# 第一話 神祀りの夜
大人達の話し合いが聞こえる。
村の備蓄。。。ない。
渡す。。。はない。。。
不作で。、。もならない。。。
渡さな。。。殺さ。。
神。。事を。。。
誰。。。?
もうあいつ。、しか。。。
やめてくれ!!!
村が。。。うなっ。も?
。。。。
それは。。。あんまりだ。。。
どうに。。、堪えてく。。。
うぐ。。うぅ
虎鉄は土壁に額をつけて、息を殺していた。聞き取れたのは、半分にも満たない。それで充分だった。あらかた、わかってしまった。
「もうあいつしか」
誰のことかは、考えるまでもなかった。
「千代……」
口の中で呟いた。声にもならない。
寝床に戻った。蓑をかぶり直して、闇を見ていた。眠れる気はしなかった。
天井の節穴を、なんとなく見ていた。子供の頃、千代と並んで寝転がって、節穴の数を数えたことがある。馬鹿馬鹿しい遊びだった。あの時、千代が何個と言って、虎鉄が何個と言ったのか、もう思い出せない。
夜が、ほどけていく。
——
鶏が啼いた。
身を起こすと、土間の方から父の咳が聞こえる。鍛冶の煙で潰れた喉だ。鞴の音はまだ聞こえない。父も眠れなかったのだろう。
井戸端で水を汲んだ。冷たさだけが、よくわかった。顔を洗っても、何も流れていかない。
外に出ると、村はおかしかった。いつもなら畑へ向かう男達が、社の方を向いて立っている。腕組みをして、何を話すでもない。女達は井戸に集まらず、子供が走らない。
犬すら、吠えなかった。
足が、勝手に千代の家の方へ向いた。
——
板戸の隙間から、声が漏れている。すすり泣き。千代の母親のものだ。途切れて、また始まる。
戸の前で立ち尽くしていた。中で何が話されているのかは、もう分かっている。確かめる必要もない。それでも、立ち去れなかった。
板戸の節の隙間に、目を寄せた。
土間の奥、囲炉裏のそばに千代が座っていた。両手を膝の上で握って、俯いている。母親が傍らで泣いている。父親と長老らしき男が向かい合って何か話している。
千代が、顔を上げた。
目が合った。
千代の口が、動いた。何かを言おうとしている。だが、声は聞こえなかった。口の形も、何の言葉だったのか、虎鉄には分からなかった。
ただ、千代が、立ち上がろうとした。それだけが、はっきりと見えた。
その時、千代の父親が振り返った。視線が板戸に走る。
虎鉄は、走った。
土を蹴る音が、自分の耳にやけに大きく響いた。背後で何か叫ぶ声が聞こえた気もする。振り返らなかった。振り返れなかった。
家の裏まで走って、息を整えた。膝に手をついて、しばらく動けなかった。
逃げた。
千代が立ち上がろうとしたのに、逃げた。
——
鍛冶場の戸を開けると、父・馬鉄が炉を覗き込んでいた。背中だけが見える。
「父」
返事はない。
「父」
「やめとけ」
炉の中を見たまま、馬鉄は言った。
「言うだけ無駄だ」
それだけだった。父が鞴を握って、ゆっくり押し込む。火が、また低く揺れた。
虎鉄は、出た。
——
山に入った。
社へ続く道を外れ、藪の濃いところに身を伏せる。土が湿っている。膝が冷えた。
山の祠であることは、確かだ。恐らく酉の刻、日が傾いてからしばらく経った頃に、大人達が松明を焚きながら登ってくる。神事のかたちは、子供の頃から見ていた。
子供の頃。
——
夏の川。千代と二人で、ふんどし一つで水に入った。千代も裾をからげて、膝まで漬かっていた。冷たいと笑っていた。
山菜を取りに行って、道に迷ったこともある。日が傾いて、虎鉄が泣きそうになったのを、千代が「こっち」と言って引っ張ってくれた。家に着いた頃には、千代の方が泣いていた。
裏山の祠の前を通る時、千代はいつも手を合わせていた。虎鉄は合わせなかった。「神様なんていない」と虎鉄が言うと、千代は「いるよ」と言った。
——
(本当に、いるのか)
(いるなら、何のために、いるのか)
幼なじみも、何人か消えた。
冬を越せず病で死んだとも聞いた。山に山菜を取りに行って戻らなかったとも聞いた。村の老人達は神主に倣って、ありがたい話だと頷いていた。神様に召されたのだと、ありがたい話だと。
(何が変わったのだろう)
村は前よりも貧しくなった。神は前よりも、要求するようになった。
(大人達のやることは、理解に苦しむ)
板戸の節穴の向こうで、何かを言おうとしていた千代。立ち上がろうとした千代。それを引き戻した、千代の父親の手。
逃げた、自分の足。
(何も変えられないなら、今日こそ)
虎鉄は、藪の中で拳を握った。
(やってやる)
(人を欲しがる神様なんていて良い訳がないだろう)
——
風が、止んでいた。
虫の声もない。鳥もいない。日が落ちきってから、どれほど経ったのか分からなくなった。
遠くで、犬が一度だけ吠えた。
すぐに、止んだ。
参道の向こうに、火が見えた。ひとつ。ふたつ。数えるのをやめた。松明の列が、こちらへ昇ってくる。
虎鉄は、息を浅くした。
腰の後ろに差した鍛冶の槌の柄を、握り直す。今朝、父が炉を見ている隙に、鍛冶場の隅から持ち出してきた。父の使い古しの一本。鉄の頭が黒く、柄は手脂で艶が出ている。
列の先頭は神主だ。白い装束が、火に照らされて揺れている。腰には、刀を帯びていた。神主が刀を帯びるなど、見たことがなかった。続いて村の長老達。男達。
父の姿は、なかった。
そして——四人がかりで担がれた、戸板のようなもの。
その上に、千代が横たわっていた。
縛られているのが分かった。動いていない。だが、目は開いていた。虚ろではなかった。意識はある。ただ、何かを飲まされたのか、ショックで言葉にできないのか、抗う動きがなかった。
——
列が、社の前で止まった。
社の戸の手前に、大きな石がある。子供の頃から、そこにあった石。腰の高さほどの平たい石で、上面に丸い窪みがいくつも穿たれている。誰が、いつ穿ったのか、村の誰も知らない。村ができるよりも、ずっと前から、そこにあったのだという。
虎鉄も、千代も、小さい頃、その窪みに雨水が溜まっているのを覗き込んだことがある。指を入れて、底をなぞった。なめらかな穴の壁が、不思議だった。あれが、この穴だったのかと思った。
——
戸板が、その石の傍に下ろされた。
長老の一人が、何か布のようなものを地面に広げた。社の戸の前、石の脇。白い、織りの粗い布だ。
その隣で、男が二人、土を掘り始めていた。鍬を浅く入れて、社の土を浅く返す。掘った穴の縁を、丁寧に均している。深さは、人一人を寝かせるほどか。
虎鉄は、それで分かった。
石の窪みは、血を受けるためのものだ。
布は、首を受けるためのものだ。
穴は、胴体を埋めるためのものだ。
——首を落とす。
——首だけ、社に納める。
——
神主が祝詞を上げ始めた。低い、低い声だった。何を言っているのか、聞き取れない。聞き取りたくなかった。
——
千代が戸板から降ろされた。男が二人がかりで抱え上げる。千代は、抵抗しなかった。手足が、布のように力なく垂れた。
石の上に、千代が乗せられた。
仰向けに、首が窪みの方へ来る形で。長老が、千代の頭を石に固定するように、両側から押さえた。
千代の目が、ゆっくりと藪の方へ動いた。
目が、合った。
千代の目が、虎鉄を見ている。憂いを帯びていた。だが、それが何の憂いなのか、虎鉄には読み取れなかった。
口が、動いていた。何かを言おうとしている。だが、その口の形も、何の言葉だったのか、虎鉄には分からなかった。
——
神主が、腰の刀を抜いた。
古い刀だった。鞘から出た刃が、火を映して鈍く光った。研いだばかりの刃ではない、と虎鉄は思った。鍛冶屋の目で、それが分かった。だが、首を落とすには、十分だ。
虎鉄は、男達の顔を見た。
神主の後ろに並ぶ男達。村で何度も見た顔だった。畑を耕す顔、井戸で水を汲む顔、虎鉄が子供の頃に菓子をくれた顔。
その顔が、今、千代が殺されるのを見ていた。
止めない。誰も止めない。
その目は、見ないようにしている目ではなかった。ちゃんと見ていた。何が起きるか、分かって見ていた。そして、自分が止めれば、次は自分が石に乗ることになると、それも分かっていた。
神主が、刀を両手で構えた。
虎鉄は、立ち上がっていた。
「千代——!」
叫んだ。声が、夜の山に裂けた。
藪を掻き分けて、参道に飛び出す。男達が振り返る。神主の祝詞が止まった。神主が、刀を中途半端な高さで止めた。
虎鉄は、走った。
腰から槌を引き抜く。最も近い、松明を担いだ男に体当たりした。男が倒れる。松明が地面に転がる。乾いた藁束に、火が舐めるように移った。
神主が、刀を振り上げた。
——間に合え。
虎鉄は、神主に向かって槌を投げた。槌は、神主の腕に当たって弾けた。
「千代!」
走りながら、千代の方を見た。長老が、千代の頭を石に固定していた手を離して、こちらへ向き直ろうとしていた。男達も、動き出している。
槌が、地面に転がっていた。神主の腕に当たって弾けた、父の槌。
虎鉄は、それを拾った。
土が付いていた。柄の手脂の上に、新しい泥の感触が乗っている。握り直す。
——返してもらう。
社の戸の前に立っていた長老を、槌の柄で突き飛ばした。長老が後ろに倒れる。社の戸を、肩から押し開けた。蝶番が軋んだ。中は暗い。
奥に、祠が見えた。
古い木の、小さな祠。父祖の代から村が祀ってきた何か。祠の前に、注連縄が張られていた。両脇に御札が垂れている。
虎鉄は、注連縄に手をかけた。
両手で掴んで、力任せに引いた。古い藁の繊維が、千切れた。引きちぎれる範囲が、千切れた。残りは、まだ祠の柱に巻きついていた。
御札に、手を伸ばした。
目の前の一枚を、引き剥がす。次の一枚も、引き剥がす。さらに横の一枚も。手のひらに紙の感触が刺さった。指の腹が、切れたのかもしれない。痛みは、なかった。
何枚か剥がしたところで、虎鉄の手は、止まった。
——
別に、全部、剥がそうとしたわけではなかった。
そんな考えは、なかった。ただ、目の前のものを、無造作に、引きちぎっただけだった。
——
剥がした隙間の奥に、それが、見えた。
——
祠の中、暗がりの奥に、黒い、人の形をしたものが、置かれていた。
虎鉄の腰の高さほどだった。古い、もっと古い、村ができるよりも前の、何かが作ったものだった。手も、足も、頭の形も、あった。だが、人ではなかった。顔のあるべき場所に、目のような窪みがあった。それだけだった。
黒光りしていた。鉄、だと、虎鉄は思った。鍛冶屋の目で、それが分かった。だが、こんな鉄は、見たことがなかった。父の炉から出てくる鉄とは、違う。もっと、深い。もっと、古い。
——
声が出ていた。自分の声とは思えなかった。
「ふざけるな、こんなもののために——」
——
剥がし損ねていた御札が、一枚、また一枚と、自然に剥がれて落ちた。
引きちぎれずに残っていた注連縄も、千切れた。
バサッ、バサッ、と、御札は、祠の前の土に、次々と重なって落ちた。
——
そして、
——
バキッ、と、
——
黒く光るものの、肩から胸にかけて、縦に、亀裂が走った。
——
社の中の空気が、止まった。
虎鉄の背後で燃えていた火の音が、遠くなった。男達の怒声も、消えた。神主の呻きも、聞こえなくなった。
——
亀裂の中から、風が、流れ出てきた。
——
黒い人型の中から、漏れ出てきた風だった。生ぬるい風だった。湿っていて、重かった。匂いがした。錆びた鉄の匂いだった。鉄なのか、血なのか、虎鉄には判別がつかなかった。父の鍛冶場で嗅ぐ、研いだ刃に滲んだ汗のような、あの匂いに似ていた。だが、もっと古い。もっと深い。
——いつもの匂いだ。
社の前を通る時に、いつも嗅いでいた匂い。村の老人達が「血だ、神様が御先祖の血を覚えておいでだ」と言っていた匂い。
(違った)
(これは、ずっと、鉄の匂いだった)
(この、中から、来ていた)
——
虎鉄の全身の毛が、逆立った。
腕の産毛、首筋、背中、頭皮——皮膚の下から、何かが押し上げてくる。鳥肌が、肌の上に立った。一瞬ではなかった。じわり、と、波のように肌を這って広がった。
槌を構えたまま、動けなかった。
息ができない。喉が、開かない。
——
亀裂の奥から、見られていた。
黒い人型の、それそのものが見ているのではなかった。その、中にいる、何かが、亀裂の隙間から、虎鉄を、見ていた。
それだけは、わかった。
——
社の外で、声が止んだ。
罵声が消えた。怒声も止んだ。火が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いている。
虎鉄は、振り返らなかった。振り返れなかった。
風が、夜気の中で薄れていく。
長い時間ではなかった。だが、確かに、誰も動かなかった。
——
「早く、儀式を!」
長老の声が、夜に裂けた。
「早く、終わらせろ! 神様が、お怒りだ!」
別の男の声が、続いた。
「虎鉄を止めろ! あいつが、あいつのせいで——」
「俺たちは、悪くない!」
誰かが、叫んだ。
「悪くないんだ! 仕方ない、仕方ないだろう、こうするしか——」
足音が、社の戸の方へ向かってくる。複数の足音だった。
「邪魔するな、邪魔するな!」
「こいつを先に!」
「いや、娘を先に! 早く、早く!」
「どっちでも、早く——」
——
虎鉄は、それを背中で聞いた。
殺気というより、もっと別の何かだった。男達の声は、怒っているのに、怒っていなかった。叫んでいるのに、誰かに言い聞かせているようだった。
——殺しに、来る。
それは、分かった。
虎鉄が振り返る前に、最初の一撃が背中に来た。
棒ではなかった。鍬の柄だった。木の重い感触が、肩甲骨の間に叩き込まれた。膝が前に折れた。
「仕方ない、仕方ない!」
殴った男の声だった。
「お前が悪い! 邪魔をしたから!」
複数の手が、頭を、肩を、腰を押さえた。背中に、誰かが膝で乗った。鍬が、また振り下ろされた。今度は脇腹だった。息が抜けた。
「邪魔だ!」
「俺たちが、決めたんじゃない、神様が——」
「早く、早く、娘を——」
——
虎鉄の視界の端に、千代が見えた。
石の上で、首を押さえられたまま、こちらを見ていた。
千代の目は、見開かれていた。
虎鉄が殴られるのを、見ていた。鍬が振り下ろされるのを、見ていた。男達が虎鉄を殺そうとしているのを、見ていた。
そして、自分の上に振り上げられた、神主の刀も、見ていた。
——
千代の口が、開いた。
声は出なかった。口だけが、何かを言おうとしていた。
虎鉄には、それが何の言葉なのか、分からなかった。
——
(逃げない)
虎鉄は、土の上で、それを思った。
(逃げない、もう、逃げない)
——
頭を、また殴られた。
「お前が、お前が悪い!」
殴る男の声が、震えていた。
「俺たちじゃない、俺たちじゃない——」
——
唇が、切れた。
口の中に、何かが広がる。生ぬるい。鉄の味だった。先ほど祠から流れてきた、あの錆びた鉄の匂いと、同じものだった。
——自分の中にも、あったのか。
頬の内側を、舌でなぞった。歯が当たって、また切れた。鉄の味が、濃くなる。
外から来た匂いと、内から滲む味が、混じっていく。どちらが先だったのか、もう分からなかった。
何かが、薄れていく。
音が遠い。
——
何だ。これ?
——
問いを考える余地もなく、何かに殴打される。
——
頬の下の土が、冷たく感じることはできた。
つい先ほどまで、湿った土の冷たさが、はっきり頬に当たっていた。それが、いつの間にか、消えていった。土がなくなったのではない。頬に押しつけられているのは、わかる。爪の間に土が入り込んでいるのも、わかる。だが、感じない。
(……何だ)
——
「俺たちじゃない、俺たちじゃない——」
殴る男の声が、震えていた。さっきから同じ言葉を繰り返している。同じ言葉しか、言えないでいる。
棒が、また肩に振り下ろされた。
衝撃は、あった。肩が下がったのは、わかる。
だが、痛みが、こない。
殴った男の手が、止まった。
——
「……硬い」
別の男の声が、後ろから聞こえた。低い、押し殺した声だった。それ以上は、続かなかった。
棒を持つ手が、震え始めていた。柄を握り直す指が、何度も滑った。
虎鉄を踏みつけていた膝が、わずかに浮いた。押さえつけていた手も、力が抜けていく。だが、離れない。離れずに、ただ、迷っている。
——
肌の上を、何かが這った。
先ほど祠の前で、毛が逆立った、あの感触に似ていた。だが、もう、肌の上ではなかった。
肌の、下を、這っている。
腕の内側で、何かが押し上げてくる。皮膚の下で、何かが集まろうとしている。皮膚の下を、虫が這うような感覚だった。
——
指先が、薄れた。
冷たさを感じたのではない。冷たさが、消えた。土の感触が、爪の間から、すうと抜けていく。
腕にきた。
肩にきた。背中の、膝が乗っていたはずの場所にも、もう何も乗っていない感覚だけが残った。
——
(立ち上がれる)
そう思った。身体を、押し上げようとした。
動かなかった。
感覚はなくなったのに、動かなかった。むしろ、より動かなくなっていた。
腕が、硬い。
——
視界の右が、赤くなった。
社の天井まで炎は這い回る。先ほど松明の火が壁を伝い、梁を舐めている。古い木は、よく燃えた。
虎鉄の視野が、揺らぎ始めた。
——
「……あれ」
殴っていた男が、棒の手を完全に止めた。
虎鉄の方ではなく、社の方を見ていた。屋根の下から、火が回り込んでいた。
他の男も、振り返った。
——
棒が、地面に落ちた。
それを、男は拾わなかった。
虎鉄の背中から、膝が外れた。両腕を押さえていた手も、ひとつずつ離れた。離れる時に、男が小さく息を呑む音がした。だが、何も言わなかった。
——
男達は、虎鉄を、放った。
慌てて、男達の足音は社から離れている。
虎鉄の身体は、土の上に、そのまま残った。
——
社の屋根が、傾いていた。
火が、上から下へ、走り始めていた。神主が、土に膝をついたまま、社の方を振り仰いだ。神主の白い装束に、火の色が映っていた。
長老が、何か叫んだ。声は、聞こえなかった。
——
虎鉄は、見ていた。
社が燃えていくのを、見ていた。
屋根の梁が、ひとつ、折れた。火の塊が、社の戸の前の地面に落ちた。火の粉が、高く舞い上がった。
(……社が)
そう思った。
そう思って、それ以上は、思えなかった。頭の中で、その思いに、何かが絡みついていた。考えが、ねばついて、次に進まない。
社が、燃えている。
——
何かが、動いた。
——
複数の、人影だった。
引きずられている、別の人影が、あった。
——
(……)
——
人影は、松明の光に縁取られていた。輪郭が、松明で、揺らいでいた。
引きずられている、もう一つの人影。
それが、誰だかは、虎鉄には、分からなかった。
引きずられている、というのは、わかった。
人だ、というのも、わかった。
——
挙げられた手があった。
手の先で、一筋の光が、立ち上がった。
——
(……あれは)
——
光が、落ちた。
——
それが、刀だと、虎鉄は、後から思った。
——
——
引きずられていた人影が、どうなったのかは、虎鉄の視界の中では、はっきり、見えなかった。
火の粉が、その間に、舞い散っていた。
——
社の屋根が、崩れた。
大きな音だった、はずだ。だが、虎鉄には、その音は、もう、遠かった。
崩れてきた社に、火の塊が、地面に落ちた。材木が、燃えながら、転がってきた。虎鉄の脇の土の上に、燃えた木が、いくつも落ちた。
熱は、感じなかった。
——
頬の脇に、火の粉が、いくつも落ちた。
色だけが、見えた。
——
火の向こうの人影は、もう、揺らいでいなかった。
動きが、止まっていた。
しばらく、誰も、動かなかった。
——
虎鉄は、土の上に、残された。
燃えた元社の残骸に囲まれた形で。
身体は、動かなかった。
息を、しているはずだった。
していない、かもしれなかった。
——
『。。。』
——
声では、なかった。
音でもない。空気の振動でもない。
頭の中の、もっと奥の方で、響いた。
——
『お前に決めた』
——
何を決めたのか、分からなかった。
あの一言が、始まりだった。




