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古代文明、全部“暇つぶし”でした。  作者: あめたす


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第10話:巨石の整列

第10話:巨石の整列


 イギリスは曇っていた。

 僕らのテンションも、見事なまでに曇っていた。


「寒い」


 レンタカーの運転席で、僕はハンドルを握り直しながら溢した。


「寒いわね」


 後部座席から、ノートパソコンを叩く音と一緒に同意が返ってくる。朱理の声だ。


「寒いですね」


 助手席の江花が、レンズの薄いカラーグラスを指先で少しだけ下げて、フロントガラスの向こうを睨みつけながら言った。

 三人で同じ感想を共有したあと、車内には少しだけ長い沈黙が流れた。

 ロンドンのヒースロー空港に降り立った瞬間、僕の耳を塞いだのは、ペルーの乾いた砂の音ではなく、湿った雨の匂いと、どこか不機嫌な異国の喧騒だった。

 ナスカから、イギリスのソールズベリー平原へ。

 江花が手配した乗り継ぎ便は、僕らの体感時間を力任せに引きちぎるようにして、世界の裏側へと僕らを運んだのだ。時差と気候の急変に、僕らの肉体は確実に悲鳴を上げていた。


 「で?」


 江花が、耳元のワイヤレスイヤホンをトントンと叩きながら、後部座席を振り返る。


「で?」


 朱理が、画面に齧り付いたまま、低く短い声を返す。


「で?」


 僕も、慣れない右ハンドルの感触を確かめながら、二人の真似をして言ってみた。


「……河田君、あなた何なの。ただの運転手でしょう」


 バックミラー越しに、朱理の鋭い視線とぶつかる。彼女は画面から目を離さずに、威嚇するようにタイピングの速度を上げた。


「羽院先生、一応確認ね」


 江花がタブレットの画面をスワイプしながら、ビジネステイストの声を割り込ませる。


「今回のアポは、ソールズベリーの現地調査チームと、それから……例の『新説』を提唱してるブリストル大の教授への直撃取材。これでルート組んでるから」


「結構よ。江花さん、そっちのレコーダーの容量、ちゃんと空けておきなさい。ストーンヘンジが単なる『日時計』だの『治癒の聖地』だのという、手垢のついた結論で終わると思ったら大間違いだから」


「お、やる気満々。さすが現役准教授。……でも先生、ナスカで河田君に思想を侵食されたのが、相当悔しかったみたいね」


 朱理の気配が、後部座席で目に見えて硬くなる。


「ナスカであなたが言ったこと、私はまだ一言も納得していないわ。千年の時差があるイタズラ? 冗談じゃない。ストーンヘンジを見て同じことが言えるかしら。あそこにあるのは、最大で50トンを超えるサルセン石よ。それを30キロも離れた場所から運んできたの。遊びや暇つぶしで、人間がそんな命懸けの重量作業をするわけがないわ」


 ワイパーが、フロントガラスの雨粒を規則正しく弾く。

 その鈍い音の隙間に、僕は自分の記憶の引き出しから、一番泥臭い実感を引っ張り出して滑り込ませた。


「……たぶんですけど。重いものを運ぶのって、ちょっと楽しいんですよね」


「は?」


 朱理のタイピングの手が、ぴたりと止まった。


「……どうでもいい話なんですけど。僕、学生の頃、引っ越しのアルバイトをやってたんです。グランドピアノを階段で三階まで上げる、みたいな、文字通り命懸けのやつ。……でも、やってるとき、みんな何故か笑ってるんですよ。アドレナリンが出ちゃって。『これ、マジで人間が運ぶ量じゃねえな!』って言いながら、完全にハイになってる。……ストーンヘンジを運んでた人たちも、たぶん、それと同じノリだったんじゃないですかね」


「……あなたね」


 朱理の、言葉に詰まる気配が伝わってくる。論理的に反論したいのに、僕の出すくだらない「実感」に、彼女の精緻な理論がわずかに噛み合わないのだ。ナスカを経て、彼女は僕の「的外れなはずの言葉」を、無視できなくなっている。


「……それとこれとは、スケールが違うわ。あそこは、夏至の日の出のラインが正確に計算されて配置されているの。天文学的な知の結晶なのよ。人間が、ただハイになって石を並べただけなわけがないでしょ」


「あー、はいはい。また始まった」


 江花が、万年筆のキャップをガリガリと噛みながら、冷ややかに会話を裁断する。


「羽院先生、その『知の結晶』っていう飾り付け、そろそろ剥がしたら? あなたが本当に守りたいのは、古代人の知性じゃなくて、『意味がなければ、あんな不条理な労働に耐えられるわけがない』っていう、現代の社畜的な労働観でしょ? 意味という名の給与がなければ、人間は動かないっていう、切ない思い込み」


「江花さん、言葉を選んで」


「選んでこれ。要するに、ストーンヘンジって、古代の『限界集落の公共事業』みたいなもんでしょ。やる意味はないけど、予算……じゃなくて、余ったエネルギーがあるから、みんなで集まってデカい石でも引っ張ろうや、っていう。……どう、羽院先生。自分の人生の半分を捧げた研究対象が、ただの『マッチョの力比べ会場』だったかもしれない気分は?」


「……違う」


 朱理の声が、今までになく低かった。

 車内が、一瞬の沈黙に包まれる。雨の音だけが、劇場のノイズのように響いていた。


「……違わないわ。……でも、違ってほしいのよ」


 朱理は、窓の外の、灰色に霞むイギリスの田園風景を見つめていた。その横顔は、いつもよりずっと脆そうに見えた。


「私が考古学を始めたのは、世界に『意味』が満ちていると信じたかったから。ただ生まれて、ただ食べて、ただ死んでいく日々の繰り返しの中に、何か、消えない足跡を残した人間がいたって、そう思いたかったからよ。……もし、あの巨石の列が、本当にただの『暇つぶし』だったとしたら。……私たちは、何のために今、こんなに苦しんで生きているのよ」


 それは、論文には絶対に書かれない、一人の学者の、あるいは一人の人間の、剥き出しの本音だった。

 僕はハンドルを握る手に、少しだけ力を込めた。何を言えばいいのかは分からなかった。ただ、フロントガラスの先、雲の切れ間から冷たい夕光が差し込み始め、地平線の向こうに、緑の草原を切り裂くようにして、あの巨大な灰色の影が立ち上がるのが見えた。

 ストーンヘンジ。

 圧倒的な質量。数千年の沈黙。

 車を駐車場に止め、エンジンを切る。僕らは無言で車を降り、湿った芝生を踏みしめて、巨石の列へと近づいていった。

 その瞬間だった。

 耳の奥で、冷たい水が弾けるような音がした。

 いつものノイズ。いつもの雑音。だけど、今回は妙に近かった。音が聞こえるというよりは、冷たい泥が直接、僕の脳裏に塗りつけられるような、そんな生々しい感覚。


『おい』

『もう無理だ』

『あとちょっとだろ』

『誰が決めたんだよ、こんなとこまで運ぶって』

『お前だよ』

『俺か?』

『お前だ。お前が昨日、あそこまで運べたらあいつの家の豚をもらうって言ったんだろ』

『じゃあ仕方ねぇな』

『仕方ねぇな』


 笑い声が聞こえる。

 けれど、その笑い声は、ナスカのときのそれとは違っていた。

 声が激しく震えている。息が切れている。肺が破れそうなほどの、重い呼吸の音。風が吹き荒れ、濡れた土の匂いが立ち込め、誰かが派手に転んで、泥を撥ね上げる音が鼓膜を揺らす。


『次はあの丘までな』

『競争な』

『負けたら今日の飯、全部俺に寄こせよ』

『それは嫌だ。絶対に嫌だ』

『じゃあ引け。もっと紐を引け』


 僕は、無意識のうちに目を閉じていた。


「……河田君?」


 朱理の声がした。いつの間にか、彼女の口調からトゲが消えている。


「どうしたの?」


 僕は少し考えた。言うべきか、言わざるべきか。たぶん、言っても怒られる。


「どうでもいい話なんですけど」


「前置きが不穏なのよ、いつも」


 朱理はそう言いながらも、僕の次の言葉を待つために、わずかに身を乗り出した。


「たぶんこれ。力比べです」


 沈黙。風。さらに、長い沈黙。


「は?」


 朱理が言った。その声には、怒りよりも困惑が勝っていた。


「力比べです。人と、人の。あるいは、あっちの集落と、こっちの集落の」


「雑すぎる。そんな単純な理由で、何キロも離れた場所から石を運ぶわけがないでしょ」


「でも、楽しそうでした。最初は、本当にそれだけだった気がします。誰が一番デカい石を、遠くまで運べるかっていう、ただの意地の張り合いというか、お祭りみたいなノリで」


「そんなわけない」


 朱理が首を振る。けれど、その否定にはいつもの力がなかった。彼女自身の脳裏にも、車内で吐露した「無意味さへの恐怖」が、じわじわと広がっているのが分かった。

「そうですよね。そんなわけないですよね」

 僕は、あっさりと自分の意見を引き下げた。


「でも」


 僕は続きを一度、飲み込んだ。喉の奥に残った感覚が、妙に重かった。

 江花が、いつの間にか僕のすぐ横に立っていた。ICレコーダーのスイッチを静かにスライドさせ、僕に向ける。


「続けて、河田君」


「……別に、大したことじゃないです」


「続けて。意味を欲しがる人間たちが、ここでどんな顔をするのか……しっかり録音させてもらうわ」


 江花の声には、いつもの皮肉がない。代わりに、他人の秘密を剥ぎ取ろうとするような、静かな執着があった。

 僕は、小さくため息をついて、観念した。


「たぶん、最初は遊びだったんです。お祭りです。でも、途中から、誰もやめられなくなったんだと思います」


 朱理が、少しだけ眉を動かした。


「やめられない?」


「はい」


「どういう意味? 宗教的な義務とか、王の命令とか、そういうこと?」


「分からないです。歴史的な事実は何も分からないので」


 僕は正直に言った。ただ、また耳の奥で、かすかに声が聞こえた。今度は、笑い声ではなかった。激しい息切れ。擦り切れる皮膚の音。肉体が限界を迎えているのに、それでも紐を引くことをやめない、狂気に似た執念。


『あと少し』

『あと少しで、あいつらより遠くへ行ける』

『誰よりも遠くへ』

『誰よりも、大きく』


 そこで、ノイズは完全に途切れた。世界が、急に静かになった。


「最初は、ただの遊びだったのに、石が大きくなりすぎて、距離が遠くなりすぎたせいで……途中でやめたら、それまでの苦労が全部『本当に無駄』になっちゃうから。意味を作るために、意地を通すために、もっと大きな石を運ぶしかなくなったんじゃないでしょうか。自分たちが間違ってないって、証明するために」


 朱理は、何も言わなかった。

 彼女の手は、ジャケットの裾を強く握りしめていた。

 積み上げてきた研究。費やしてきた時間。「意味がある」と信じて掘り続けてきた彼女の人生が、僕の言った「後戻りできなくなっただけの意地」という言葉に、奇妙に反響してしまったのかもしれなかった。


「……河田君」


 朱理が、ひどく静かな声で言った。


「あなた今、何を見たの」


 僕は、答えられなかった。

 本当に分からなかったからだ。ただ、あの場所に漂っていた「引けなくなった人間の匂い」だけが、僕の鼻腔に残っている。

 ナスカでは、みんな笑っていた。

 モアイでも、ふざけ合っていた。

 ピラミッドだって、文化祭のような熱気があった。

 でも、ストーンヘンジは、少し違っていた。遊びだったはずのものが、いつの間にか、人間を縛る「呪い」に変わっていくような、そんな冷たい手触り。


「……朱理さん」


「なに」


「もしですよ。意味があったんじゃなくて。ただ、途中で後戻りできなくなっただけだったら、どうします?」


 朱理は、答えなかった。答えられなかった。

 風が吹く。遠くで、名前も知らない鳥が、鋭く短い声で鳴いた。

 石は相変わらず、何も言わずに黙っていた。

 けれど、その沈黙は、さっきまでよりも少しだけ重く、そして不気味に見えた。

 まるで、意味を失ったあとも、ただそこに立ち続けるための冷酷な方法を。あの石たちだけが、最初から知っているみたいだった。

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