異界転移
コンビニの自動ドアをくぐり抜けた瞬間、目の前の景色が激しく歪んだ。
時刻は深夜二時。
いつもの帰り道。
街灯の明かりが規則正しく等間隔に並ぶ割れたアスファルトの道。
そこに突如として亀裂が走り、視界が万華鏡の中のように砕け散った。桐生蓮の意識は、その破片の中へと呑み込まれていった。
目が覚めると、床に倒れていた。
冷たく湿った感触が頬に張り付いている。腐った木材の臭い。カビと、何か甘ったるい腐敗臭が鼻腔を突く。蓮はゆっくりと顔を上げた。
「……ここは?」
薄暗い廊下だった。天井は高く、壁には剥がれかけた壁紙が垂れ下がっている。足元の床板は所々が腐食し、黒ずんだ染みが無数に広がっていた。遠くから、どこかの部屋でオルゴールが鳴っているような、金属的な音色が微かに聞こえる。
蓮は立ち上がろうとして、自分の服装に気づいた。いつものパーカーにジーンズ。コンビニで買った弁当が入ったビニール袋は、まだ手に握られている。現実感があるのに、何もかもが現実離れしていた。
「夢……じゃないよな」
呟きながら頬を叩いた。痛い。
そして、このつんざく臭いと悪寒は夢のそれではない。
廊下の先に、一縷の光が漏れている。他に選択肢もなく、蓮はその光に向かって吸い寄せられる蛾のように歩いた。
床板が軋む音は、異様に大きく響いた。
恐れから壁に掛けられた古い肖像画が、まるで生きているかのように蓮の動きを追ってくるような錯覚を覚えた。
光は、廊下の突き当たりにある重厚な扉の隙間から漏れていた。
早鐘を打つ心臓を抑え、蓮はそっとノックした。
「……すみません、誰かいますか?」
返事はなかった。
それでも、扉の向こう側からは複数の話し声が漏れ聞こえてくる。何かが、確かにそこに存在する。
蓮は一瞬だけ息を整え、腹を括り、ドアノブに手を伸ばした。
力を込めると、軋んだ音を立てて扉が開く。
――その先に待つ後悔を、まだ知らずに
────
そこは、思わず息をのむほど広大な食堂だった。
天井から吊るされたシャンデリアが、無数のろうそくの炎を揺らめかせ、淡い光を落としている。
長く伸びるテーブルには真白なクロスが張られ、銀の食器が寸分の狂いもなく並んでいた。まるで中世の貴族が宴を開く場のようだ。
そして、その卓を囲む四つの人影。
全員が、音もなく蓮のほうを見つめていた。
「……あ、あの」
思わず、声が震えた。
四人は微動だにせず、ただ蓮を見つめている。
最も奥の席に座る老人が、ゆっくりと立ち上がった。黒いタキシードに身を包み、白い口髭を蓄えた、絵に描いたような貴族然とした男だった。
「ようこそ、我が館へ」
低く、しかし明瞭な声。
老人は両手を広げ、歓迎の仕草をした。
「お待ちしておりました、客人殿。長旅でお疲れでしょう。さあ、どうぞこちらへ」
「え……あの、ここは? 俺、どうして」
「まあまあ、質問は後でゆっくりと。まずは食事を。我がヴェルナー家は、客人を飢えさせるような無礼は致しません」
老人——ヴェルナー家の当主と思しき男は、テーブルの空席を指し示した。
蓮は混乱していたが、状況を把握するためにもここにいる人間と対話する必要があると判断した。
恐る恐る、指定された席に着いた。
その瞬間、他の三人が一斉に動いた。
テーブルの右側に座る若い女性が、優雅な仕草で立ち上がる。深紅のドレスを纏い、長い黒髪を垂らした美女だった。だが、その目は虚ろで、笑顔が妙に硬い。
「お兄様、新しいお客様ですわ。素敵」
左側には、同じく黒いスーツを着た青年が座っていた。痩せ細った体に、病的なまでに青白い肌。彼は蓮を見て、ニヤリと笑った。
「久々だね、客人は。何年ぶりかな、母さん?」
青年の隣、当主の右手に座る中年の女性が、ゆっくりと頷いた。彼女もまた、時代がかった黒いドレスを着ている。しかしそのドレスには、所々に薄汚い茶色い染みがついていた。
「三年ぶりですね。前の方は……ああ、そういえば地下におられますわ」
「地下?」
蓮が反射的に聞き返すと、女性はふわりと微笑んだ。
「ええ。大切に、大切に保管しておりますの」
何かがおかしい。違和感が蓮の背筋を走り抜けた。
「あの、すみません。俺、ここがどこなのか全然わからなくて。気がついたらここにいて——」
「異界転移、というやつですよ」
当主が、まるで今朝の天気の話でもするかのように言った。
「あなたは選ばれたのです。この世界へ、我が館へ。神々の導きにより、客人として召喚されたのです」
「異界に……」
蓮は言葉を失った。異世界転移。小説やアニメでよく見る設定だ。まさか、それが本当に起こるなんて。それもこんな形で。
「混乱されるのも無理はありません。ですが、ご安心を。我々ヴェルナー家は、客人を手厚くもてなす義務を負っております。どうぞ、ゆっくりとお寛ぎください」
当主がパンパンと手を叩くと、部屋の奥の扉が開いた。
そこから現れたのは、メイド服を着た少女だった。だが、その動きはぎこちなく、まるで操り人形のようだった。彼女は銀の蓋で覆われた皿を運んでくる。
蓋が、蓮の前で開けられた。
────
蓮は息を呑んだ。
皿の上には、”何か”の肉料理が盛られていた。それは、およそ人の食べ物とは思えない、汚物に近しい物。
肉は明らかに腐敗しており、緑色のカビが表面を覆い、ウジ虫のようなものが蠢いている。家畜ですら食べることを拒むであろう代物。
悪臭が鼻を突き、蓮は思わず口を手で覆った。
「どうぞ、召し上がれ」
当主が促す。他の三人も、同じように汚物に近しい料理を前にして、優雅にナイフとフォークを手に取っていた。
「あ、あの……これ」
「我が家自慢の料理です。客人には、最上級のものをお出ししております」
青年が、腐肉を口に運ぶ。咀嚼する音が、やけに大きく聞こえた。女性も、娘も、当主も、皆が腐った料理を食べている。そしてその表情は、至福に満ちていた。
「お口に合いませんか?」
娘が、首を傾げて蓮を見る。その目には、何の感情も浮かんでいない。
「い、いえ……あの、ちょっと体調が」
「そうですか。では、お部屋をご用意いたしましょう」
当主が再び手を叩く。メイドの少女が、無表情のまま蓮の方へと近づいてきた。
「彼女がお部屋までご案内します。どうぞごゆっくり」
蓮は立ち上がり、メイドに促されるまま食堂を後にした。扉が閉まる直前、振り返ると、四人全員がこちらを見ていた。そしてその顔には、同じ歪んだ笑みが浮かんでいた。
───
部屋に案内されたが、蓮は眠れなかった。
ベッドは一応清潔だったが、部屋全体が湿気ていて、壁には黒いカビが生えていた。窓から外を見ると、深い霧に包まれた森が広がっていた。月明かりさえ遮られ、外は完全な闇だった。
「異世界転移……本当に?」
蓮は手に持っていたコンビニの袋を見た。中身の弁当は、まだ温かかった。つい数分前まで、確かに現実世界にいたのだ。
部屋の中を調べてみる。古い木製の家具、埃まみれの本棚、そして壁に掛けられた一枚の絵。それは、この館の全景を描いたものだった。巨大な洋館が、森の中に佇んでいる。
その絵の隅に、小さな文字が書かれていた。
『ヴェルナー館——客人の楽園、そして終焉の地』
楽園……終焉?
嫌な予感がする。蓮は部屋の扉に近づき、そっと開けてみた。廊下には誰もいない。遠くから、また金属音が聞こえてくる。
探索するなら、今しかない。
蓮は意を決して、部屋を出た。廊下は暗く、壁に取り付けられたろうそくだけが頼りだった。足音を殺しながら、館の中を歩く。
一つ目の部屋を開けると、そこは書斎だった。古い本が山積みになっている。蓮は手近な本を手に取った。
『客人記録——1867年より』
ページをめくると、そこには日記のような記述が並んでいた。
『第一客人、ジョン・スミス。召喚成功。適合率78%。二週間後、地下へ移送』
『第二客人、田中太郎。召喚成功。適合率82%。儀式に最適と判断。一ヶ月後●●』
『第三客人——』
次々と名前が並んでいる。そして全ての記録が、「移送」や「儀式完了」という言葉で終わっていた。
蓮の手が震える。
客人は、歓迎されているのではない。何かに利用されているのだ。
その時、背後で物音がした。
振り返ると、メイドの少女が立っていた。無表情のまま、こちらを見つめている。
「……お客様、夜のお散歩ですか?」
「あ、ああ……ちょっと」
「あまり、深く探られない方がよろしいかと」
少女の声から、人間らしさをまるで感じられなかった。
「この館には、知らない方が良いこともございます」
「……君は、何者なんだ?」
「私は、ここの使用人です。かつては、お客様と同じように、客人でした」
蓮は息を呑んだ。
「客人……だった?」
「ええ。でも、選ばれなかった。だから、こうして奉仕することが許されたのです」
少女は、そう言って微笑んだ。だがその笑顔には、どこか諦めのようなものが滲んでいた。
「選ばれる……って、何に?」
「それは——」
少女が答えようとした瞬間、遠くから鐘の音が響いた。
少女の表情が変わる。
「お戻りください、お客様。朝の儀式の時間です。当主様がお呼びです」
「儀式?」
「ええ。あなた様の、適合率を測る儀式です」
───
蓮は、再び食堂へと連れてこられた。
今度は、テーブルの中央に奇妙な装置が置かれていた。水晶のような球体が、金属の台座に固定されている。そしてヴェルナー家の四人が、厳粛な表情で立っていた。
「おはようございます、客人殿」
当主が、深々と頭を下げる。
「早速ですが、適合率測定の儀式を行います。どうぞ、こちらへ」
「適合率って……何の?」
「この世界における、あなたの『価値』を測るのです」
当主は、水晶球を指差した。
「この世界では、転移者には特別な力が宿ります。その力の強さを測定し、あなたに最も相応しい役割を与えるのです」
「役割?」
「ええ。強い力をお持ちであれば、我々の儀式の中核を担っていただきます。そうでなければ……」
当主は、メイドの少女を一瞥した。
「別の形で、館にご奉仕いただくことになります」
蓮は背筋が凍る思いだった。
どちらにしても、自由はないということか。
「さあ、手を」
当主が水晶球の上に手を翳すよう促す。蓮は一瞬逡巡したが、拒否すればどうなるか分からない。恐る恐る、手を伸ばした。
水晶球に触れた瞬間、激しい光が放たれた。
蓮の体に、何か熱いものが流れ込んでくる。それは痛みではなく、むしろ心地よい温かさだった。だが同時に、何かが自分の中から引き出されていくような感覚もあった。
光が収まる。
四人が、息を呑んでいた。
「これは……」
当主が、驚愕の表情で水晶球を見つめている。球体の中で、複雑な紋様が浮かび上がっていた。
「適合率……98%」
青年が、震える声で呟いた。
「百年に一度の、大当たりだ。」
娘が、蓮を見て恍惚とした表情を浮かべる。
「素晴らしい……これほどの客人は、歴史上でも数えるほど」
中年女性が、当主に囁く。
「すぐに準備を。儀式は、満月の夜に」
当主は頷き、蓮に向き直った。その顔には、歪んだ喜びが浮かんでいた。
「おめでとうございます、客人殿。あなたは選ばれました」
「選ばれた……って」
「三日後の満月の夜、あなたには我々の『核』となっていただきます。永遠に、この館の一部として」
蓮の脳裏に、本で読んだ言葉が蘇る。
『儀式完了』
つまり——殺される、ということか。
「そ、そんな……」
「ご安心ください。痛みはありません。あなたの魂は、この館と一体化し、永遠の安らぎを得るのです」
当主がそう言って笑う。他の三人も、同じように笑っていた。
蓮は後ずさった。
逃げなければ。三日後までに、この悍ましい館から——。
「さあ、お部屋へお戻りください。それまでは、どうぞごゆっくり。我々も、準備がございますので」
メイド少女が再び現れ、蓮の腕を掴む。その力は、見た目以上に強かった。
部屋へと連れ戻される途中、少女が小声で囁いた。
「逃げてください」
「え?」
「この館には、秘密の通路があります。地下に続く道が。そこから、森へ……」
「君は——」
「私はもう、手遅れです。でもあなたは、まだ」
部屋の扉が開く。中へ押し込められ、鍵がかけられた。
蓮は窓に駆け寄る。外は相変わらず深い霧だが、遠くに森の木々が見える。
三日。
三日の間に、脱出方法を見つけなければ。
蓮は拳を握りしめた。絶対に、生きて帰る。元の世界へ——。
だが、部屋の外から聞こえてくる足音と、不気味な笑い声が、蓮の決意を嘲笑うかのように響き続けていた。




