八 私は自由を失う
九月に入って、最初に迎えた水曜日のこと。その日は、朝から何かが変だった。目覚めた体が、やけに熱い。
けれど、それは寝起き特有の気だるさだと軽く考えてしまった。それが絶望の始まりとも知らずに。
ぼんやりとした意識の中で、隣で眠る彼女を眺めながら二度寝しようか迷う。けれど、喉の渇きが私を起き上がらせた。飲みたくもない殺菌された水を飲むか、それとも口をゆすぐだけにしようか──迷いながらベッドから降りた、その瞬間。
体がすとんと落下した。
平衡感覚が喪失し、前のめりに倒れてしまう。咄嗟に手を付いたので怪我はなかったが、何が起こったのか理解できない。
足に力が入らなかった。立ち上がろうとするが、うまくいかない。近くにある椅子と机に体重を預けて、ようやく体を立て直すことができたけれど、それはほとんど手で体を支えているようなものだ。
病の進行──ようやくその考えが浮かんだ。安らぎに浸り過ぎていた代償か。私はどうしようもない病を抱えている。そんな現実から目を背けていた報いが、ついに来たのだ。
体が震える。怖い。また私から一つなくなってしまう。足が動かなくなったら歩けなくなる。歩けなくなったら彼女と会えなくなる。一緒にいられなくなる。一人になる。
そんなのは嫌だ。離れたくない。
勢いを付けて体を動かし、なんとか彼女が眠るベッドへすがり付いた。シーツを掴み、込み上げる涙をこらえる。だけど、彼女の寝顔を見たら何もかもが弾けてしまった。震えながら皺だらけのシーツに顔を埋め、泣き顔を隠す。
もう、だめだ。病はまた私から大切なものを奪っていく。どうすることもできない。
何かを考えるたびに涙は溢れる。こうやって泣いている情けない自分自身が嫌だ。いつの間に私はこんなに弱くなってしまったのか。
その時、頭をそっと撫でる何かの感触があった。予期せぬ刺激に、また体が震える。
「どうしたの?」
寝起きのためか、いつも以上に甘ったるい声。彼女が起きたのだ。でも、今の顔はとても見せられない。どうかこっちを見ないで。
「……泣いてるの?」
その声で話しかけないで。涙が、何をしても止まらなくなるから。
「もしかして……」
鋭い彼女のことだ。私の不自然な格好を見て感付いたのだろう。感覚がほとんど消えてしまった私の足は、今どの方向に曲がっているかさえもわからない。
ベッドがわずかに歪む。彼女が動く気配がしたかと思うと、シーツを掴んでいた左手が包まれた。慣れ親しんだ彼女の手に触れて、ようやく左手に走る痛みに気付く。強い力で掴み続けたせいだろう。握り込んだ手が開かない。筋肉が引きつったように硬直していた。
すぐ近くに彼女がいるのがわかる。できるなら飛び付いて、この前みたいに私を受け止めてもらいたい。だけど……できない。足が動かないからとか、そんな理由じゃない。ただ、どうしてか怖くてたまらない。そばにいたいのに、自分からは踏み込めない。
きっと、私は変に自尊心が高いのだろう。素直に自分の弱さを他人にさらけ出せない。
だからこそ、彼女に惹かれたのかもしれない。臆することなく、怯むこともなく、私の想像以上のことをやってのける彼女に。
たとえ足が動かなくても、腕で這ってでも彼女にすり寄ることはできる。それなのに、私はまた逃げている。自分からは何もせず、彼女が動くのを待っている受身の姿勢。変わろうといくら決意しても、その根幹は昔のままだ。
結局、私はシーツに顔を埋めたまま涙が止まるのを待った。彼女はその間、ずっと手を握ってくれていた。
「あのさ……足、動かないの?」
私が泣き止んで落ち着くのを待ってから、彼女が訊ねてきた。顔を見せないように俯きながら、小さく顎を引いて返事をする。
「私の肩貸すから、ほら、立って」
彼女はほとんど私を抱えるような形で、椅子に座らせてくれた。ようやく体が休まったように思う。背もたれに体を預け、彼女から逃げるように顔を逸らす。
「ちょっと待っててね」
そう言って、彼女は洗面所へと向かった。残された私はまだ潤んでいる目を拭う。触っただけでも、かなり腫れているのがわかる。こんな顔では、彼女と向き合えない。
「ほら。これで目、冷やして」
彼女はタオルに保冷剤を巻いて持って来てくれた。顔に当てると、冷たくて気持ち良い。目の部分だけすぐ熱くなるので、動かして冷たい部分を当て続ける。
「落ち着いたら、誰か人を呼ぶからね」
彼女は私に背を向けたまま言った。その察しの良さに、また私は甘えてしまう。
私は変わらず俯いたまま、目の熱が引くのを待った。
しばらくして、彼女はちょうど部屋の前を通りかかった看護婦に事情を説明し、医師たちを呼んでもらった。私たちが互いの部屋に泊まっていることは正式に認可されてはいないはずなのだが、どうやら周知の事実らしく何も言われなかった。
動けない私は車椅子に乗せられ、検査室まで運ばれる。その間、彼女はずっとそばで付き添ってくれていた。それがどんなに心強かったか、今すぐにでも彼女に伝えたい。
下された診断は、やはり病の進行だった。どうやら、私は外面的な機能から失っていくらしい。性格や感情など、内面的な機能を失う彼女とは対称的だ。
運ばれる時に使った車椅子は、私がそのまま使っていいことになった。部屋に戻る時は、彼女が後ろから押してくれた。
無言だった。見れば、彼女も落胆しているのがわかる。似合わない顔をして、言葉を選んでいるようだった。
部屋の空気が重い。白いはずの壁が、くすんだ灰色のように見える。
わかっていたことなのに。
いつかは手足が動かなくなり、その果てに寝たきりになる可能性があると受け入れていたはずだ。それなのに、今こうして現実を目にすると、怖くて泣きたくて震えが止まらない。
私は、一人では何もできない。
自力で立てなくなるだけで、できることが激減する。やがて手も動かなくなるだろうことは、難なく想像できる。そうしたら──私は無力さを一瞬ごとに自覚させられながら、終わりの見えない毎日を過ごさなければならない。
視線が勝手に彼女を追う。俯き、指を所在なさげに合わせている、その姿を。
なんでもいい。何か声をかけてほしい。このままでは、鉛色の空気に押し潰されてしまいそうだ。力無く垂らした自分の腕は足に当たっているはずなのだが、そんな感触は一切ない。
私の足は、もうダメだ。
「──一つ、いいかな」
ようやく彼女が喋った。目が合った彼女は、とても思い詰めたような顔をしている。一体、何を言おうとしているのだろう。少しだけ不安になる。
「これからも、一緒にいていい?」
小さな声だった。私が何も返せずにいると、彼女が言葉を続ける。
「ほら、足って大事でしょ? だから、ちゃんとした人が一緒にいて色々と見てないといけないだろうし、私が邪魔になっちゃうんじゃないかなって」
彼女は早口でまくし立てた。私の介入を前提としていない、自分だけの閉じた意思表示。私はそんなこと望んでいないのに。他の誰でもなく、彼女にいてほしいのに。
「それなら遠慮なく言ってくれれば──」
最後まで聞きたくなかったので、彼女の腕を掴んで言葉を切らせた。私は首を横に振り、握る力を強める。痛くはないだろうが、力を入れられていることはわかるだろう。
『いっしょにいて』
それだけを、ゆっくりと彼女の腕に書いた。
「……いいの?」
深く頷いて応える。彼女がいなくなるのは嫌だ。失うのは体の機能だけで十分だ。
『はなれるなんていやだよ』
一緒にいてと願ってはみたものの、果たして彼女は私を受け入れてくれるのか。断られてしまったら──考えるほどに不安で怖くて俯きたくなる。
「私、ここにいていいんだね……」
だけど、こうして彼女からも手を握られると嫌な感情は消え去った。代わりに満ちるのは温かい感情。かげがえのない人が、私を受け入れてくれたのだから。
歩けない私を世話してほしいとか、彼女に望むのはそういうことではない。ただそばにいて、なんでもないことを話し合えればそれでいい。
今まで通りにしてくれること。それが一番の願いだった。




