# 第四話 鍛冶屋の倅
「行くか」
湊が立ち上がった。
虎鉄も立ち上がろうとした。右手で土を押した。腰が浮いた。膝が震えたが、立てた。左手の鉄が思いのほか、重くなかった。
トミ彦は虎鉄の脇に浮いたままだった。立ち上がる、という動作は、する必要がないらしかった。
——
「神社まで二日ある」
湊は言った。
「途中で、一泊する。今日はそこまでだ」
「……ああ」
「歩けるか」
「歩ける」
虎鉄は答えた。
実際、歩けた。二月、寝ていた身体にしては、足は動いた。鉄になっていた時間が、身体を眠らせていたのか、傷ませていたのか、虎鉄には分からなかった。だが立てた。歩けた。
——
「その前に寄りたい所がある」
虎鉄は言った。
湊は頷いた。理由を訊かなかった。
——
焼け落ちた社を、後にした。
下りの山道だった。日が高かった。葉の隙間から光が幾筋も差し、地面の影がゆっくりと形を変え続けていた。蝉の声の層は変わらなかった。
トミ彦は虎鉄の脇にふわふわと付いてきた。歩いている、というよりは、引かれている、という感じだった。虎鉄の進む方向にただ流れていた。
「あんた動けるのか」
虎鉄は訊いた。
「浮いてるからな」
トミ彦は答えた。
「便利だな」
「便利と言うほどでもない。動かんと、退屈ではある」
——
山道を下りきると、村が見えた。
正確には、見えなかった。
——
村が、なかった。
——
家の柱が何本か、地面に残っていた。屋根はもう、どれもない。焼けて崩れたものもあれば、雨と風で、ただ朽ちたものもあった。半年前、虎鉄が朝に水を汲んでいた井戸も見えた。木の囲いが半分傾いていた。
——
蝉が鳴いていた。
風が動くと、夏草の擦れる音が、その底に低く混ざった。
人の声はひとつもしなかった。
——
虎鉄はしばらく、立ち止まっていた。
——
「歩けるか」
湊が訊いた。
「歩ける」
虎鉄は答えた。
——
夏草が、膝まで伸びていた。元は道だった場所も、もう、道だか何だか、分からなくなっていた。家の柱の脇を通った。骨が、見えた。一つではなかった。だが虎鉄は目を逸らさなかった。逸らさず、ただ、通り過ぎた。
湊は何も言わなかった。
トミ彦も何も言わなかった。
——
道の途中で、ひとつの家の前を通った。
板戸が、半ば焼けて、半ば残っていた。土壁の一部に、子供が引っ掻いたような、引っ掻き傷が、いくつか残っていた。
虎鉄はそれを、見た。
歩く速度は変えなかった。
何も、言わなかった。
——
湊は虎鉄の横顔を、一度だけ見た。
それから、視線を、前に戻した。
トミ彦は虎鉄の脇で、何かを言いかけて、言わなかった。
——
その家の脇を、通り過ぎた。
——
虎鉄は立ち止まった。
「ここだ」
——
虎鉄の生家だった。
家の母屋は、半ば焼けていた。だが家の横の鍛冶場は、屋根の半分が残っていた。土壁が、火の通り道ではなかったらしく、思いのほか、原型を保っていた。
虎鉄は鍛冶場の戸の前まで、歩いていった。
戸は、半ば開いていた。誰かが、開けたまま、出ていったのか、火に煽られて開いたのか、それも分からなかった。
——
2カ月火が入っていないのは、見れば分かった。灰の上に薄く土埃が積もっていた。雨が吹き込んだ跡もあった。鞴は形を保っていた。槌が何本か、台の上に転がっていた。
虎鉄は台に手をついた。
しばらく、手をついていた。
——
「親父の鍛冶場だ」
虎鉄は言った。
「俺も、ここで打っていた」
「うむ」
「親父の道具は、いくつか、残っているな」
「全部か」
「いや」
虎鉄は台を見回した。
「いくつかない。槌の、大きい奴と、一番使ってた鏨がない」
「持って出たか」
「だろうな」
——
虎鉄はふっと、息を吐いた。
——
それから、台の脇に立てかけてあった、長い包みを、見た。
布に包まれていた。汚れていた。雨に濡れた跡があった。
虎鉄はそれを、台の上に下ろした。
布を、解いた。
——
刀だった。
——
二振り、入っていた。
一振りは、まだ仕上げの途中だったらしく、地金が剥き出しになっていた。もう一振りは、柄も鞘も付いていた。だが鞘は古い。柄巻きも、もう、擦り切れていた。
虎鉄は一振りを抜いた。
——
刃が、火の入っていない炉の薄暗がりの中で、わずかに光った。
——
トミ彦が虎鉄の脇に、より近づいた。
——
何も、言わなかった。
——
トミ彦は透けた手を、刀の刃の上に、伸ばした。
指は刃の上をなぞった。実際には何にも触れていない。だがなぞっていた。鋒から物打ち、鎬を辿り、鍔の方へ。
——
「……」
——
トミ彦はしばらく、刀の上を、指でなぞり続けた。
時々、首を少し傾けた。
時々、虎鉄の方を見た。
——
「鉄が」
ようやく、トミ彦は言った。
「古いのと、新しいのが、混ざっているな」
「混ざってる」
虎鉄は答えた。
「親父は、古い鉄を打ち直して使ってた。買える時は、新しいのも混ぜてた」
「ふむ」
「あんたの知ってる時代の刀とは、違うか」
「違う」
トミ彦は即答した。
「我が、人だった頃に打っていたのは、もっとこう」
トミ彦は透けた手で、何かの形を、空中に描こうとした。
「真っ直ぐな、刀だった」
「直刀か」
「そう呼ぶのか、今は」
「呼ぶ」
「ふん」
——
トミ彦はもう一度、刀の刃を、指でなぞった。
「この、湾ったところ」
「反り、と言う」
「これは、いつから、こうなった」
「俺の生まれる、ずっと前からだ」
「ふん」
——
「気になるなら」
虎鉄は言った。
「今度、教える」
——
トミ彦は虎鉄を、見た。
——
「打ってみせるってことか」
「炉に火を入れて、鉄を熔かして、叩いて、焼きを入れて、研ぐ。全部、見せられる」
「ふむ」
「鉄の神なんだろ、あんた」
「強いて言うなら、な」
「なら、見るといい」
——
トミ彦はわずかに、口の端を動かした。
「楽しみだな」
——
湊は戸口の脇で、二人のやり取りを聞いていた。
口を、挟まなかった。
——
虎鉄は刀を、鞘に戻した。
二振りとも布に包み直して、背中に負った。父の刀を持っていくつもりは、特別なかった。ただ、置いていく理由もなかった。
——
「行こう」
虎鉄は言った。
——
鍛冶場を、出た。
戸は、閉めた。閉めても、もう、誰も入ってこないことは、分かっていた。だが閉めた。
——
家を、出た。
虎鉄は振り返らなかった。
——
村を、抜けた。
——
山道に入る前に、虎鉄はもう一度、村の方を見た。
——
「親父は」
虎鉄は言った。
「どこにいるんだろうな」
「街に逃げたか、別の場所で死んだか」
湊が答えた。
「鍛冶屋が、ここに残った形跡はなかった。骨も、なかった。生きている可能性は、ある」
「……そうか」
——
虎鉄はそれから、しばらく、何も言わなかった。
——
山道を、登った。
夕暮れが、来ていた。蝉の声は、まだ続いていたが、層が、少し薄くなっていた。代わりに、鈴のような虫の声が、聞こえ始めていた。
湊は慣れた足取りで、先を歩いた。
——
ぼろ屋が、山の中腹にあった。
炭焼きが使っていた小屋らしかった。屋根は、半分、まだ使えた。中は、湿っていたが、雨を凌ぐには十分だった。
湊が火を起こした。
虎鉄も薪を集めた。
——
火が低く揺れた。
——
三人は火を囲んで、座った。
正確には二人と、半透明の一人だった。
——
「神社まで二日」
湊が火に枯枝を一本足しながら言った。
「明日、半日登る。半日下る。下りきった所に神社がある」
「あんたの神社か」
「俺の本拠地だ」
「神主は、あんた一人か」
「他にも、いる」
湊は答えた。
「だが俺ほど暇な神主は、いない。お前を連れていくのは、俺の仕事だ」
「そうか」
——
「お前の身体のことは」
湊は続けた。
「神社で、もう少し、見極める。動けるようなら、動く。動けないようなら、しばらく、療養だ」
「……動けるが」
「焦るな」
湊は言った。
「お前は二月、鉄だった。身体の感覚を、戻すのにも、時間がいる」
「……ああ」
——
トミ彦は火を、見ていた。
時々、虎鉄を見た。
火の向こう側に、人がいるかのように座っていた。半ば透けたまま、火の光をわずかに通していた。
——
「親父を、探す」
虎鉄は火を見ながら、言った。
「街に出れば、何か、わかるかもしれん」
「街は、神社からなら、近い」
湊は答えた。
「神主の伝手で、ある程度は、調べられる」
「頼めるか」
「頼まれた」
——
虎鉄は火に、目を戻した。
——
「あと」
虎鉄は火を見ながら、言った。
「幼馴染が、いた」
——
それだけ、言った。
——
湊は火を見たまま、頷いた。
何も、訊かなかった。
トミ彦は火を見たまま、わずかに、視線を逸らした。
——
虎鉄はそれ以上、何も、言わなかった。
——
しばらく、誰も、何も言わなかった。
火が低く揺れた。鈴のような虫の声が、ぼろ屋の外で、続いていた。
——
「寝るか」
湊が言った。
「明日は、登りだ」
「ああ」
——
虎鉄は横になった。背中の刀の包みは、枕代わりに、頭の脇に置いた。左手の鉄は土の上で、わずかに冷たかった。だがそれも、もう、嫌な冷たさではなかった。
——
トミ彦は火の脇に、座ったままだった。
虎鉄をしばらく見ていた。
——
虎鉄は目を閉じた。
虫の声が続いていた。
——
-了-




