試練
森の中を、蓮は走り続けた。
どれくらい走っただろうか。足が悲鳴を上げ、息も絶え絶えになった頃、蓮は倒れ込んだ。
木の根元に背中を預け、荒い呼吸を整える。
振り返ると、遠くに館の明かりが見える。火災は既に鎮火されたようだった。やはり、あの程度では館を破壊することはできない。
「くそ……」
蓮は拳で地面を叩いた。
エリカは死んだ。自分を逃がすために。
それなのに、蓮は何も成し遂げられていない。核は無事で、ヴェルナー家も健在だ。
無力感が、蓮を押し潰す。
その時、近くで枝を踏む音がした。
蓮は咄嗟にナイフを構える。
「誰だ!」
霧の中から、人影が現れた。
それは、若い女性だった。二十代半ばくらいだろうか。汚れたジーンズにパーカー、そして肩にはショットガンを担いでいた。
「...味方だ」
日本語——いや、蓮の耳には日本語に聞こえた。異世界の言語が日本語に自動翻訳されているのだろうか。
「味方……?」
「ああ。あんたと同じ。異世界転移者だ」
女性は蓮の近くに座った。
「名前は、工藤美咲。三年前にこの世界に飛ばされた」
「三年……ずっと、この森に?」
「まあな。ヴェルナー館から逃げて、この森で生き延びてきた」
美咲は、腰のベルトから水筒を取り出し、蓮に差し出した。
「飲め。疲れてるだろ」
蓮は水筒を受け取り、水を飲んだ。冷たい水が、渇いた喉を潤す。
「なぜ、俺を助ける?」
「さっき、館が燃えてるのを見た。あんたがやったんだろ?」
「いや、俺じゃない。エリカっていう……メイドの少女が」
「エリカか。知ってる。いい子だったな」
美咲は空を見上げた。
「過去形ってことは、死んだのか」
「ああ……」
「そうか」
美咲は短く答え、立ち上がった。
「ついてこい。俺様のアジトに案内する。そこで話そう」
───
美咲のアジトは、森の奥深く、岩壁をくり抜いた洞窟だった。
入り口は巧妙に隠されていて、知らなければ絶対に見つけられないだろう。
中は意外と広く、生活の痕跡があった。寝袋、食料の缶詰、武器——ナイフや弓矢、そして壁には地図が貼られていた。
「ここで、三年?」
「ああ。最初は館の近くに作った小屋に住んでたんだが、見つかってな。それから転々として、ここに落ち着いた」
美咲は缶詰を開け、蓮に差し出す。
「食え。この世界にも、食える植物や動物はいる。慣れれば、なんとか生きていける」
蓮は缶詰を受け取った。中身は、魚のようなものの燻製だった。
「あんた、核を破壊しようとしたんだろ?」
美咲が単刀直入に聞いてきた。
「な、なんで?まぁ、いいか.....失敗した。どうやっても壊せない」
「そりゃそうだ。普通の方法じゃ無理だ」
「普通じゃない方法があるのか?」
美咲は頷いた。
「ある。俺も三年間、それを探してた」
美咲は壁の地図を指差す。
「この世界には、『対極の門』っていう場所がある。核と対になる、もう一つの力の源だ」
「対極の門?」
「核が死と支配の力なら、対極の門は生と解放の力だ。その力を使えば、核を破壊できる」
蓮は身を乗り出した。
「それは、どこにある?」
「ここだ」
美咲が地図の一点を示す。森の遥か北、山脈の向こう側だった。
「ただし、問題がある」
「問題?」
「対極の門に辿り着くには、三つの試練を越えなきゃいけない。それぞれが、命がけだ」
美咲は、地図上の三つの印を順番に指していく。
「一つ目は『嘆きの沼』。近づく者の精神を蝕む、呪われた湿地帯だ。二つ目は『狂気の迷宮』。入った者は、二度と出られないと言われている。そして三つ目は『絶望の峠』。この世界で最も危険な場所だ」
「でも、越えられないわけじゃない?」
「ああ。俺も一度、試みた」
美咲は、左腕を見せた。肘から先が、義手になっていた。
「嘆きの沼で、化け物に襲われた。なんとか逃げたが、腕は失った。それ以来、一人で行く勇気が出ない」
蓮は唾を飲み込んだ。
「でも、他に方法はないんだな?」
「ない。核を破壊するには、対極の門の力しかない」
美咲は蓮を真っ直ぐ見つめた。
「だから、提案がある。一緒に行かないか? 二人なら、可能性がある」
「……わかった」
蓮は即答した。
「俺も、もう後には引けない。エリカの死を、無駄にしたくない」
「決まりだな」
美咲は手を差し出した。蓮はその手を握る。
「明日の朝、出発する。それまで休め」
───
その夜、蓮は眠れなかった。
エリカの最期の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
洞窟の外に出ると、美咲が岩の上に座って空を見上げていた。
「眠れないのか?」
「ああ……美咲さんは?」
「俺も眠れない。いつものことだ」
美咲は、蓮の隣に座るよう促した。
空には、二つの月が浮かんでいた。地球とは違う、異世界の夜空だ。
「なあ、聞いていいか?」
蓮が口を開く。
「美咲さんは、なぜ三年も諦めずに? 元の世界に帰ることを」
美咲は少し黙ってから、答えた。
「帰りたい人がいるんだ。日本に」
「家族?」
「恋人だ。プロポーズする予定だった。指輪も買って、場所も予約して。でも、その前日に転移させられた」
美咲の声が、わずかに震える。
「もう三年も経った。きっと彼女は、俺のことを諦めてる。他の男と幸せになってるかもしれない。でも——」
美咲は拳を握った。
「それでも、帰りたい。ちゃんと説明したい。自分の意思で消えたんじゃないって」
蓮は、美咲の横顔を見た。
強がっているが、その目には深い孤独が宿っていた。
「俺も、帰りたい人がいる」
蓮が言う。
「友達とか、家族とか。大切な人たちを、守りたい。ヴェルナー家が元の世界に来る前に」
「ああ。だから、必ず成功させよう」
二人は拳を合わせた。
翌朝、準備を整えて出発する。
美咲は弓矢とショットガン、蓮はナイフと、爆弾の材料で作った火炎瓶を持った。
地図を頼りに、北へ向かう。
───
三日間、森を進んだ。
その間、何度か異形の生物に襲われた。この世界には、地球にはいない危険な生物が多数生息している。
美咲の戦闘技術のおかげで、なんとか切り抜けることができた。
そして四日目、目の前に広大な沼地が現れた。
「嘆きの沼だ」
美咲が呟く。
沼地からは、霧が立ち上っていた。そして、霧の中から微かに声が聞こえる。
「助けて……」
「誰か……誰かいないの……」
「寒い……寂しい……」
無数の声が、重なり合っている。
「あの声は?」
「この沼で死んだ者たちの魂だ。沼に囚われて、永遠に彷徨っている」
美咲は耳を塞ぐ仕草をする。
「あの声を聞き続けると、精神がやられる。自分も沼に入りたくなってしまうんだ」
「どうやって渡る?」
「沼の中には、古い石の道がある。それを辿れば、向こう岸に行ける。ただし——」
美咲が言いかけた時、沼の水面が波打った。
何かが、水中から現れようとしている。
「来るぞ!」
巨大な触手が、水面から飛び出した。
いや、触手ではない。人間の腕だ。だが、異常に長く、太く、そして腐敗している。
その腕が、蓮たちに襲いかかる。
美咲がショットガンを撃つ。轟音とともに、腕が吹き飛ぶ。
だが、すぐに別の腕が現れる。二本、三本、五本——無数の腕が、水中から伸びてくる。
「走れ! 石の道を!」
美咲が叫ぶ。
二人は沼の中の石道に飛び乗り、全力で走った。
背後から、腕が追ってくる。石を掴み、引き倒そうとする。
蓮は火炎瓶を投げた。炎が腕を焼き、一瞬怯む。
その隙に、さらに前進する。
だが、石道は途中で途切れていた。
「ジャンプするぞ!」
美咲が先に跳ぶ。蓮も後に続く。
空中で、触手が蓮の足を掴んだ。
「くそ!」
蓮はナイフで触手を切り裂く。黒い血が飛び散り、触手が緩む。
なんとか向こう岸に着地した。
二人とも、泥だらけになりながら、沼から離れた。
「はあ……はあ……」
息を整える。
「一つ目、クリアだ」
美咲が笑う。
「次は、迷宮だ」
───
沼を越えて半日、岩山の麓に巨大な石造りの入り口があった。
「狂気の迷宮」
美咲が呟く。
入り口の上には、古代文字で何か刻まれていた。
「なんて書いてある?」
「『入りし者、我を失う』だ」
不吉な言葉だった。
「迷宮の中では、幻覚を見る。自分が誰なのか、何のためにここにいるのか、忘れてしまうんだ」
「どうすれば、忘れずに済む?」
美咲は、ロープを取り出した。
「これで、お互いを繋ぐ。そして、常に声を掛け合う。自分の名前、目的、大切なもの——それを忘れなければ、迷宮を抜けられる」
二人はロープで腰を繋ぎ、迷宮に入った。
中は真っ暗だった。美咲が懐中電灯を点ける。
石の壁が続く、単調な通路。
だが、歩いているうちに、違和感を覚え始めた。
「なあ……俺たち、なんでここにいるんだっけ?」
蓮が呟く。
「対極の門だ。核を破壊するために」
美咲が答える。
「ああ、そうだった……」
だが、すぐにまた忘れそうになる。
迷宮の力が、記憶を奪っていく。
「名前は?」
「桐生蓮」
「目的は?」
「ヴェルナー館を……破壊する」
「大切なものは?」
「友達……家族……エリカ……」
蓮は必死に思い出す。
だが、視界が歪み始めた。
壁が動いているように見える。床が波打つ。
そして、幻覚が現れた。
目の前に、田村が立っていた。
「桐生……どこ行ってたんだよ」
「田村……?」
「心配したぞ。急にいなくなるから」
田村が笑顔で近づいてくる。
蓮は手を伸ばそうとして——美咲に引き止められた。
「幻覚だ! 見るな!」
美咲の声で、我に返る。
田村の姿が消え、そこにあったのは壁だけだった。
「危なかった……」
今度は美咲が立ち止まった。
「彼女……」
美咲の前に、若い女性の幻影が現れていた。
「美咲……やっと会えた」
「待ってて……すぐに帰るから」
美咲が幻影に向かって歩き出す。
「美咲さん!」
蓮が引っ張る。
「違う! 幻覚だ!」
「でも……」
「思い出せ! あなたが帰りたい理由を!」
蓮の言葉で、美咲が正気を取り戻す。
幻影が消える。
「ありがとう……」
二人は支え合いながら、進み続けた。
幻覚は何度も現れた。
家族、友人、恋人——大切な人たちの姿をした罠。
だが、お互いに声を掛け合い、引き戻し合いながら、進んでいく。
そして、ついに——迷宮の出口が見えた。
光が差し込んでいる。
「もう少しだ!」
二人は最後の力を振り絞り、走った。
出口をくぐり抜け、外に出る。
眩しい日差しに目を細める。
「やった……抜けた……」
美咲が地面に座り込む。
蓮も、その隣に倒れ込んだ。
「二つ、クリアだ」
「あと一つ……」
前方に、巨大な山が聳えていた。
絶望の峠——最後の試練だ。
だが、その峠を越えた先に、対極の門がある。
「休んだら、行くぞ」
「ああ」
蓮は立ち上がり、山を見上げた。
エリカ、地下の囚人たち、そして数百の犠牲者たち。
彼らの無念を晴らすために。
蓮は、最後の試練に挑む覚悟を決めた。




