刺繍入りのハンカチ
◇◇◇
幸福か不幸かで言えば、私の人生は飛び抜けて幸福だと言えるだろう。
貴族の中では最上位の公爵という爵位を王国建国初期から賜るハイドレンジ家の正妻の長女として生まれ、第一王子殿下の婚約者候補となり、何不自由なく今日まで生きている。
私が不幸だと言うのならば平民の血と汗でできたこの豪奢なドレスを引き裂かれても文句は言えまい。
しかし私はこの幸福を享受できずにいた。そんなことを口に出せば鼻で笑われるに違いないけれど。
大きなベッドとドレッサーだけの広々とした部屋に、たくさんの侍女。日々仕立てられる色とりどりのドレス。私と母が通る度に頭を下げて色のない声でご機嫌伺いをしてくる側室とその子供である私の異母兄弟たち。こっそり唇を噛み締めているのも。
どこか違和感があった。私は疑いようもなく公爵邸の、お姫様。溢れるほどの財を持ち、皆に傅かれるお姫様。
でも私の中のなにかは強烈なおかしさと吐きそうなほどの嫌悪感を訴えている。いつからだろう。
おそらく、物心ついたときからずっと。
そんな私の母はとても高貴なひとで、私を大切に扱う。
「エルちゃん、どうしたの?手が止まっているわ」
ああ、いけない。刺繍をしている最中だったのに。でもお母様はこんなことで怒ったりしない。いや、むしろ私は母が声を荒らげているのさえ見たことがない。
「いえ………先日新たに私付きの侍女になったサーシャのことを考えておりました。彼女の手際の良さが気に入りまして…」
止めていた手を動かす。皺にならないようにひと針刺したら糸を引いて、もうひと針刺しては糸を抜いて…。
刺繍は得意でも不得意でもなく、好きなわけでも、しかし嫌いなわけでもない。そう考えたら暇を潰すのにうってつけとも言えるのかもしれない。そんなことを言ったらお母様はきっと頬に手を当てて困った顔をするでしょうけど。
「まあ、そのようなことに心を裂く必要などないのよ。それに使用人の名前など覚えなくて良いと前も言ったでしょう?エルちゃん、あなたもう少し貴人らしくおなりなさい。公爵令嬢とはそういうものなのよ。今朝もあの子に膝を折ろうとしたなんて言うじゃない。なんでしたっけアマーリアさんの子…。いやだわ、でもあの子も使用人のようなものだから忘れてしまっても仕方がないわ」
お母様は自分でおっしゃったことがおかしかったのか、クスッと笑った。アマーリアはお父様の3番目の奥様。今朝私が出会ったのは異母妹のロキシーだ。
お母様に告げ口したのは誰だろう。候補が多すぎて分からない。
お母様は縫う手を止めて私の刺繍をちらりと見て口を開いた。
「今回はそれなりに立派に出来ているじゃない。特に金のエンブレムはとっても素敵。殿下もきっと喜んでくださるわ。ヴィヴィアン様は刺繍が苦手だと専らの噂…きっとあなたが殿下に選ばれるのではなくて?」
あと3ヶ月後には第一王子殿下が成人となり、立太子なさる。そのときに正式な婚約者も発表される。もし私が正室に選ばれたならば私はこの国1の高貴な女性となるのだろう。私以外に殿下の婚約者候補は5人ほど。厳選された良家の子女たちだ。
もう私も18。通常ならとっくに婚約者がいる年齢だ。
殿下に選ばれなかった令嬢には2つの選択肢が与えられる。
1つ目は他家に嫁ぐこと。しかし年齢の近い好条件の男子はほとんど既に婚約しているだろう。だから…50歳も年の離れた老貴族の後妻になってもおかしくはない。
2つ目は殿下の側室になること。実際、ほとんどの令嬢がこちらを選ぶ。
後宮に押し込められて側室間での後継争い…そんな上下関係は家の中だけで手一杯だ。
つまりこれは賭け。如何に殿下に価値をアピールするかの。
ミートパイがテーブルに落ちたとき、早く拾えば拾うほどお母様に気づかれない確率は高い。私もミートパイを失わない。ただし拾って食べたことを見つかったらお小言が始まる。素直に下げさせれば眉をひそめられるだけで済む。
そんな感じだ。
…でも素直に落としたと言ってもお母様は新しいパイをもってこさせるだろう。
それから私はミートパイは好きだ。
…それじゃあ、この例はふさわしくない。
皆が憧れる王子様の婚約者だなんて。正室でも側室でも私はあまり嬉しくない。
誰にも言ったことは無いけれど。お父様とお母様に言われた通りずっと私はお妃教育を受けてきた。
家にはたくさんの専属教師が来る。週に一回は王宮に言って、特別授業。そして殿下と婚約者候補たちの交流会。それだけの日々を殿下の婚約者候補に選ばれてからずっと。
度々開かれるパーティーでは私は貞淑さを求められる。男性と踊るなんて以ての外。並んでいるお料理にも我が家専属の騎士の視線を気にして会場内ではあまり手をつけられなかった。
同年代の令嬢と会話をしていても殿下の婚約者候補たちの力関係を考えて話に応じてくれる令嬢は限られる。彼女たちもにこにこと微笑んで私に調子を合わせる。気なんて抜けやしない。
何より、ちゃんとした婚約者がいてパーティーを楽しんでいる彼女たちはどうしても私よりは自由で楽しげに見えて、憂鬱だった。
私の成績は優秀だと思う。父と母の期待通りに。手を抜くことなんて許されないから。私はきっと両親の考えに反抗的でいるくせして、同時にひどく恐れているのだ。
2人とも本心が見えない。何を考えているのか分からない。それとも全てが本心なのかもしれない。母は心から殿下の婚約者になることが私の幸せだと考え、地位の低い人を人とも思わないのかもしれない。
父は、穏やかな人だ。為政者としてはそれなりに有能なのではないか。ハイドレンジ公爵家が安定していることを見る限り。
彼は子供たちに対して平等だ。本館にはほとんど顔を出さない。だから私は常に1歩引いた位置から笑顔を保ったまま私たちと話す父をまるで他人のように思う。
父には否定されたことがない。大抵私に必要なことは母が全て父に伝える。そして父は書類に向き合ったまま一瞥もくれずにそれを許可する。
機械みたい。
母の言葉通りになかなか会えない父に「お会いしたいです」と手紙を書いたこともある。父は美しい文字で謝罪と、私に会いたい旨を丁寧に綴って返事をくれた。
しかし父の帰宅頻度は変わらなかった。そのことについても何も触れなかった。
母も、私が父との手紙のやり取りを報告すると、微笑んですぐに義務を終えたとばかりに興味を失ったようだった。
母はとても貴族らしい人だ。
いつも微笑みを絶やさず、気高い、淑女の鏡のような人。幼い頃私が1人で入浴しようとしたとき、職務怠慢として穏やかなままメイドの頬を扇子ではたいたように。
私が貴族らしさを語るのは全くもって滑稽だ。なにせ、私の周りには貴族らしい人しか居ないのだから。
それでも私は適応することが出来ない。
異なる価値観なんてもたなければ良かっと思う。母の言葉を何も考えず受け入れて従って生きていけるなら、それはどんなに幸せなことだろう。
そんなことで解決する、私の悩みなどちっぽけなものだ。
私はどこかの家のものになるまであと3ヶ月………
そろそろ腹を決めなければいけない、
彼のことを、諦める決意を。決して叶うことの無い願い。
平民と、結ばれたいだなんて愚かな願いを……
ヒロインの名前はエルローズで、前世の記憶がほぼ無いタイプの転生者です。