第32話 吐息がかかるゼロ距離
髪を乾かし終えた後、僕たちは勉強会の間にパクつくおやつとお茶を用意すると、ようやく机に向かい、教科書とノートを開いた。
ちなみに今日は市販のバタークッキーだ。
サクサクとした柔らかい歯ごたえと、口の中で溶ける味わいは、値段の割にとても美味しい。
こういう工業製品って、規模の力が働いてるから、使ってる素材も良いものだし、値段が安いからってぜんぜん馬鹿にできないよね。
少し浅めに入れたミルクティを飲みながらホッとしていると、透花が僕のことを見ているのに気づいた。
向かい合って座っているだけなのに、ふとした瞬間に視線が合っては、慌てて逸らす。
透花が髪をかき上げる仕草や、ペンを持つ指先の動き一つ一つが、やけに目に付いてしまう。
何が僕を動揺させているのか、自分が一番分かっている。
この前、透花に抱き枕にされた生々しい記憶が、今もまだ残ってるからだ。
ピチピチのタンクトップに盛り上がった膨らみや、ドルフィンパンツから出た眩しい太ももなんかに目が奪われると、途端に感触や匂いが脳裏にかすめる。
そのたびに、僕の心臓は律儀にドクンと跳ね、集中力は霧散していく。
一度意識してしまった距離感は、そう簡単には元に戻らない。
ダメだ、全然頭に入ってこない……!
長年透花の幼馴染として、それなりに近い接触はしていたはずなのに――
こんなにもドキドキするのは、生まれて初めてだ。
僕はどうしてしまったんだろう……?
しばらくの間、必死に集中力をかき集めて、ただペンを走らせる音だけが部屋に響いていたんだけど、ついに僕は数学の応用問題の前で完全に思考を停止させてしまった。
「……うーん、分からん」
何度数式を睨んでも、解法の糸口すら見つからない。
僕がうんうんと唸っていると、向かい側から「ん?」と透花が顔を上げた。
「どうしたの、守くん。手が止まってるけど」
「いや、この問題が全然……。透花はもう終わったの?」
「うん、数学も得意だからね。どれ、ちょっと見せて」
透花は椅子から立ち上がると、僕の隣に回り込み、自分の椅子をすぐ隣に引き寄せた。
とん、と僕の腕に彼女の肩が軽く触れる。
近い……!
お風呂上がりの甘いシャンプーの香りと、彼女の体温がダイレクトに伝わってきて、僕の心臓が大きく跳ねた。
意識しないように、必死に問題に視線を固定する。
ちらっと問題を見た透花は、すぐに解法を導き出した。
「あー、この問題ね。これは、まずここのXをYに置き換えて、連立方程式で解いていくと……」
透花は僕のノートを覗き込むように、ぐっと身を乗り出した。
さらり、と彼女の髪が僕の頬をかすめる。
タンクトップの襟が少し浮いて、彼女の豊かな谷間と、美しいデコルテラインが目に入る。
そのくすぐったい感触と、耳元で聞こえる優しい声に、僕の思考は完全に麻痺した。
問題の解説なんて、一言も頭に入ってこない。
ちゃんと集中しないと、頑張って教えてくれてる透花に失礼だろう……!
「……で、ここの補助線をこう引くと、相似な図形が見えてくるでしょ? だから、こことここの比率が……」
説明に夢中になった透花が、ノートの図形を指さそうと、さらに顔を近づけてくる。
僕たちの顔の距離は、もう数センチもない。
彼女の吐息が、僕の頬にかかる。
その温かさに、全身の血が沸騰しそうになった。
唇が、触れそうだ。
その事実に気づいた瞬間、透花の説明の声が、ふっと途切れた。
僕も、彼女も、互いの顔を見つめたまま、動けなくなる。
時が、止まったかのようだった。
部屋に響くのは、僕の、やけに大きく聞こえる心臓の音だけ。
永遠にも思える沈黙を破ったのは、透花だった。
彼女の視線が、僕の唇から、ゆっくりと頬へと移る。
そして、ふふっ、と悪戯っぽく笑った。
「守くん、ほっぺにクッキーが付いてるよ」
「え?」
僕が間抜けな声を出すと、透花は「んー」と楽しそうに僕の顔を覗き込む。
そして、次の瞬間。
すっ、と彼女の細く白い指が伸びてきて、僕の頬にそっと触れた。
その指先が、信じられないほど柔らかく、少しだけひんやりとしていて、僕は思わず息を呑む。
「~~~~~~~~っ!?」
透花の指が、僕の頬についた何かを、つまみ取る。
そのあまりにも自然な仕草と、予期せぬ近さに、僕の心臓が大きく跳ねた。
僕の思考は、完全にショートした。
脳が理解を拒絶し、全身の血液が顔に集中していくのが分かる。
透花は僕の呆然とした顔を見て、くすくすと悪戯っぽく笑った。
そして、つまみ上げた小さな欠片を、僕に見せびらかすように掲げる。
「クッキーの食べカス。……ふふ、守くんの、もらっちゃった」
そう言うと、透花はそれを、ぱくり、と自分の口の中に放り込んだ。
そして、もぐもぐと味わうように咀嚼し、こくん、と飲み込む。
その一連の動きを、僕はスローモーションのように見つめることしかできない。
「ん、甘くておいしい。……ねえ、守くん。まだどこかに付いてない?」
「ま、まだお皿に残ってるだろ」
「そうだね。で、どうかな? あ、もしかして私の口周りにもついてないかな? もし付いてたら、取ってほしいんだけど……」
そう言って、透花は顔を近づけて見せた。
美しい艷やかな唇。
元々色素の薄い白い肌は、血の気が昇って真っ赤になっている。
潤んだ瞳が、僕を射抜く。
透花は狼狽する僕の姿を見て、フフフって小悪魔みたいな笑みを浮かべる。
それは、僕が今まで見たどんな彼女よりも、蠱惑的で、扇情的で、そして……どうしようもなく、可愛かった。
「おーい、守くん?」
僕の理性の糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。
っ……! もう、もう無理だって。
「……っ!」
僕は無言で立ち上がると、透花の腕を掴んで、ぐいっと強く引いた。
「きゃっ!?」
不意の行動に、透花は驚きの声を上げる。
僕はそのまま彼女をベッドの方へと押しやり、どん、とベッドの優しく突き倒す。
ドサッと、大した抵抗もなく、透花は仰向けになった。
そして、逃げ場をなくした彼女の顔のすぐ横に、僕は片手を叩きつける。
――いわゆる、壁ドンだ。
ベッドがぎしり、と軋む。
僕の腕の中に、透花が完全に閉じ込められた。
「ま、守くん……? ど、どうしたの、急に……」
さっきまでの余裕の笑みはどこへやら、透花は戸惑ったように目をぱちくりさせている。
至近距離で見下ろす僕の顔は、きっと今、見たこともないほど真剣な顔をしているに違いない。
いや、あるいはギラギラした目、と言ったほうが良いのかな。
「……いい加減にしろよ、透花」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
唇を舐め、乾いた喉で必死に言葉を紡ぐ。
「君は、自分が何をしてるか分かってるのか? 幼馴染だからって、油断しすぎなんだよ。僕だって、男なんだぞ……。抱き枕なんかにされて、僕が理性を保つのに、どれだけ我慢してたか分かってるのか?」
僕はもう片方の手で、透花の顎をくいっと持ち上げる。
無理やり視線を合わせさせると、彼女の潤んだ碧色の瞳が、不安そうに揺れていた。
「そんな無防備な格好で、煽るようなことばっかりして……。僕が、いつまでも我慢できると思うなよ」
僕が視線を走らせる。
仰向けになって、なお質量を主張する大きな乳房、捲れ上がったタンクトップの裾からは、くびれたお腹と、形のいいヘソが丸見えになっている。
僕の親指が、彼女の震える唇を、そっと撫でる。
びくり、と透花の肩が大きく跳ねた。
「……っ、ご、ごめ……なさ……」
さっきまでの小悪魔はどこにもいない。
そこにいたのは、見たことのない男の顔に驚き、頬を真っ赤に染めて、目を潤ませている、ただの女の子だった。
透花の頬を親指で撫でる。
彼女は……抵抗しなかった。
そのあまりにもか弱く、庇護欲をそそる姿に、僕はハッと我に返る。
しまった。やりすぎた。
「……あ、いや、ごめん。脅かすつもりじゃ……」
僕が慌てて手を離して身を起こすと、透花はへなへなと、その場に完全に脱力して、寝転がってしまった。
顔を手で覆った彼女の耳は、もう真っ赤を通り越して、燃えるように熱くなっているのが分かった。
「……守くんの、ばか」
か細い、蚊の鳴くような声。
それは、僕にしか聞こえない、甘い響きをしていた。
気まずい沈黙が、部屋を支配する。
僕は、何かを言うことも、動くこともできずにいた。




