると、女子たちがすぐに手を振ってくれた。


「ミナちゃん、おはよ。今日も髪きれい」

「ありがとう」


ここまでは順調だった。席に着くと、隣の朔がいつものようにこちらを見た。


「おはよう」

「おはようございます」


「……今日は眠そうじゃないな」

「昨日は眠そうでしたか」


「してた。目元に出る」

「見すぎでは?」


言ってから、しまったと思った。だが朔は怒らず、少しだけ目を細めた。


「朝比奈も、そういうこと言う」

「……そうなんですね」


朝比奈。その名前が出るたびに、俺の心臓は一瞬だけ嫌な跳ね方をする。

朔は、別に責めているわけではない。ただ、何気なく比べているだけ。


でも、その何気なさが怖い。ミナは湊を知らないはずなのに、周りが勝手に湊の話を出してくる。

前の席に陽斗が座り、当然のようにこちらを向いた。


「ミナちゃん、おはよ。今日もミナちゃんだね」

「今日もミナちゃんとは?」


「いや、なんか、ちゃんとミナちゃんしてるなって」

「その言い方、すごく不安になります」


「え、褒めてるよ」

「褒められている気がしません」


陽斗は楽しそうに笑った。その笑い方は、転入生に向けるものというより、いつもの俺をからかう時の顔に近かった。

いや、気のせいだ。そう思った時、教室の後ろから凪の視線を感じた。


振り返ると、凪はじっと俺を見ていた。目が合うと、凪は少しだけ口を動かした。


――大丈夫。


声は聞こえなかった。でも、たぶんそう言った。

なぜ今、大丈夫と言われる必要がある。何も起きていない。


俺はそう思った。だが、その数分後、凪の嫌な予感みたいなものは当たった。


****


ホームルーム前、隣の女子がふと俺の顔をまじまじと見た。


「ねえ、ミナちゃんってさ」

「はい?」


「朝比奈くんに似てない?」


教室の空気が、ぴしっと固まった。少なくとも、俺の中では固まった。

来た。ついに来た。


ミナ計画最大の穴。顔が朝比奈湊に似ている問題。

いや、似ているも何も本人だ。ウィッグと制服とちょっとした表情でごまかしているだけで、顔の骨格も目も口も全部俺である。


女子の声に、周りの数人がこちらを見た。


「言われてみれば、ちょっと雰囲気似てるかも」

「目元とか?」


「でもミナちゃんの方が柔らかい感じしない?」

「朝比奈くんはもっと口悪いよね」


やめろ。比較するな。

俺は笑顔を作った。ここで焦ったら終わる。


「朝比奈くんって、私よく知らないけど、全然違うと思う。だって、男の子と似てるって変だもの」


自分でも驚くくらい、雑な押し切りだった。しかし、一度言ってしまった以上、進むしかない。


「ほら、私、目の形、特徴的だし、声だって女の子の中でも高い方だし。そもそも性別が違います」


最後の一文は、内心かなり危なかった。性別が違う、という言葉を自分で言うのは、心臓に悪い。

女子たちは「まあ、たしかに」と笑った。助かった、と思った直後、別の男子が余計なことを言った。


「でもさ、発音ちょっと似てない?」

「発音?」


「ミナちゃんが日本語話す時の感じ。朝比奈も英語の発音きれいじゃん。前に授業で読んだ時、めっちゃそれっぽかったし」


そこに来るか。英語。

ミナ・クロフォード設定の自然さに使うだけのはずだった英語が、よりによって湊との共通点として出てきた。


俺は笑顔のまま、心の中でミナ計画ノートを破り捨てた。いや、破らない。大事な作戦ノートだ。


「英語圏だと、普通だから」

「普通?」


「発音が似て聞こえるのは、きっと、同じ地方の訛りの特徴が出ているのだと思う。私、南部出身なんだけど、朝比奈くんも、南部出身の先生に英語習ったんじゃないかな」


説明しながら、自分でもかなり苦しいと思った。だが、これ以上の答えがない。

親戚設定では逃げない。クロフォードが祖母の旧姓だとか、朝比奈家と関係があるとか、そんなことを言えば余計にややこしくなる。


だから、押し切る。


「というか、私と朝比奈くん、そんなに似ていますか?」


俺はあえて聞き返した。攻めろ。

疑われた時は、堂々とする方がいい。澪にそう言われた。


その澪はたぶん、今ごろ職員室でコーヒーを飲んでいる。こっちは命がけなのに。

男子のひとりが首を傾げる。


「いや、似てるっていうか、雰囲気?」

「ミナちゃんの方が女子っぽいよね」


刺さる。普通に刺さる。

女子っぽい。またそれだ。


ミナとして言われているのに、俺の中の湊が痛がる。俺は笑って流そうとした。

その時、隣で椅子が小さく鳴った。朔が立ち上がったのだ。


「お前ら、転入生囲んで何やってんの」


声は低かった。怒鳴ってはいない。

でも、教室の空気が一段冷えた。男子たちが少し肩をすくめる。


「いや、似てるなって話してただけで」

「本人が違うって言ってるだろ」


「まあ、そうだけど」

「なら終わり」


朔の一言で、会話が本当に終わりかけた。強い。

桐生朔、圧が強い。普段なら腹が立つその圧が、今だけはありがたかった。


俺が小さく息を吐いた時、陽斗が軽い声で割って入った。


「ていうかさ、朝比奈とミナちゃんって、よく見たら全然違うよ」

「そうか?」


「違う違う。湊はもっと、すぐ怒るし」


おい。


「顔に出るし」


おい。


「あと、照れると耳まで赤くなる」


おい、やめろ。陽斗はにこにこしながら続けた。


「ミナちゃんは、ほら、もっと落ち着いてるじゃん」


全然落ち着いていない。今すぐ瀬名陽斗の足を踏みたい。

でも、ミナはそんなことをしない。俺は静かに微笑んだ。


「瀬名くんは、朝比奈くんのことをよく見ているんですね」


皮肉のつもりだった。しかし陽斗は、なぜか少し照れた。


「うん。まあ、けっこう見てるかも」


何でそこで照れる。クラスの女子たちが「え、何それ」と少しざわついた。

また空気が変な方向に行きかけたところで、凪が自分の席から静かに言った。


「似てない」


教室が静かになった。凪の声は大きくない。

それなのに、なぜか通る。凪は俺の方を見ずに、窓の外を見ていた。


「朝比奈は、もっと隠すのが下手」


心臓が跳ねた。いや、それはどういう意味だ。

男子が笑った。


「神崎、それ褒めてる?」

「事実」


「じゃあ、ミナちゃんは?」


凪は少しだけこちらを見た。目が合った瞬間、逃げたくなった。


「今は、うまく隠してる」


意味が分からない。いや、分かりそうで怖い。

分かってはいけない気がする。


「なにそれ、ミナちゃん何か隠してるの?」


女子が冗談っぽく聞いた。俺は笑った。


「秘密です」


言ってから、しまったと思った。だが、女子たちは「可愛い」と笑った。

ミナなら許される。湊だったら、たぶんからかわれる。


その差が、少しだけ胸に刺さった。ホームルームのチャイムが鳴り、話題はそこで終わった。

助かった。いや、助けられた。


朔が圧で止めた。陽斗が軽く流した。凪が空気を終わらせた。

三人の動きが、あまりにも自然だった。まるで、事前にこうなると分かっていたみたいに。


****


一時間目の授業中、俺はノートを取りながら、何度もさっきの会話を思い出していた。


似てない。

朝比奈は、もっと隠すのが下手。


今は、うまく隠してる。

凪の言葉が、頭の中で引っかかっている。あれは何だ。


ミナが転入生として緊張していることを、何か隠していると表現しただけ。そう考えればいい。

そう考えればいいのに、背中が少し冷える。


****


昼休み、俺は女子たちに誘われて中庭にいた。彼女たちは相変わらず優しい。

そして、相変わらず距離が近い。


「ミナちゃん、さっきごめんね。似てるとか言って」

「いえ、大丈夫です」


「でも本当に、雰囲気ちょっと似てるよね。朝比奈くんが女の子だったら、こんな感じかも」


俺は笑顔のまま固まった。女の子だったら。

また、その言葉。俺はミナとしてここにいる。


つまり、まさにその言葉を形にした存在だ。なのに、実際に言われると胸が痛い。

俺のままじゃなく、女の子だったら。そういう仮定の中に、また俺が閉じ込められそうになる。


「……そう、ですか」


声が少しだけ遅れた。その瞬間、横から陽斗の声がした。


「ミナちゃんはミナちゃんでしょ」


俺は顔を上げた。陽斗が、パンを片手に立っていた。

いつの間に来た。女子たちは笑った。


「瀬名くん、またミナちゃんのところ来た」

「たまたま」


「絶対たまたまじゃない」


陽斗は笑いながら、俺の少し後ろに立った。距離は近いけど、隣に座るほどではない。

前より少しだけ、俺の逃げ道を残す立ち方だった。


「似てるとか似てないとかより、本人が嫌そうならやめた方がよくない?」


軽い声だった。でも、言っていることは軽くなかった。

女子たちは少し驚いたあと、「そうだね」と素直に頷いた。


「ごめんね、ミナちゃん。男の子と似てるとか、あまりいい気しなかったよね」

「大丈夫です」


本当は、大丈夫じゃなかった。でも、陽斗が止めたから、これ以上痛くならなかった。

俺はそれが悔しかった。ミナとして守られている。


朝比奈湊として言われた時は、笑って流してきた言葉なのに。ミナなら、止めてもらえるのか。

そう思ってしまった自分が、一番嫌だった。


****


放課後、俺は空き教室でミナ計画ノートを開いた。


今日の成果。

似すぎ疑惑、発生。

顔、目元、雰囲気、発音を疑われる。


今日の対応。

よく見たら全然違うでしょ、と押し切った。

目の形違うし、声も違うし、そもそも性別違うし、と主張。

英語の発音は、英語圏なら普通だからと説明。


今日の救助。

桐生朔が圧で沈静化。

瀬名陽斗が軽く流した。

神崎凪が空気を終わらせた。


俺はペンを止めた。また、救助と書いてしまった。

いや、今日は救助でいい。あれは完全に助けられた。


俺一人では押し切れなかった。たぶん、どこかでぼろが出ていた。

でも。


でも、何だ。俺はしばらく考えてから、続きを書いた。


今日の疑問。

なんで、みんなミナには優しいんだろう。

いや、普通の女子には優しいだけ。


朝比奈湊だったら、きっと笑われていた。

そう思うと、少しだけ腹が立つ。


ペン先が止まった。腹が立つ。

誰に。三人に。


それとも、ミナとして守られて安心している自分に。分からない。

俺はノートに大きく書いた。


結論。

いけた。

バレてない。

ミナ計画、継続。


そして、その下に小さく書いた。


でも、女の子だったらって言われるのは、やっぱり嫌だった。


それを書いた瞬間、胸の奥が少し痛くなった。消そうと思った。

でも、消せなかった。その時、空き教室のドアが軽く開いた。


俺は反射的にノートを閉じた。


「ミナちゃん、いた」


陽斗だった。


「ノックしてください」

「したよ。小さかったけど」


「小さいなら意味がありません」

「怒ってる?」


「怒ってません」

「怒ってる時の湊と同じ顔してる」


俺は息を止めた。陽斗は、言ってから自分でも気づいたように少しだけ目を伏せた。


「あ、ごめん。比べるの、嫌だった?」


その一言に、うまく返せなかった。嫌だった。

でも、ミナとしては嫌がる理由が薄い。朝比奈湊としては、ものすごく嫌だった。


「……少しだけ」


俺はミナの声で言った。陽斗はすぐに頷いた。


「分かった。言わない」


早い。軽くない。

その反応に、また胸が変な感じになった。


「瀬名くんは、すぐ謝るんですね」

「嫌がられたら、やめたいし」


「普段からそうすればいいのに」


口から出た瞬間、終わったと思った。今のは完全に朝比奈湊だった。

陽斗は一瞬だけ目を丸くした。それから、困ったように笑った。


「うん。そうだね」


責めない。突っ込まない。

ただ、受け止める。それがまた、ずるかった。


陽斗が帰ったあと、俺はノートを開き直した。


追記。

瀬名陽斗、嫌がったらやめる。


今さら。

遅い。


でも、少しだけ、悪いやつではないのかもしれない。


そこまで書いて、俺は慌てて線を引いた。

違う。


復讐対象だ。

流されるな、朝比奈湊。


俺は鞄を持って教室を出た。


****


校門へ向かう途中、朔と凪が並んでいるのが見えた。朔は俺を見ると、いつものように少し眉を寄せた。


「帰るのか」

「はい」


「今日は、あの話題もう出ないと思う」

「……どうしてですか」


「出させないから」


俺は返事に困った。凪が静かに言った。


「嫌だったでしょ」


息が止まる。


「何がですか」

「女の子だったら、って言われたこと」


俺は何も言えなかった。凪は、俺を追い詰めるような目ではなかった。

ただ、分かっている目だった。怖い。


怖いのに、少しだけ救われる。


「……少しだけ」


また同じ答えをした。凪は頷いた。


「じゃあ、止める」

「神崎くんは、簡単にそういうことを言うんですね」


「簡単じゃない」


短い返事だった。でも、嘘ではないと分かった。

俺は視線を落とした。


「ありがとうございます」


朔が、少しだけ目をそらした。


「別に。転入生が困ってたら、普通だろ」


普通。またそれだ。

普通の女子には優しい。ミナだから優しい。


そう思えば、全部説明できる。なのに、その説明では片づかない顔を、三人ともする。

俺は校門を出てからも、しばらく胸の奥が落ち着かなかった。


****


家に帰って、ミナ計画ノートの最後にこう書いた。


今日の勝敗。

押し切ったので勝ち。

たぶん勝ち。

でも、勝った気がしない。


似てるって何だよ。

俺は俺なのに。


ミナは俺なのに。

俺じゃないみたいに扱われる。


それが悔しい。

でも、守られたのは嫌じゃなかった。


その一行を見て、俺はしばらく固まった。嫌じゃなかった。

それは、かなり危険な言葉だった。俺は消そうとして、結局消さなかった。


****


その頃、学校の自販機前では、三人が並んでいた。


「今日、危なかったね」


陽斗が言うと、朔はため息をついた。


「本人の押し切りが雑すぎる」

「でも、あれ湊らしいよね。目の形違うし、声も違うし、そもそも性別違うしって」


「笑うな」


朔の声は低かった。陽斗は少しだけ表情を変えた。


「うん。ごめん」


凪が紙パックを持ったまま、静かに言った。


「女の子だったら、は駄目」

「分かってる」


陽斗の声も、今度は軽くなかった。


「あれ、俺も言った」


朔は黙った。凪も黙った。

陽斗は自分の手元を見た。


「湊、笑ってたから大丈夫だと思ってた。でも、今日の顔見て分かった。全然、大丈夫じゃなかった」


朔は壁にもたれたまま、低く言った。


「笑うのが上手いだけだろ、あいつは」


凪が頷いた。


「隠すのは下手。でも、我慢するのは上手い」


三人は少しの間、黙っていた。やがて、陽斗が顔を上げた。


「次から止める。ミナちゃんの時だけじゃなくて、湊に戻っても」


朔が短く言った。


「当然だろ」


凪も静かに頷いた。


「湊が、自分で言えるまで」


もちろん俺は、そんな会話を知らない。


****


俺はただ、ノートに書いた「嫌じゃなかった」の文字を見つめながら、自分に言い聞かせていた。

復讐は順調。あいつらは、ミナを女の子だと思っている。


だから優しい。俺じゃない。

ミナだから。そう思わないと、何かが崩れそうだった。


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