表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/17

■第3話「更衣室は戦場」

ミナ・クロフォードとして転入して、二日目の朝。俺は、自室の鏡の前で女子制服を着ながら、人生で何度目かの「これは無理では?」という気持ちに襲われていた。

昨日は、なんとか乗り切った。クラスは思った以上に雑にミナを受け入れたし、女子たちは優しかったし、男子たちも遠巻きに見てくるだけだった。


問題は三人だった。桐生朔は見すぎる。瀬名陽斗は近すぎる。神崎凪は怖すぎる。

昨日の放課後、俺はミナ計画ノートにそのまま書いた。


今日の注意人物。

桐生朔。視線が尋問。

瀬名陽斗。距離感がバグ。

神崎凪。存在が伏線。


結論。

全員、危険。

だが、バレてはいない。


そう信じていた。信じるしかなかった。ここで「もしかしてバレてる?」と考え始めると、ミナ計画そのものが初日で爆散する。

俺はウィッグを整え、スカートの裾を引っ張った。


「……よし。今日も勝つ」


小さく言った瞬間、部屋のドアが開いた。


「湊、復讐者が朝から決意表明してるの、だいぶ面白いよ」

「ノックしろ、澪」


「したよ。湊が鏡の中の自分に夢中だっただけ」

「変な言い方するな」


従姉妹であり教師であり、今回の騒動の元凶である朝比奈澪は、俺の姿を上から下まで見て満足そうに頷いた。


「二日目にしてだいぶミナちゃんっぽい」

「その呼び方やめろ。背筋に来る」


「いいじゃん、ミナちゃん。可愛いし」

「可愛いって言うな」


「はいはい。今日の予定、見た?」

「普通の授業だろ。昨日より楽なはず」


俺がそう言うと、澪は一瞬だけ黙った。その沈黙は、よくない沈黙だった。


「……何」

「今日、体育あるよ」


時間が止まった。俺は鞄に手を伸ばしかけた姿勢のまま、ゆっくり澪を見た。


「体育?」

「うん。二時間目」


「体育って、あの体育?」

「他にどの体育があるの」


「人間の尊厳を試すやつ」

「湊の中で体育の定義がひどい」


俺は慌てて時間割を確認した。本当だった。

二時間目、体育。


女子制服で登校して、ミナ・クロフォードとして一日過ごすことだけで頭がいっぱいだった。体育という、服を着替える行為を伴う地獄イベントの存在を、完全に忘れていた。


「無理だろ」

「大丈夫。何とかなる」


「何とかなるの範囲を超えてる。女子更衣室に入った瞬間、俺は社会的に終わる」

「入らなければいいんじゃない?」


「どうやって?」

「そこは現場判断」


「作戦立案者が一番言っちゃいけないやつだろ」


澪は申し訳なさそうに、しかしやっぱりどこか楽しそうに笑った。


「一応、先生に呼ばれる設定で抜けられるようにはしておく。でも、タイミングは湊次第かな」

「俺、今日死ぬかもしれない」


「死なない。せいぜい心が三回くらい折れるだけ」

「十分重傷だよ」


俺はミナ計画ノートを取り出し、今日の注意点を書き足した。


今日の危険。

体育。

更衣室。

終わり。


短すぎる文字が並んでしまったが、これは仕方ない。俺の人生が短文で終わりそうなのだから、ノートまで長文にする余裕がない。


****


登校してからも、俺の頭の中は体育のことでいっぱいだった。教室に入ると、女子たちが手を振ってくれた。

ミナとして笑い返す。昨日よりは自然にできた気がする。自分の席、つまり本来は朝比奈湊の席に座ると、隣の朔がこちらを見た。


「おはよう」

「おはようございます」


「……まだ敬語なんだ」

「え?」


「いや、別に」


朔はそれ以上言わず、ノートを開いた。俺は横目でその顔を見た。

こいつは本当に何を考えているのか分からない。昨日から、俺を見ている時だけ目が鋭い。転入生を警戒しているだけかもしれないが、あの視線はどう考えても「初対面の女子を見る目」ではない。


いや、考えるな。考えたら負けだ。


「ミナちゃん、おはよ」


今度は陽斗が机の前に来た。近い。

今日も近い。


「おはよう、瀬名くん」

「陽斗でいいよ」


「まだ二日目なので」

「じゃあ三日目ならいい?」


「検討します」

「やった。検討入った」


陽斗は本気で嬉しそうに笑った。俺は胸の奥が変な感じになるのを、復讐心で押し潰した。

こいつはミナに優しい。ミナに近い。ミナに笑っている。つまり、作戦は順調だ。


そう思えばいい。


「今日、体育あるよね。大丈夫?」


陽斗が何気なく言った瞬間、俺は表情を固めそうになった。


「大丈夫、とは?」

「いや、転入してすぐ体育って、ちょっと緊張するかなって」


「そうですね。少しだけ」

「困ったら言って。俺、体育得意だから」


「女子の体育で困った時、瀬名くんに言うことはないと思います」

「あ、そっか」


陽斗は普通に納得した。こいつ、本当に何も考えていないようで、たまに変なところに気づく。

いや、今のは普通に善意だ。疑いすぎるな、俺。


その時、教室の後ろから凪の視線を感じた。振り返ると、凪は自分の席からこちらを見ていた。

見ているというか、観察していた。俺が目を向けると、凪は小さく口を動かした。


――無理しないで。


声は聞こえなかった。でも、たぶんそう言った。

いや、なぜだ。なぜ俺が無理していること前提なんだ。


俺は慌てて前を向いた。やっぱり神崎凪は危険人物だ。

危険というか、存在がネタバレに近い。


****


一時間目は、ほとんど内容が入ってこなかった。黒板の文字をノートに写しながら、頭の中では更衣室のシミュレーションを繰り返す。

体育の前に保健室へ行く。いや、それだと毎回使えない。先生に呼ばれた設定にする。だが、どのタイミングで?


女子たちが「一緒に行こう」と言ったらどうする? 着替えない理由は? 体操服は? 俺はそもそも女子の体操服を着るのか?

詰んでいる。かなり詰んでいる。


授業終わりのチャイムが鳴った瞬間、教室がざわっと動き出した。


「体育だ、移動しよ」

「ミナちゃん、一緒に更衣室行こ」


来た。死刑宣告みたいな明るさで、女子の一人が言った。

俺は笑顔を作った。


「えっと、私は」

「場所分からないよね? 案内する」


「ありがとう。でも」

「大丈夫だよ、うちの更衣室ちょっと遠いから早めに行こ」


優しい。とても優しい。

優しさが今は刃物である。俺は鞄の中でミナ計画ノートを握りしめたい衝動に駆られた。


だが、ここでノートを取り出したら完全に不審者だ。


「ミナちゃん?」

「あ、はい」


返事をしてしまった。女子たちに囲まれるようにして、俺は教室を出た。

廊下を歩きながら、心臓がものすごい勢いで鳴っている。女子更衣室までの道のりなんて、本来ならどうでもいいはずなのに、今日は処刑台への階段にしか思えない。


どうする。どうする、朝比奈湊。

いや、今はミナ・クロフォード。ミナ・クロフォードは女子更衣室に入っても問題ない。


問題ないのは設定上だけで、中身は朝比奈湊なので大問題だ。角を曲がれば、更衣室へ続く廊下。

その瞬間、前方に朔が立っていた。


「ミナ・クロフォードさん」


フルネームで呼ばれた。女子たちが足を止める。

俺も止まる。朔は手にプリントを持っていた。顔はいつも通り冷静だが、なぜか少しだけ不機嫌に見えた。


「朝比奈先生が呼んでる。職員室じゃなくて、準備室の方」


澪。神。

いや、元凶だけど今だけ神。俺は心の中で土下座した。


「今、ですか?」

「今。体育の前に確認したい書類があるって」


女子たちは「あー、転入関係かな」とあっさり納得した。


「ミナちゃん、大変だね」

「先に行ってるね。場所分からなかったら呼んで」


「ありがとう」


俺はできるだけ自然に頷いた。女子たちが廊下の先へ行く。

更衣室へ向かう背中を見送りながら、俺は全身から力が抜けそうになった。助かった。


助かったが、なぜ桐生朔がここにいる。俺が朔を見ると、朔は低い声で言った。


「早く行けば」

「……ありがとうございます」


「別に」


別に、じゃない。タイミングがよすぎる。

いや、澪が頼んだのかもしれない。そうだ。教師が生徒に伝言を頼んだだけだ。


俺はそう納得しようとした。その時、背後から陽斗が走ってきた。


「ミナちゃん、こっち。準備室なら近道ある」

「え、でも」


「急げって言われたんでしょ。ほら」


陽斗が俺の手首を軽く掴んだ。一瞬、体が固まる。

男子の手。温かい。力は強いのに、掴み方は乱暴じゃない。


違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。


「自分で歩けます」

「あ、ごめん」


陽斗はすぐに手を離した。その早さが、逆に胸に残った。

嫌がったら止まるんだ。いや、当たり前だ。普通は止まる。


変に感心するな。陽斗は俺の少し前を歩きながら、廊下の角を指さした。


「こっち、人少ないから」

「よく知っていますね」


「湊がよく遅刻しそうになって使ってた道だから」


俺は転びかけた。危ない。

今のは危ない。なぜ俺が自分の遅刻常習ルートに反応しているんだ。


「朝比奈くん、ですか?」

「うん。たまにさ、急いでるのに全然急げてないんだよね」


「そうなんですね」

「足、速そうに見えないでしょ」


「……見えないですね」


自分で自分の運動能力を女子留学生として評価する地獄。

陽斗は楽しそうに笑った。


「でも、必死な顔はけっこう好き」


俺は返事に詰まった。それは朝比奈湊の話だ。

ミナに言うことじゃない。なのに、陽斗はまるで俺に直接言っているみたいな顔をしていた。


「……朝比奈くんと仲がいいんですね」

「うん。俺はね」


「俺は?」

「湊がどう思ってるかは知らないけど」


その言い方が、少しだけ寂しそうに聞こえた。俺は何も言えなくなった。

準備室の前まで来ると、凪が立っていた。


まただ。こいつはなぜ、必要なタイミングで必要な場所にいるんだ。


「朝比奈先生、中」


凪が短く言う。


「ありがとうございます」


俺が返すと、凪は少しだけ首を傾げた。


「走らなくていい」

「え?」


「息、上がってる」


俺は慌てて呼吸を整えた。確かに、焦りすぎて息が浅くなっていた。


「緊張しているだけです」

「うん」


凪はそれ以上追及しなかった。その沈黙に、なぜか救われた。


****


準備室のドアを開けると、澪が中で待っていた。入った瞬間、俺はドアを閉めてしゃがみ込んだ。


「お疲れ、ミナちゃん」

「死ぬかと思った」


「まだ死んでないから大丈夫」

「更衣室は無理。絶対無理。今日だけじゃなくて今後も無理」


「うん、そこは別ルート考えようね」

「最初から考えろよ」


「いや、湊なら何か起こしてくれるかなって」

「起こしたら終わるんだよ」


澪は申し訳なさそうに両手を合わせた。俺は床に座り込んだまま、深く息を吐いた。

女子更衣室に入らずに済んだ。ただそれだけで、今日一日分の体力を使い切った気がする。


「で、体操服は?」

「今日は転入手続きの都合で見学扱いにしておいた」


「神か?」

「元凶だけど神です」


「自分で言うな」


澪はクリップボードを差し出した。


「これ、見学用の書類。形だけ持っていって。体育の先生には話してある」

「最初からそれを言え」


「言ったら緊張感が出ないでしょ」

「緊張感で寿命が縮んだんだけど」


俺は書類を受け取り、立ち上がった。準備室の外に出る前、ふとドアの向こうが気になった。


「……あの三人、なんであんなタイミングよくいたんだろ」


澪は一瞬だけ目をそらした。


「さあ。青春の勘じゃない?」

「今、何か知ってる顔した」


「してないしてない」

「絶対した」


澪は口笛を吹くふりをした。下手だった。

俺は疑いの目で見たが、これ以上追及しても時間がない。体育の授業は始まってしまう。


校庭に向かう途中、俺はできるだけ落ち着いた顔を作った。見学用の書類を体育教師に渡すと、「転入初日で大変だろうからな」とあっさり受け取られた。

二日目だけど。そこはもう気にしないことにした。


****


体育の授業中、俺は校庭の端で見学していた。女子たちは体操服で走っている。男子たちは別メニューでバスケをしている。

ミナとしては、ただの見学者。朝比奈湊としては、自分のクラスがいつも通り動いているのを、少し離れた場所から見ている変な状態だった。


陽斗がシュートを決めて、友達と笑う。朔が無駄のない動きでパスを回す。

凪はそこまで動いていないのに、なぜか必要な場所にいる。三人とも、普通に男子だった。


俺が女だったら絶対モテるとか言ったやつらが、普通に男子としてそこにいる。なんだよ、それ。

俺だけが、こんな格好をしている。そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ悔しさが戻ってきた。


これは復讐だ。忘れるな。

あいつらを騙して、好きにさせて、最後にざまぁって言うためにやっている。助けられたからといって、流されるな。


授業終わり、女子たちが更衣室に戻っていく。俺は見学者なので、そのまま校舎側に戻ろうとした。

すると、陽斗が汗を拭きながら近づいてきた。


「ミナちゃん、見学でよかったね」

「はい。転入の手続きがありましたので」


「そっか。疲れてない?」

「見学なので」


「でも、顔ちょっと白い」


そういうところを見るな。俺は反射で言い返しそうになって、なんとか飲み込んだ。


「大丈夫です」

「本当に?」


「本当に」


陽斗は少しだけ困った顔をした。


「ならいいけど」


その言い方が優しくて、腹が立った。ミナだから優しいだけだ。

そう思った方が楽だった。


****


教室に戻ると、朔が俺の机にプリントを置いてくれていた。


「見学分の課題」

「ありがとうございます」


「分からなかったら聞いて」

「はい」


「誰にでもは言わないから」


俺は顔を上げた。朔はもう前を向いていた。

何だ、今の。どういう意味だ。


考えるな。考えると負ける。


****


放課後、俺はまた空き教室に逃げ込んだ。ミナ計画ノートを開く。


今日の成果。

更衣室を回避。

体育見学成功。

正体バレなし。


今日の被害。

寿命が縮んだ。


桐生朔が怖いくらいタイミングよく助けた。

瀬名陽斗に手首を掴まれた。すぐ離した。そこは偉い。

神崎凪が怖いくらい呼吸を見ていた。


今日の勝敗。

勝ち。

たぶん勝ち。


俺はペンを止めた。勝ちのはずだ。


女子更衣室に入らずに済んだ。ミナとして破綻しなかった。クラスにも怪しまれていない。

なのに、なぜか勝った気がしない。助けられた。


その言葉が、ノートの空白に浮かんでいる気がした。

俺は少し迷ってから、最後にこう書いた。


更衣室は危険。

次から絶対に対策する。


でも、今日は助かった。


……なんであんなタイミングだったんだろう。


俺はその一文を見つめた。考えすぎだ。

たまたまだ。澪が何かしたのかもしれないし、三人がたまたま近くにいただけかもしれない。


あいつらが俺のために動いたなんて、そんな都合のいいことを考えるな。そもそも、あいつらはミナを女子だと思っている。

だから助けた。普通の女子には、優しいだけ。


俺じゃない。ミナだから。

俺はノートを閉じた。


****


その頃、廊下の向こうでは、三人が自販機の前に立っていた。


「桐生、今日のやり方、ちょっと雑じゃなかった?」


陽斗がスポーツドリンクを買いながら言った。朔は腕を組んだまま、少しだけ眉を寄せた。


「女子更衣室に連れていかれるよりマシだろ」

「それはそうだけど。ミナちゃん、かなり焦ってた」


「ミナちゃんって呼ぶな」

「え、なんで桐生が嫌そうなの」


朔は答えなかった。凪が、静かに紙パックの飲み物を持っていた。


「朝比奈先生、あまり計画してない」

「それは分かる」


朔が深いため息をついた。


「本人も無茶しすぎだ。バレたらどうするつもりなんだよ」

「でも、湊らしいよね」


陽斗は少し笑った。


「傷ついたのに、泣き寝入りじゃなくて、なんか変な方向に全力で走るところ」


朔は黙った。凪も黙った。

しばらくして、凪が言った。


「守ればいい」


短い言葉だった。でも、三人の間ではそれで通じたらしい。

目を伏せ、陽斗は少しだけ真面目な顔になった。


「そうだね。湊が自分で言うまで」

「それまで、余計なことは言わない」


朔がそう言うと、陽斗が笑った。


「桐生が一番言いそうだけど」

「言わねぇよ」


「今、言いそうな顔してた」

「うるさい」


凪が、ふと教室の方を見た。


「でも、今日の顔」

「ん?」


「助かって、少し泣きそうだった」


陽斗が黙った。朔も黙った。

それぞれが、それぞれの形で、朝比奈湊のことを思い浮かべた。もちろん、俺はそんな会話を知らない。


****


俺は空き教室でミナ計画ノートを鞄にしまいながら、本気で思っていた。今日もバレなかった。


復讐は順調。更衣室は戦場だったが、生き延びた。


だから、俺の勝ち。


……たぶん。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ