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■第4話「スカートとか無理」

ミナ・クロフォードとして生きる三日目の朝、俺はすでに女子制服というものに対して、かなり深い敬意と警戒心を抱いていた。まず、座り方が難しい。油断するとスカートが変な形になるし、椅子に座るたびに裾を気にしなければならない。

次に、階段が怖い。上りも下りも、後ろに人がいるだけで妙な緊張感がある。そして何より、風が敵だった。


「……今日、風強くないか?」


玄関で靴を履き替えながら呟くと、背後から澪がひょいと顔を出した。


「強いね。春の嵐ってやつかな」

「女子制服の日に春の嵐をぶつけてくる世界、性格悪すぎるだろ」


「湊、だいぶスカートに慣れてきたと思ったけど」

「慣れてない。毎秒、布に命を握られてる」


「言い方が大げさ」

「着てみろ。世界の見え方が変わるぞ」


澪は笑いながら、俺のスカートの裾を軽く直した。その手つきが慣れていて、なんだか悔しい。

俺は昨日まで、自分がスカートの裾を気にしながら登校する人生を送るとは思っていなかった。ミナ計画ノートを鞄に入れる前、俺は今日の注意点を書いた。


今日の危険。

風。

階段。

スカート。

以上、全部。


書いてから、少しだけ虚しくなった。復讐計画のはずなのに、内容がほぼ防災マニュアルになっている。

しかも相手は自然現象だ。桐生朔でも瀬名陽斗でも神崎凪でもなく、風。


俺は鞄を閉めて、気合いを入れ直した。大丈夫。三日目だ。

初日は転入、二日目は更衣室という地獄を乗り越えた。風くらい何とかなる。たぶん。いや、何とかならなかったら困る。


外に出た瞬間、強い風が足元を抜けた。


「無理かもしれない」

「早いね、諦め」


澪が後ろで笑った。俺はスカートの裾を押さえながら、じろりと睨んだ。


「これを毎日着てる女子、すごすぎないか」

「そこに気づけたのは成長だね」


「成長したくて女装してるわけじゃない」

「復讐って、意外と学びが多いね」


「教育番組みたいにまとめるな」


澪と別れて駅へ向かう間も、風は容赦なかった。歩くたびに裾が揺れる。少しでも油断すると、足元が落ち着かない。

鞄を片手で持ち、もう片方の手でスカートを押さえる。これだけで普段の二倍くらい疲れる。しかし、今日は負けられない。


俺はミナ・クロフォードだ。海外育ちの交換留学生で、たぶんスカートにも慣れている。いや、設定上は慣れているはずだ。

実際の俺は、歩道橋の階段を見ただけで軽く絶望しているが。学校に着くころには、すでに精神力の半分くらいが削れていた。


****


教室に入ると、女子たちがいつものように声をかけてくれた。


「ミナちゃん、おはよう」

「おはようございます」


「今日、風すごいよね。スカート大丈夫だった?」


その一言で、俺は危うく本音を全部吐きそうになった。大丈夫ではない。朝からずっと布との戦いだった。

俺は今、登校ではなく防衛戦を終えたところだ。しかしミナはそんなことを言わない。


「あまりの風で、少し、びっくりしました」

「分かる。あの校門のところ、風抜けるよね」


「気をつけてね。ここの渡り廊下も結構危ないから」

「渡り廊下」


俺は反射的に聞き返した。新たな戦場が出てきた。


「中庭のところ。風が強い日は、スカート押さえないと本当に危ないよ」

「そうなんですね。ありがとう」


俺は笑顔で返した。内心では、今日の危険リストに「渡り廊下」を追加していた。

席に着くと、隣の朔がちらりとこちらを見た。


「朝から疲れた顔してる」

「そんなことはありません」


「ある。昨日より歩き方が硬い」


なぜ分かる。こいつの観察眼は、もはや生活の邪魔である。

もっと黒板とか教科書とか、学生らしいものを見ていてほしい。


「慣れない道だったので」

「道?」


「はい」

「……そう」


朔は何か言いたそうにしたが、結局それ以上は聞かなかった。その代わり、机の横にかけていた自分の上着を手に取り、椅子の背にかけ直した。

俺はその動作を見て、少しだけ不思議に思った。何だ、今の。


まるで、すぐ使える位置に置いたみたいだった。いや、考えすぎだ。

桐生朔は几帳面だから、上着の位置にもこだわるのだろう。そういうことにしておく。


「ミナちゃん、今日も髪かわいいね」


陽斗が前の席に逆向きで座り、にこにこしながら言った。距離が近い。

転入三日目にして、こいつはもう初対面の遠慮を完全に捨てたらしい。


「ありがとうございます」

「敬語、まだ抜けないね」


「瀬名くんが近いので、敬語で壁を作っています」

「え、ひどい。でも今の言い方ちょっと好き」


「好きって言うな」


言ってから、しまったと思った。湊の口調が出た。

陽斗が目を丸くしたあと、楽しそうに笑う。


「ミナちゃん、たまにすごいはっきり言うよね」

「海外育ちなので」


「便利だね、その設定」

「設定って何ですか」


「何でもない」


陽斗は笑っている。何でもなくない。今のは明らかに危ない。

こいつ、もしかして疑っているのか。いや、違う。陽斗はたぶん、深く考えていない。いつものことだ。


だが、その後ろで凪がこちらを見ていた。見ている、というより、俺と陽斗の距離を測っているような目だった。

俺が気づくと、凪は口を動かした。


――風、気をつけて。


声は出ていない。でも、たぶんそう言った。

俺は眉を寄せそうになった。なんでお前まで今日の天候を俺に警告してくるんだ。


****


二時間目が終わり、移動教室の時間になった。次は美術室だった。

美術室へ行くには、例の中庭沿いの渡り廊下を通る必要がある。女子たちは慣れた様子で「風やばそう」と笑っていた。


俺は笑えなかった。渡り廊下の手前に立った瞬間、外から吹き込む風の音が聞こえた。

びゅう、と校舎の間を抜ける音。嫌な予感しかしない。


「ミナちゃん、スカート押さえた方がいいよ」

「はい」


俺は片手で鞄を持ち、もう片方の手でスカートを押さえた。だが、これが難しい。

強く押さえすぎると不自然だし、弱いと風に負ける。女子たちは当たり前のように歩いているが、俺は一歩ごとに神経を使う。


中庭には、男子たちも移動していた。朔、陽斗、凪の姿も見える。

まずい。よりによって、あいつらがいる。


ここでスカートがめくれたら、男バレどころではない。いや、男バレももちろん問題だが、普通に恥ずかしすぎてその場で消えたい。

俺は慎重に歩いた。渡り廊下の真ん中あたりまで来た時だった。


横から、強い風が吹いた。スカートの裾が、ふわっと持ち上がる。


「っ」


反射的に押さえようとした。でも、鞄が邪魔だった。

片手では足りない。裾が風に煽られて、膝の上まで浮きかける。


終わった。本気でそう思った。

次の瞬間、目の前に陽斗が立った。


「こっち、風やばいね」


陽斗は何でもないみたいな顔で、俺の前に体を入れた。背が高い。肩幅がある。

いつもは近いだけで腹が立つ距離感が、今だけは風を遮る壁になった。俺のスカートに当たる風が弱まった。


心臓が、遅れて跳ねる。


「瀬名くん」

「大丈夫?」


「……はい」

「よかった」


陽斗は笑った。その笑顔に、変な意味はなかった。少なくとも、俺にはそう見えた。

ただ、守られた。その事実だけが妙に残った。


「おい、これ使え」


横から声がして、朔の上着が飛んできた。俺は慌てて受け取った。

受け取り方が不自然にならないように気をつける余裕なんてなかった。


「腰に巻け。風が落ち着くまで」


朔は少し不機嫌そうな顔をしていた。いや、なぜお前が不機嫌なんだ。

こっちは今、人生の危機だったんだぞ。俺は上着を持ったまま固まった。


「でも、桐生くんの」

「いいから」


短い声だった。命令みたいなのに、なぜか嫌じゃなかった。

俺は言われた通り、上着を腰に巻いた。男子の上着は少し大きくて、スカートの上から腰回りをしっかり隠した。


布が一枚増えただけで、驚くほど安心した。


「ありがとうございます」

「別に。風が強いだけだろ」


朔はそう言って、目をそらした。その耳が少し赤かった気がして、俺は見なかったことにした。

さらに背後で、凪が静かに動いた。凪は渡り廊下の端にいた男子たちの方へ歩き、何か短く声をかけた。


すると、こちらをちらちら見ていた数人が、気まずそうに目をそらした。凪はそれだけで戻ってきた。

何を言ったのかは聞こえなかった。でも、視線が消えた。


さっきまで自分に向いていた好奇心が、すっと薄くなったのが分かった。


「行ける?」

「……はい」


「ゆっくりでいい」


その声が静かすぎて、逆に胸に落ちた。陽斗が前に立って風を遮り、朔の上着が腰を守り、凪が周囲の視線を散らしている。

あまりにも、タイミングがよすぎる。あまりにも、役割が分かれている。


でも俺は、そう考える前に歩き出した。渡り廊下を抜けるまで、陽斗はずっと俺の前にいた。

朔は横から風の具合を見ていた。凪は後ろに少し離れて歩き、誰かがこちらを見るたびに、その視線の先に立った。


何だよ、これ。何なんだよ。

美術室の前に着いた時、女子たちがほっとしたように寄ってきた。


「ミナちゃん、大丈夫だった?」

「風すごかったね。びっくりしたでしょ」


「瀬名くんたち、優しいじゃん」


俺は曖昧に笑った。


「はい。助かりました」


その言葉は、本当だった。助かった。

本当に助かった。だからこそ、困る。


陽斗は俺の前で軽く手を振った。


「じゃ、また後で。上着、桐生に返すの忘れないでね」

「分かっています」


「桐生、貸したの覚えてなさそうだけど」

「覚えてる」


朔が即答した。その声が妙に低くて、陽斗がにやっと笑った。


「はいはい」

「何だよ」


「別に?」


凪は黙っていた。ただ、俺の腰に巻かれた朔の上着を見て、それから俺の顔を見た。


「寒くない?」

「寒くはないです」


「ならいい」


それだけ言って、凪は男子たちと一緒に別の教室へ向かった。


****


美術の授業中、俺はほとんど集中できなかった。机の下で、朔の上着の袖が少し垂れている。

上着からは、ほんの少しだけ洗剤と教室の匂いがした。桐生朔の匂い、などと考えかけて、俺は全力で自分の思考を殴った。


違う。これは防寒具。

いや、防風具。借り物。


それ以上でも以下でもない。俺は復讐中だ。

なのに、なぜこんなに落ち着かない。授業が終わったあと、俺は廊下で朔を探した。


上着を返すためだ。もちろん、それ以外の理由はない。借りっぱなしだと変だから返すだけだ。

朔は階段近くで、プリントを整理していた。


「桐生くん」


声をかけると、朔が振り返った。俺は腰から上着を外し、丁寧に畳んで差し出した。


「ありがとうございました。助かりました」


朔は上着を受け取った。少しだけ、指が触れた。

ほんの一瞬だったのに、俺の手が変に熱くなった。


「……別に」

「また別にですか」


「他に言い方がない」

「ありがとうございます、に対して、どういたしましてでいいと思います」


言ってから、また湊の口調に近いと気づいた。やばい。

しかし朔は責めるでもなく、ふっと笑った。


「じゃあ、どういたしまして」


その言い方が、思ったより柔らかかった。俺は少しだけ返事に詰まった。

だめだ。これはミナに向けたものだ。


朝比奈湊に向けたものじゃない。


「……はい」


俺はそれだけ言って、逃げるように教室へ戻った。


****


昼休み、ミナ計画ノートを開いた。


今日の成果。

スカート危機を回避。


今日の被害。

心臓に悪い。


瀬名陽斗、壁になった。

桐生朔、上着を貸した。

神崎凪、周囲の視線を消した。


俺はそこまで書いて、ペンを止めた。文字にすると、ますます変だった。

三人とも、あまりにも自然に動いていた。まるで最初から、俺が困ることを分かっていたみたいに。


いや、違う。普通の女子には優しいだけ。

ミナが女子だと思っているから、守っただけ。朝比奈湊だったら、きっと笑われていた。


そう思った瞬間、少しだけ胸が痛くなった。昨日までは、助けられたことに戸惑っていた。

今日は、守られたことが残ってしまった。陽斗の背中。


朔の上着。凪が消した視線。

どれも、ミナに向けられたものだ。俺じゃない。


そう分かっているのに、嫌じゃなかった。むしろ、安心してしまった。

その事実が、一番腹立たしい。


俺はノートに続きを書いた。


今日の勝敗。

勝ち。

ただし、少しだけ調子が狂った。


理由。

普通の女子には優しいんだな、と思った。


……それだけ。


書いてから、最後の一行に強く線を引いた。


それだけ。


本当に、それだけだ。


****


放課後、俺は朔の上着の感触をまだ少し思い出していた。それが悔しくて、鞄を乱暴に閉めた。

ミナとして乱暴な動きはよくないと分かっていたが、もう誰も見ていないはずだった。そう思って顔を上げたら、教室の入口に陽斗が立っていた。


「帰るの?」

「……はい」


「途中まで一緒に行っていい?」


俺は警戒した。


「なぜですか」

「風、まだ強いから」


その言い方が、あまりにも自然だった。俺は少しだけ視線を落とした。

嬉しいと思ってしまった自分が、ものすごく嫌だった。


「大丈夫です。一人で帰れます」

「そっか」


陽斗はあっさり引いた。引かれると、それはそれで胸がざわついた。


「でも、校門までは同じ方向だから」

「それは一緒に帰るのでは?」


「偶然の同行」

「言い方を変えただけですよね」


「うん」


陽斗は笑った。その笑顔を見て、俺は小さくため息をついた。


「校門までなら」

「やった」


「近づきすぎたら置いていきます」

「分かった。近づきすぎないように近づく」


「意味が分からない」


廊下に出ると、少し離れたところに朔がいた。さらにその先に、凪もいた。

三人とも帰り支度をしているように見える。偶然。


きっと偶然だ。俺はそう思うことにした。

校門までの道は、朝よりも風が強かった。それでも、なぜかスカートが大きく煽られることはなかった。


前に陽斗がいて、横に朔がいて、少し後ろに凪がいたからだ。風の流れを遮るみたいに、三人が自然な位置にいた。

俺はそれに気づいて、気づかなかったことにした。校門で別れる時、凪が短く言った。


「明日も風、強いらしい」

「天気予報ですか」


「うん」

「ありがとうございます」


「気をつけて」


朔は鞄を肩にかけ直しながら言った。


「上着、必要なら言え」

「借りません」


「必要なら、だ」


陽斗はにこにこしながら手を振った。


「じゃあね、ミナちゃん。明日も気をつけて」

「はい。また明日」


また明日。その言葉を返したあと、俺は少しだけ胸を押さえた。

復讐は順調。ミナは、少しずつ三人に意識されている。


今日だって、明らかに守られた。つまり、作戦は進んでいる。

そのはずなのに、帰り道でミナ計画ノートを開いた俺は、なかなか次の一行を書けなかった。


今日の結論。

普通の女子には優しい。


そう書いて、しばらく見つめる。そして、小さく付け足した。

でも、守られた感じがした。


すぐに消そうと思った。けれど、消せなかった。


****


その頃、校門の近くでは、三人がまだ立っていた。


「明日も風強いって本当?」


陽斗が凪に聞いた。


「本当」

「じゃあ、朝ちょっと早めに来た方がいいね」


朔がため息をついた。


「お前、自然に付き添う気でいるな」

「桐生も上着貸す気でしょ」


「必要ならだ」

「それ、貸す気じゃん」


朔は否定しなかった。凪は、湊が歩いていった道の先を見ていた。


「今日、怖がってた」

「うん」


「でも、助かった顔してた」


陽斗の声が少し柔らかくなった。


「湊、ああいう顔するんだね」


朔は静かに言った。


「昔からするだろ。気づいてないだけで」


陽斗は一瞬黙ったあと、少しだけ笑った。


「桐生、見すぎ」

「お前もだろ」


「凪はもっと見てる」


凪は否定しなかった。ただ、いつもの静かな声で言った。


「隠すの、下手だから」


三人はそれ以上、正体の話をしなかった。誰も「ミナ」とは言わなかった。

ただ、朝比奈湊が明日も自分の足で来られるように、少しだけ風のことを考えていた。


もちろん俺は、そんなこと知らない。


****


俺は家に帰って、ノートの最後にこう書いた。


今日の勝敗。

勝ち。

たぶん。


でも、なんで勝ったのに、少しだけ悔しいんだろう。


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