第26話 意識しすぎてギクシャクした距離感
昨日の朝、僕の顔に股間をうずめる形で転倒した透花は、その場で「死にたい」と呻きながら完全にフリーズしてしまった。
僕も僕で、顔面に叩きつけられた衝撃と、信じられないほど柔らかく、そして甘い香りのする未知の感触に、しばらくの間、意識がどこか遠い世界へと旅立っていた。
我に返った後も、僕たちは互いの顔をまともに見ることができず、ほとんど会話もないまま、逃げるように学校へ向かった。
その日は一日中、教室にいても、その気まずさは消えることがなかった。
そして翌朝の今、僕は再び、あの気まずさの中心地へと足を踏み入れようとしている。
……行きたくない。
でも、僕が起こしに行かなければ、透花はきっと夕方まで寝ているだろう。
意を決して、透花の部屋へと向かう。
ドアノブに手をかけた瞬間、昨日の出来事が鮮明にフラッシュバックし、心臓がドクンと大きく跳ねた。
深呼吸を一つ。大丈夫だ、あれは事故だ。
そう自分に言い聞かせ、僕は静かにドアを開けた。
部屋の中は、いつも通りの、片付いているとは言い難い状態だった。
しかし、今日の僕の目には、その光景が全く違って見える。
ベッドの足元に丸められた、昨夜着ていたであろうTシャツとショートパンツ。
そのすぐそばに、無造作に脱ぎ捨てられた、淡いピンク色のレースがあしらわれた下着。
「~~~~~~っ!?」
ダメだ、見るな!
そう思うのに、視線が釘付けになって離せない。
いつもなら気にも留めなかったはずの、彼女のプライベートな部分が、やけに生々しく僕の目に映る。
顔にカッと血が上るのを感じながら、僕は慌ててベッドへと視線を移した。
ベッドの上では、当の本人が布団にくるまり、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
いつもと同じ光景のはずなのに、今はその無防備さすら、僕の心臓を激しく揺さぶった。
「……と、透花。朝だよ、起きて」
「…………すぅ……すぅ……」
声が、上ずる。
いつもなら気軽に揺するはずの肩に、手が伸ばせない。
数センチ手前で、僕の手は行き場をなくして彷徨った。
どうしよう。触れない。
昨日の、あの柔らかい感触が、手のひらに蘇ってくるようだ。
顔が熱い……。
「お、おい、透花。起きないと、本当に遅刻するぞ」
意を決して、指先でつんつん、と肩を突いてみる。
我ながら、情けない起こし方だと思ったけど、仕方ない。
思い切り触れるなんて、今の僕にはできそうにもないんだから。
「ん……むにゅ……」
透花が、ゆっくりと寝返りを打った。
掛け布団がはだけ、タンクトップからたわわに実ったおっぱいが溢れそうになっている。
うっ、と衝撃を受けて目が吸い寄せられる。
昨日、一晩中あの胸に抱かれて挟まれていたんだ……。
僕が狼狽していると、透花は薄っすらと目を開けた。
そして、僕の顔を認識した瞬間、彼女はびくりと大きく跳ね起きた。
「ひゃっ!?」
「お、おはよう……」
「お、お、おはよ、ございます……!」
敬語だ。
透花は勢いよく上体を起こすと、僕から視線を逸らし、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。
その反応に、僕の顔もさらに熱くなる。
気まずい。気まずすぎる。
いつもなら、まだまだ覚醒することもなく、「あとごふん……」の甘えた声で二度寝をせがみ、最終的には僕がお姫様だっこで運ぶのがお約束だったのに。
今日の彼女は、僕に触れられるのを避けるかのように、自らベッドから降りようとしている。
「あ、えっと、今日は、自分で起きれるから! 大丈夫だから!」
「そ、そうか。なら、良かった……」
会話が、続かない。
僕たちは、互いにどう距離を取ればいいのか分からず、ただワタワタと視線を彷徨わせるだけだった。
ああ、もうダメだ。
僕たちは、今更ながらに気づいてしまったのだ。
僕たちのこれまでの距離感が、いかに異常で、無防備で、そして……危険なものだったのかということに。
気まずい沈黙が、僕と透花の間を支配していた。
いつもなら、他愛ないおしゃべりをしながら歩く通学路が、今日はやけに長く感じる。
僕たちは、互いに半歩分の距離を空けて、無言で歩いていた。
時折、視線が合っては、慌てて逸らす。
そのたびに、昨日の出来事が鮮明に蘇り、顔に熱が集まる。
顔面に押し付けられた、あの信じられないほど柔らかく、温かい感触。
そして、僕の股間に顔を埋めてしまった時の、透花の絶望に染まった顔。
どちらを思い出しても、心臓がうるさく鳴り響き、まともに隣を歩けない。
ちらりと横目で透花を盗み見ると、彼女もまた、俯き加減で耳まで真っ赤に染まっていた。
教室に着いても、その空気は変わらなかった。
僕たちは逃げるようにそれぞれの席に着く。
いつもならすぐに透花の周りにできる人の輪も、今日はどこか遠慮がちだ。
高山くんたちが話しかけても、透花は「う、うん」「そ、そうだね」と上の空で、笑顔もぎこちない。
その様子に、クラス全体が「何かあったんだな」と察しているのが、肌で感じられた。
僕が机に突っ伏して、この気まずさから意識を逸らそうとしていると、前の席の先崎くんが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて振り返った。
「よお、相馬。お前、ついに……やったのか?」
「はあ!? な、何をだよ!」
あまりにも単刀直入な、そして見当違いな問いかけに、僕は思わず素っ頓狂な声を上げる。
先崎くんは、僕の反応を見て「しーっ」と人差し指を口に当てると、さらに声を潜めた。
「とぼけんなって。今日の白崎さんの様子、見ただろ? 朝からずっと顔真っ赤で、上の空で、時々お前のことチラチラ見ては、また赤くなって……。あんなの、どう見ても『昨日の夜を思い出してドキドキしてます』って顔じゃねえか」
「ち、違う! 断じて違う! 僕と透花は、そういうのじゃ……!」
「はいはい、そのセリフは聞き飽きた。でもな、今日の二人はガチで雰囲気が違うんだよ。いつもの幼馴染の痴話喧嘩とはレベルが違う、なんつーか……一線越えちまった男女の、甘酸っぱくて気まずいオーラがダダ漏れなんだよ」
先崎くんは、名探偵がごとく、したり顔で分析を続ける。
その言葉の一つ一つが、僕の心を的確に抉っていく。
一線は越えてない。断じて越えてない。
でも、それに限りなく近い、あるいはそれ以上に恥ずかしいハプニングがあったのは事実だ。
「だ、だから、何も無いって言ってるだろ!」
「へーえ? じゃあ、なんでお前も顔真っ赤なんだよ。それに、否定の仕方がめちゃくちゃ動揺してるぜ。図星だろ?」
「これは、その……ハプニングがあったんだよ!」
我ながら、苦しすぎる言い訳だ。
先崎くんは、僕の狼狽ぶりを見て、確信を深めたようにニヤリと笑う。
「なるほどなー。まあ、おめでとう。これで俺たちも、お前を『童貞』ってイジれなくなるわけだ。ちょっと寂しくなるな」
「だから違うって言ってるだろ! いい加減にしろよ!」
僕が本気で声を荒らげた、その時だった。
僕たちのやり取りが聞こえたのか、透花がびくりと肩を震わせ、心配そうにこちらを振り返った。
そして、僕と目が合った瞬間、彼女は「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げて、再び顔を真っ赤にして俯いてしまった。
そのあまりにも分かりやすい反応に、先崎くんは「ほら見ろ」と言わんばかりに、僕の肩をバンと叩いた。
「……もう言い逃れはできねえぞ、相馬。あの反応は、完全に『クロ』だ。……で? どうだったんだよ、昨日の夜は。やっぱり、白崎さんの胸って、爆乳のムチムチだったのか?」
「~~~~~~~~っ!!」
僕はもう、何も言い返すことができなかった。
ただ、羞恥と誤解と、そして昨夜の記憶のフラッシュバックで、沸騰しそうな頭を抱えることしかできなかった。
フワフワだったよ……。死ぬ……。




