第45話:二つの台帳
朝いちばんに、ラング寮長が来られた。脇に、綴じた紙を抱えておられた。
「ノルデン嬢。ひとつ、伺いたい」
「はい」
「これを、どう扱えばよろしいか」
机に置かれたのは、王宮の保証台帳の、二十年前の原本だった。頁を繰った。二十三行に、定規で斜線が引いてある。斜線の下に、字が残っていた。母の墨が濃かったので、線を引いても消えなかった。
「審査院の四条によりますと、国は帳面を保管いたしません。原本は、工房でお預かりいただきたい。写しは三か所」
「二十三行は」
「消しません。消す権限が、もう寮にございません」
その方は、綴じの端を指で押さえられた。
「代わりに、注を入れることになります。注の文は、そちらで書いていただきたい」
わたしは、墨をつけた。
本欄の斜線は、二十年前、当該調律者自身の手により引かれたものである。抹消の効力は、これを認めない。署名は、調律した者に属する。
日付を入れて、名前を二つ書いた。書き終えて顔を上げたら、ラング寮長がこう仰った。
「——ということになりますが、よろしいか、と伺う先が、やはり私しかおりませんな」
昼のあいだに、母の帳面の三冊目を出した。
二十年前の冬の初め。抹消の日を探した。その日の行は、一行だけあった。
品名 道具箱 留め金 一点
症状 根元で折れ
お代 ——
日付 (その日)
直した者 セレスティア・ノルデン
二十三行消した日に、母は一行書いていた。関の向こうの台帳の一行目に貼ってある札と、同じ日付、同じ文字だ。母は、自分の帳面にも、ちゃんと書いていた。
母の帳面には、間に合わなかった行が一行も無い。無いのは、この日も間に合わせたからだと思う。
夕方、戸が開いた。
アイゼン殿だった。手ぶらだった。この四か月、この方が手ぶらで来られたことは一度もない。
「客として来た」
わたしは、修理台の前に座り直した。
「お品を、拝見します」
その方は、外套の内側から、布の包みを出された。四隅を折り込んで、紐を二度掛けてある。エルツの宿の裏口で見たものだ。紐を解いて、布を開いた。
留め具が、一つ載っていた。
いちばん細い型。真鍮。うちで使うのと同じ形。わたしは、それを手に取って、光にかざした。合わせ目に、細い筋が四本、斜めに入っていた。工具の当て方が、慣れていない。四本目が浅い。深さが揃っていないので、たぶん最後の一本で手が止まっている。
止まった理由は、想像がつく。合わせ目を均す手つきは、教わらないと出ない。この方は、誰にも教わっていない。
「これは」
「作った」
わたしは、留め具を台に置いた。
「……何度、作られましたか」
「数えていない」
「工房の万力の下の金屑から見て、三十は超えております」
「そうかもしれん」
その方は、いつもの位置に立っておられた。
「二か月前、わたしは申し上げました。頂き物には、保証をつけられませんので、と」
「言った」
「これは、頂き物でしょうか」
その方は、少しだけ間を置かれた。
「違う。作った」
それから、こう仰った。
「作った者が、保証を負う」
わたしは、しばらく黙っていた。黙っていたのは、言葉が出なかったからだ。
この方は、ひと月半、工作台の隅で真鍮を削っておられた。関の向こうでも、宿の裏口で削っておられた。三十以上を失敗して、四本目の浅い一本を残して、それを持ってこられた。
保証を負う、というのは、この工房でいちばん重い言い方だ。負った者の名前が帳面に残る。残った名前は、消せない。
わたしは、紙を出した。いつもの札を書こうとして、手が止まった。この品には、症状が無い。お代も無い。お代の無い品に、うちは札を切らない。
わたしは、紙を裏返した。裏に、こう書いた。
ノルデン工房 保証台帳(二) 四百七十三行目
品名 留め具 一つ
症状 なし
作った者 ヴィルヘルム・アイゼン
保証 作った者が負う
書いて、いちばん下の欄を空けた。この欄は、受け取る側が書く。うちの帳面で、受け取る側が名前を書く欄は、一つしかない。保証を、引き継ぐときだ。
わたしは、筆を差し出した。
「ここに、お名前を」
「書いた」
「もう一度、こちらにも」
「……二度書くのか」
「二度書きます。片方は、うちに残ります」
その方は、筆を取られた。字は大きくて、線が太かった。わたしは、その下に自分の名前を書いた。書いて、半分に切った。右半分をお渡しして、左半分を台帳に貼った。
アイゼン殿は、それを外套の内側にしまわれた。折らずに、平らなまま。しまってから、こう仰った。
「これで、どうなる」
「保証が続きます」
「いつまでだ」
「品が壊れるまでです」
その方は、留め具のほうを見られた。
「壊れたら」
「直します」
わたしは、そこで一つだけ、訊いた。
「アイゼン殿。三十日、隊を離れる決裁の、理由の欄に、何とお書きになったのですか」
その方は、外套の内側を、一度だけ押さえられた。札のある場所だった。
「壊れる前に、直す」
それだけだった。説明は無かった。無かったので、わたしは自分で埋めた。埋めなくても、分かった。
その夜、わたしは作業灯の下で、母の帳面の十冊目を開いた。
最後の頁の、下の隅。読めなかった一行。七つの字を、マレーネさんに教わった。右から左へ、四つ目と五つ目のあいだで切れる。ライナルト・エッシュ。その下に、輪が二重の印。
書きたいことが書けなかった人が、名前だけ置いていった一行だ。
わたしは、墨をつけた。その一行の下に、こちらの文字で、一行書いた。
あなたの仕事は、こちらの台帳の一行目にあります。
書けなかった行は、あとから直せる。直した者の名前は、書かなかった。この一行は、あの方のものだ。
十冊目を、閉じた。
閉じても、きちんと平らになった。
『「壊れたら買い直せばいい」と婚約破棄されましたので、王宮の魔道具保証は本日で終了です』、これにて完結です。第一話から、あるいは途中から、ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。
二十年前にこの国が消した二十三行は、消さずに注を入れました。関の向こうの台帳の一行目は、貼ったままです。母は、二十三行消した日に、一行書いていました。
留め具が一つ。頂き物には保証をつけられませんが、作った物なら、作った者が保証を負います。四本目の筋が浅い理由は、もうお分かりかと思います。
書けなかった行は、あとから直せます。直した者の名前は、書きませんでした。
ブックマークと☆は、次の帳面の一行目にさせていただきます。工房は、開いております。
それでは、作業灯の下で。




