# 第三話 黒鉄の神
「お前の横に浮いてる御仁は」
そう湊が訊いてから、しばらく、誰も口を開かなかった。
蝉が、また鳴き始めていた。
——
虎鉄は、もう一度、自分の脇の透けた人を、見た。
長い白い髪。痩せ型の、長身の身体。全身に渦と縄目の入れ墨。半ば透けている。顔は、整っていた。年齢は、虎鉄の父より上にも見えるし、もっと若くも見えた。
その人物が、ふぅ、と息を吐いた。
声は、聞こえなかった。動作だけが、見えた。
——
「ここに祀られていた」
——
声がした。
虎鉄の横から、男のような女のような、低い、滑らかな声が、した。空気を震わせていた。耳に入ってきていた。湊も、首を、その方へ向けた。
「お前らの言うところの、神様、というやつだな」
その人物は、言った。
虎鉄を見ていた。それから、湊を見た。
——
虎鉄は、息を呑んだ。
——
声に出して、何かを言おうとした。だが、声が出る前に、湊が口を開いた。
「……」
湊は、何か言いかけて、言わなかった。
代わりに、片膝をついた。手を、合わせはしなかった。深く頭を下げただけだった。神主としての礼ではなかった。一人の人間が、目の前の存在に、敬意を払う、それだけの所作だった。
——
「やめてくれ」
その人物は、湊に言った。
「畏まられても、こちらが居心地が悪い」
「……はい」
湊は、頭を上げた。
困った、というほどの顔はしていなかった。だが、神主として何をすべきかの目処は、立てていない、そういう顔だった。
——
虎鉄は、ようやく、口を開いた。
「あんた」
掠れた声だった。
「あんたが、お前に決めた、と言った奴か」
「言った」
その人物は、即答した。
「思い出してくれていたのか。鉄になっている間も、覚えていたのなら、頭はまだ動いていたということだな」
——
虎鉄は、しばらく、その声を、聞いていた。
頭の中で、聞いた言葉と、目の前の人物を、繋いだ。**この声**だ、と思った。あの夜、土の上で意識を失う前に、頭の奥で響いた、あの一言。
——
「……血をすする神なのか」
虎鉄が、訊いた。
——
「は?」
——
その人物の声が、初めて、低くなった。
「血だと?」
「祠の前で、千代が——いや」
虎鉄は、言葉を、選び直そうとした。
「村人達が、何代も、生け贄を捧げてきた。あんたに」
「生け贄」
「人を、殺して、首を、社に納めて。胴体は、土に埋めて」
——
その人物は、しばらく、黙った。
——
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「そんなものは、求めたことはない」
——
「迷惑だ」
その人物は言った。
「人を殺して持ってこられても、こちらは何の足しにもならん」
「……」
「強いて言うなら、獲物でもよこせ。猪の一頭でも、鹿の一頭でも、その方が、よほど、神らしい」
——
虎鉄は、口を、半開きにしていた。
——
「……は?」
虎鉄は、もう一度、訊き直した。
「猪、と言ったか」
「言った」
「鹿と」
「言った」
——
その人物は、虎鉄の横で、わずかに肩を上下させた。笑ったのかもしれなかった。
「お前ら、村の連中は、勘違いをしていた」
「鉄の匂いを、血の匂いだと、思い込んでいた」
「我が祠から漂わせていたのは、ただの、鉄だ。我が、もとから鉄に縁のある神だっただけだ」
——
「鉄」
虎鉄は、繰り返した。
「鉄の、神なのか、あんたは」
「強いて言うなら、な」
——
その人物は、自分の腕の入れ墨を、指でなぞった。透けた指が、透けた腕の上を、ゆっくりと、滑った。
「我は、鉄を扱う者達の、神だった。むかし、人だったころも、鉄を打っていた」
「……」
「だが、それを言うのも、もう、面倒だ」
——
虎鉄は、その人物の腕を、見た。
それから、自分の左手の鉄を、見た。
——
「親父も、鉄を打っていた」
虎鉄は、言った。
「俺も、打っていた」
「知っている」
——
その人物は、こともなげに、答えた。
——
虎鉄は、しばらく、何も言わなかった。
——
代わりに、湊が、口を開いた。
「お訊きしてもよろしいか」
「何だ」
「村は、滅びた。山賊にやられた、と聞いている」
「うむ」
「あなた様は、なぜ、村を守らなかった」
——
その人物の表情が、わずかに、動いた。
——
「封印されていた」
その人物は、簡潔に答えた。
「我は、長く、祠の中にいた。村の外の事は、よくは、見えていなかった。ましてや、村を守るような力は、出せなかった」
「……」
「いや、それは、半分は、嘘だな」
その人物は、言い直した。
「出そうと思えば、出せた。だが、封じられた神が、自分の都合で動けば、また封じられる。だから、動かなかった。動かないでいた」
——
「動かないでいた」
虎鉄は、繰り返した。
「俺たちが、毎年、人を殺して、社の前の石に乗せていた間、ずっと、動かないでいた」
「うむ」
「……」
「すまんな」
——
その人物は、言った。
——
虎鉄は、何も言わなかった。湊も、何も言わなかった。
蝉の声が、また、戻っていた。
——
「だが、封印が解けた時には、もう、修羅場だった」
その人物は、続けた。
「お前が、祠を開けた。我が、出られるようになった時、すでに、社の外では、お前の幼馴染が、石の上に乗せられていた」
虎鉄の喉が、動いた。だが、声は、出なかった。
「我には、何もできなかった。間に合わなかった」
「……」
「お前を、鉄にした。それだけだ。それくらいしか、できなかった」
——
虎鉄は、空を、見た。
葉の影が、地面の上で、揺れていた。蝉の声が、層を成して、鳴いていた。
——
「……何故、鉄に」
虎鉄は、訊いた。
——
「宿主がいきなり死んでも、困るのでな」
——
その人物は、答えた。
——
「は?」
虎鉄は、訊き直した。
「宿主」
「お前のことだ」
「……」
「我が、これから、しばらく、お前の中にいる。お前が殴られて死なれては、こちらも困る。だから、鉄にした」
「……」
「それだけのことだ」
——
虎鉄は、その人物を、見た。
——
その人物は、虎鉄を、見ていた。
——
「……そうか」
虎鉄は、言った。
それ以上は、言わなかった。
——
湊が、ゆっくりと、立ち上がった。
焼け落ちた社の方へ、歩いていった。崩れた柱の間を、踏み分けて、奥へ進んだ。盃状の石の脇を通り、屋根の落ちた残骸の中央へ。
そこに、まだ、祠の名残があった。
古い木の板が、半ば焼け、半ば崩れた状態で、土に倒れていた。その下に、何かが、見えた。
——
湊は、屈み込んだ。
——
板を一枚、横へ寄せた。
下から、黒い、人の形をしたものが、現れた。
二月、雨にさらされたはずだが、その黒さは、変わっていなかった。腰の高さほどの、人の形の、鉄。手も、足も、頭もあった。だが、人ではなかった。顔のあるべき場所に、目のような窪み。
そして、肩から胸にかけて、縦に、亀裂が走っていた。
亀裂の隙間からは、もう、何の匂いも、漏れていなかった。
——
湊は、しばらく、その亀裂を、見ていた。
——
立ち上がった。
戻ってきた。
——
虎鉄の脇に、もう一度、膝をついた。
「封印は、無理ですな」
——
湊は、その人物に向かって、言った。
——
「うむ」
その人物は、答えた。
「もう、罅は入った。我は、出てしまった。あの器に、もう一度、戻すのは、難しい」
「……お見受けしたところ」
湊は、続けた。
「お話ししてみたところも、あなた様には、邪悪さは、感じられぬ」
「言うてくれるな」
——
その人物は、わずかに、口の端を上げた。
——
「邪悪と言われていた時代も、あったぞ」
「そうですか」
「あれは、勝った側の言い分だ」
「……はい」
「だが、まあ、今は、そういうことではない」
——
湊は、頷いた。
——
「では」
湊は、改まった。
「なんと、お呼びすれば、よろしいですか」
——
その人物は、しばらく、考えた。
——
「そうさなぁ」
ゆっくりと、答えた。
「トミ彦、と呼ばれていたことが、多いかな」
「トミ彦様」
「様、はいらん」
「トミ殿」
「うむ。それくらいで、よかろう」
——
トミ彦、と、虎鉄は、口の中で、形にした。
声には、出さなかった。
——
その人物——トミ彦は、虎鉄の方を、見た。
——
「お前は、好きに呼べ」
「……」
「鉄、でも、神様、でも、爺、でも、構わん」
「……」
「ただし、爺と呼ばれたら、夜、寝ている間に、お前の左手を、肘まで鉄にする」
——
虎鉄は、左手の鉄を、見た。
それから、トミ彦を、見た。
——
「……それは、困る」
「だろうな」
——
蝉の声が、続いていた。
風が動くと、葉の擦れる音が、その底に、低く混ざった。
-了-




