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七 私は彼女のすべてに触れる

 その日は最初からいつもと違っていた。彼女の部屋に行くと、そこには誰もいなかった。ベッドや家具が綺麗に整えられ、まるで生活感が漂っていない。

 八月に入り、暑苦しく過ごしにくい日々が続いている。蝉の声はうるさいし、熱と光を振りまく太陽は容赦がない。そんな中で、彼女は私が唯一安らげる場所だった。それなのに、彼女がいない。


 部屋の中へ一歩踏み込む。どこを見回しても、手を振って迎えてくれる彼女はいない。扉を開けて洗面所を覗いてみたけど、そこも同じだった。どこへ行ってしまったのだろう。どうしていないのだろう。白い内装が目に痛い。

 私は取り残されたのだろうか。ほのかな絶望が心に芽生える。この病は不明な点が多い。進行速度も人それぞれ。ある日急激に悪化することもないとは言い切れない。


 彼女がいない。それを認識すると胸が苦しくなる。こんな気持ち、親と別れた時も感じなかったのに。してはいけないとわかっていても、嫌な想像ばかりが浮かぶ。

 まさか、彼女も二階へ行ってしまったのでは。思い出すのは、管に繋がれたおばさんの姿。


 自分の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。斜め上の天井を、ぼんやりと眺める。

 どうして何も言わずに消えてしまったのか。あの作られたような、痛いほどに綺麗な部屋。最初はそんなことを考えていたはずなのに、いつの間にか彼女の姿ばかりが浮かぶ。ころころと変わる表情。無数の傷を持った体。そして、その優しい温度。


 忍び寄る孤独。彼女がいなくなったら、私はどうやって生きていけばいい? 心に穴が開いたようだ。

 意識がはっきりとした形にならない。看護婦が定期健診に来たようだが、私は機械的に対応していた。何かを言っていた気もするが、定かではない。それはまるで、この施設に入居した当初の私がそこにいるようだった。


 元々は私一人しかいないのが普通だった。それなのに、今こうして一人になると居心地が悪くてたまらない。静かな部屋が放つ無音が耳に痛い。

 ここにいたくない。どこか、心を落ち着かせることができる場所へ。


 あてもなく施設内を歩き回った私は、いつしか中庭に辿り着いていた。ブランコや滑り台が設置されており、さながら住宅街の片隅にある公園である。

 入居者であろう子供たちが数人、その周辺で遊んでいるのが見える。ブランコの順番を待ちわびて騒いだり、義務のように何度も滑り台に上ったり──あの子供たちは、自分の生涯が長くないことを知っているのだろうか。

 飽きるほど見てきた白は、ここにもあった。新品同然に白い輝きを放つベンチ。日陰にあるため、腰掛けてもそれほど熱くはない。


 夏にふさわしく、空には雲一つない青さが広がっていた。目の中にある透明な糸屑が、視界を動かしても離れずに残る。景観のために植えられた木や花が日光を反射して眩しい。蝉の声が無意味に私の耳を通り過ぎる。

 そんな風景の中で、私はただ虚ろな目を空に向けていた。周囲の音が、何かへ吸い込まれるように消えていく。


 どれくらい中庭で放心していたのかわからない。日差しは強くなる一方で、気温を天井知らずの勢いで押し上げる。全身に汗が滲む。それでも動く気にはなれない。時折吹く風は涼しいけれど、私の心までは冷やしてくれない。


「どうしたの? こんなところで」


 突然聞こえたその声は、すぐに形を成さなかった。あるはずのない声だったから、無条件に信じることができなかったのだ。

 機械的に首を動かし、声がした方を見ると──そこには彼女が立っていた。何事もなかったかのように、いつもの表情を浮かべて。

 なんだか、見えるものすべてが嘘みたいだ。本当に彼女はここにいるのだろうか。


「部屋にいないから捜しちゃったよ」


 それは私も同じなのに。その言葉を伝えられぬまま、彼女が隣に腰を下ろす。

 どうして彼女がここにいるのだろう。いなくなったはずではなかったのか。今までどこにいたのだろうか──ようやく動き出した頭は、そんなことばかり考えていた。

 彼女は首を傾げて私の顔を覗き込んでいる。私が何か言うのを待っているのだろうか。しかし、今はノートもペンも持っていない。こんな時には、どうすればいいか。


 その答えは「彼女の手を取る」だ。今まで、ほんの数回だけ戯れにやってみた行為。それが、今ここで正式な形に生まれ変わる。


『そっちこそどこいってたの』


 一つの文字を書くごとに指を離して、書く動作が彼女にも見えるようにする。わかりやすいように、使う文字はひらがなだけ。そうやって、彼女が私の言葉を認識しやすくなるように努めた。


 掌に指を走らせると、彼女はくすぐったそうに肩を強張らせる。それでも手を引こうとしないのが彼女らしい。

 書き終えると、しばらく彼女は考えていた。言葉の意味を頭の中で再構成しているのだろう。やがて、理解した彼女は澄ました顔で答える。


「どこって、先生に呼ばれて診察に行ってたんだけど」


 なんて単純な真実だろう。それでは、私が早とちりして勝手に慌てていただけじゃないか。けれど、わざわざ呼ばれるということは──何か理由があるはずだ。


『へやにいなかったからびっくりした』

「ごめんね。突然だったからさ」


 力無く笑う彼女を見て、私は瞬時に閃いた。考えたくないことだけど、訊ねなければならない。知らないままの方が、遥かに怖いから。


『もしかしてびょうきのことで』


 そう書くと、案の定彼女は言葉を途切れさせた。それが答えだとも言わんばかりに口をつぐむ。


『なにがあったの』


 続けて書いた私の言葉に、彼女がようやく口を開く。


「……私ね、また一つ、なくしちゃった」


 たったそれだけの言葉が、私に重くのしかかる。すべてを理解するのは簡単だった。

 私の思考を彼女にどう伝えればいいのだろう。指は鉄の棒でも埋め込まれたかのように、ぴくりとも動いてくれない。


「検査したのは何日か前なんだけど、その結果が今朝出たんだって」


 訊ねるまでもなく、彼女は淡々と語っていた。今の私にできるのは、その言葉を聞いて、しっかりと受け止めることだけ。


「本当は一声かけて行こうと思ったんだけど、朝早かったし、ゆっくり寝かせてあげようと思ってさ。すぐ終わるだろうって軽く考えてたところもあった。ごめん」


 指を彼女の手に置いたまま、ゆっくりと首を振る。彼女が謝る必要なんてない。


「怒りとか、恨みとか、そういうのが──憤怒って先生は言ってたっけ。それがなくなったみたい。だけどさ、前からこんな性格だったわけだし、自分でも特に変わったことはない気がするけどね」


 彼女が顔の向きを変え、正面に広がる空を見た。注ぐ日差しが、その横顔に影を映し出す。


「でもね、実は前にちょっと調べちゃったんだ。ほんの出来心だったんだけど、どうしても気になって……感情に異常が出る病気って、どんな風になるんだろうって」


 彼女の行動は、一番してはいけないことだった。

 ただでさえ、この病にはわからないことが多い。余計な情報を素人が集めて何ができる。心配事を増やすだけだ。


「大体は気が狂って悲惨な最期を迎えるみたい。もちろん、私は狂ってなんかないって思うよ。だけど、自分じゃ本当にそうなのかわからない。自分のことなのに、何も……」


 彼女はこちらを向かない。何かを見ることを放棄したその目は、さっきまでの私とよく似ている。輝きと焦点と希望を失った漆黒の瞳。こちらを見ぬまま彼女が呟く。


「ねえ、私って……狂ってるの?」


 黒い影は顔全体に広がり、口は言葉を出した半開きのまま閉じようとしない。彼女のこんな表情は今まで見たことがない。

 なんでもいい。とにかく考えていることを伝えなければ。私は固まった指を強引に動かして文字を書く。


『そんなことない』

「根拠は?」


 驚くほど速く言葉が返ってきた。返事があるとは思わなかったから、どう答えるべきか考えてしまう。

 しかし、考えても答えが出ないのが私という人間である。


『わたしがそうおもわないから』


 ほとんど思いつきの強引な答えに、彼女はふふっと小さく笑う。さっきまでの絶望に染まったような顔は、夢か幻だったのだろうかと思うほどに眩しい笑顔。


「私が変なことしないように見張っててね」

『へんなことするようにはみえないけど』

「そりゃ見張られてるからね」


 ようやくこちらを向いて、彼女は明るい表情に戻った。まだ少し不安を残しているようにも見えるが、やっぱり彼女にはこういう顔が似合うなと思う。

 あんなに騒いでいた子供たちは、いつの間にか誰もいなくなっていた。見回した周囲には日陰が増え、空の果てから入道雲が顔を出し始めている。






 その後すぐに降り出した夕立が日中の熱気を奪い去り、過ごしやすい気温となった夜のことである。

 私の部屋に泊まりたい──彼女がそう願ったから、今はこうして私の部屋で一緒に眠る準備をしている。


「こっちの部屋で寝るのは何度目だっけ?」


 最近は互いの部屋で過ごした後、そのまま夜を明かすことが多くなっていた。彼女が私の部屋に泊まったのも、今日が初めてではない。

 彼女の質問には、親指を除いた四本の指を立てて答えた。


「なんか、こうしてお泊まりするのが当たり前みたいになってきたね」


 確かに、毎日ではないが互いの部屋に泊まることは多い。彼女の手を包み込んで頷き、肯定の意思を伝える。

 こういう時、私が喋れたら会話が弾むのだろうと思うと、彼女に申し訳ない。筆談ではどうしても不自然な間が生じる。こうして隣にいてくれるのに、私は声も聞かせてあげられない。


「ねえ、一緒にお風呂入らない?」


 それは私の悩みを吹き飛ばすほど、とても唐突な提案だった。

 しかし、彼女らしい言動でもある。何度も同じ布団で眠ったことはあるのに、一緒に入浴したことはない。

 けれど──彼女はそれでいいのだろうか。気になることを告げるため、ノートとペンを手に取る。


『体の傷痕を見てもいいの?』


 全身の傷を見たことはあったが、その時彼女は下着までは取らなかった。だが入浴となれば、当然下着も脱ぐだろう。その奥にもまだ見ぬ傷痕があるだろうと簡単に想像できる。


「……見てほしい、かな。私の全部を」


 頷いた彼女は、そんな大胆な発言をした。傍から見たら誘惑しているようにしか思えないのではないか。

 だけど、そんな意味ではないことはよくわかっている。彼女が茶化すような態度を取る時は、決まってその裏に何かを隠している。


 それに──彼女が私と同じようなことを考えていることを知り、嬉しくなってしまったのも事実。私も、彼女にすべてを見てほしい。外側だけでなく、心の奥までも。






 脱衣所で、私は改めて彼女の素肌と傷痕を見ることになった。

 こんなにも白く透き通った肌を持てたのには、何か理由があるのだろうか。肌を隠すような服装を四六時中していたから、それで──そんなことをぼんやり思う。


 やはり、下着に覆われていたところも例外なく痛々しい線が刻まれていた。豊かに膨らんだ胸には赤黒い線が走っている。白い肌との対比が、また私に倒錯した魅力を感じさせる。

 かつて血が流れ出たであろうその痕跡を、私は美しく思ってしまったのだ。


 シャワーの温度を調節し、互いの体に浴びせる。部屋が一人用であるせいか、浴室も広いとは言えない。二人で入れば尚更である。体の密着は避けられない。

 気付くと、彼女が震えていた。俯いて視線を逸らす姿なんてしてほしくない。なんとかしてあげたい。私にできることは、何か。


 言葉が使えないのだから、代わりに体を使うしかない。

 彼女の肩に手を置き、その気弱そうに細められた目をじっと見つめる。シャワーのせいか、それとも少し泣いたのか、濡れた睫毛が光っていた。


 言葉はない。彼女は何もしようとしないので、体を導いて座らせた。その後ろに屈みながら、石鹸を泡立てて彼女の体に塗りたくる。泡を塗り広げて肌を擦りながら、空いている手を彼女の背に這わせる。そこに刻まれた傷痕に触れ、その感触を確かめた。

 見た限りでは切り傷だったものが多いが、所々に刺し傷らしき痕跡もあった。他にも青黒い打撲傷や鮮やかで瑞々しい擦過傷など、その数は彼女自身もわからないだろう。


 それならば、私がそのすべてを確かめたい。彼女も知らない自身の秘密。それを私だけが知ることができたなら、きっと意識が朦朧とするほどの恍惚を味わえる。

 傷痕に触れた後は、そこを微かな力で撫でた。一つを撫でたら次へ。こうやって、彼女の傷をすべてなぞるつもりだ。こうしたからといって彼女の痛みが癒えるかどうかはわからない。ただ、私がそうしたいからしているだけ。


 背中の傷痕を制覇し、体の前面へ手を伸ばす。体を泡立てるのも忘れない。傷痕を辿る手は、あくまで補助的な役割に過ぎないのだから。

 脇腹から滑り込ませた手を上へと動かし、彼女の鼓動を感じられる場所に触れる。間に脂肪がこれだけあるというのに、私の掌は波打つ鼓動を確かに捉えていた。


 同時に感じる柔らかさ。その中に混ざる異質な硬さが指に触れるたび、そこから流れ出た血を想像してしまう。彼女の心理を空想してしまう。頭の中で勝手な想像をしてしまう。

 彼女は今、どんな気持ちで私の手を感じているのだろうか。抵抗しないということは、何を意味しているのだろうか。


 方向を変え、下半身を目指すことにする。目を落とした先にある太腿にも、色鮮やかな線が走っていた。それを隠すように泡を乗せ、指で広げる。

 徐々に手を内側へと動かすが、ここまでやっても彼女は抵抗する様子がない。この先には、気軽に触れさせてはいけない場所があるというのに。何が彼女をここまで無気力にしてしまったのか。


 今までは彼女を後ろから見ていたが、回り込むようにして顔色を窺ってみる。そこにあったのは、閉じられた目と、半開きになった口から漏れる吐息。耳と頬を赤く染めた彼女の表情は、絶対的なほどに妖艶なものだった。

 体を這い回っていた手を戻し、彼女の背中に文字を書く。


『どうしてなにもいわないの』


 背中が弱いのか、書いている間に何度か彼女の体が跳ねた。指を離し、返事を待つ。聞こえるのは、彼女の乱れた息遣いだけ。

 続く無言の時間。私は彼女の前面に移動して、正面から向き合う。どうしてそんな怯えた目で私を見るのだろう。もしかすると、少しやり過ぎたのかもしれない。幻滅されてしまったのだろうか。

 そうだとしたら……私は取り返しのつかないことを。


「──あのね」


 ようやく、彼女が口を開いた。いつもより低く、小さく、暗い声。


「どうして、私の傷を撫でてくれるの?」


 難しい質問だった。しかし答えなければならない。素直な気持ちを、自分の言葉で。彼女の手を取り、そっと指を乗せる。


『そうしたかったから』

「気持ち悪く……ないの?」

『そんなことないよ』


 掌に乗せたままの指が彼女に握られる。私が見上げるのと彼女が口を開くのは同時だった。


「どうして、そんなに優しいの……」


 最後の方は、声が掠れていた。右手の自由を奪われた私は、残った左手で彼女の背中に手を回す。これ以上彼女のこんな顔を見ていたくないから、ほとんど衝動に任せた行動。その勢いに乗って、強く彼女を抱き締めた。

 彼女は一度鋭く息を吸って、私の胸で泣き始めた。繋がれた手は、いつの間にか指が絡められている。






「──これで、おあいこだね」


 鼻を啜り、涙を拭うと彼女はいつもの笑顔を取り戻していた。やはり彼女はこうでないといけない。私もようやく安心できる。

 彼女の体は既に洗い終えていたので、次は私の番だった。その時はまだ彼女も完全に立ち直っていなかったので、何もしてくることはなかった。

 しかし、その後二人で湯船に入ってからのことだ。彼女がこんなことを言い出した。


「私も体洗ってあげたかったなー」


 二人で入る湯船は肩まで浸かれないし、体の密着具合も普通ではない。今は並んで膝を抱えて入っている格好だ。

 彼女は私の体に手を伸ばしてくる。それだけなら構わないのだが、胸や太腿の奥にまで触れようとしてきた。つまらない体とはいえ、これでも一応は重要な部分なので、やんわりと振り払う。


「ちぇー。私のはさんざん触ったくせに」


 そう言われると反論できない。だから──再び手が来れば、きっと私は受け入れてしまうだろう。その優雅な指が、私の体を弄んでくれることを。

 互いに様子を窺い合う。交わされる視線が何度もぶつかった。


 やがて、彼女が私の二の腕に触れてきた。もちろん私は手を払いのけたりはしない。彼女の視線を感じるけれど、それには気付かないふり。どこまで彼女が踏み込んでくるのか、その成り行きを見守る。

 二の腕に触れた手は、ゆっくりと横へ移動した。その先にあるのは胸。触っても気落ちするだけの貧相な場所。けれど彼女がその奥にある鼓動を確かめたいのなら、いくらだって触れて構わない。

 今も自分でわかるほどにうるさく響くその音を感じ、私を見透かしてほしい。






 火照った体を冷やすため、私たちはアイスキャンディーを食べることにした。この部屋に来る前に、彼女が買って冷凍庫に入れておいたのだ。


「うわー、カッチカチだよこれ。釘が打てるんじゃないかな」


 そんな冗談を言う彼女。もう浴室でのことは吹っ切れたのだろうか。


「他にはない硬さがいいんだよね」


 彼女の隣で、私も同じようにその氷菓を舐める。はっきり言って、氷を舐めるのと一緒だ。味なんてこれっぽっちも感じない。

 それに、人の手で作られた鮮やかな赤色。普通ならば一瞥をくれただけで二度と見もしない代物だ。


「んー、この冷たさがたまらない」


 だけど隣に彼女がいるだけで、私はこうして無味の氷を食べることができる。食べ終わった後は、残った棒を意味もなくぶつけ合う。そんな大した事ないはずの行動が、彼女とならば楽しく思えるのだ。


 歯を磨き、一息ついてベッドに寝転がる。今では体が密着するのにも慣れた。

 肩が触れたら、どちらからともなく手を繋ぎ、顔を向かい合わせるのが恒例となっている。電気はつけたままだから、行われるのは睡眠ではなく単なるじゃれ合いだ。


 こうして見つめ合うだけで、私の心は安らいでいく。そんな時、彼女は決まって何も喋らない。沈黙がもたらす空気を理解しているのかいないのか、とにかく彼女は私が望むようなことをしてくれる。


 では、私はどうなのか。

 彼女が本当は何を望んでいるのか、今もわかっていない。私の部屋に泊まりたいという希望はあったが、それとは違う。たった今、この瞬間に彼女が何を思っているのか。それがわからない。だからと言って本人に訊くわけにもいかない。


 ただ、彼女がこうして触れ合いを求めてくるのならば、私はそれに応えてあげたいと思う。断る理由などない。彼女といることで私も安らげるのだから。それに、私だって彼女と触れ合いたい。

 彼女が体の表面だけでなく、心の奥にまで傷を負っているのなら、私はそれを癒したい。


 やがて電気が消され、薄い掛け布団を二人で羽織った。体を寄せ合っても以前ほど体が熱くなることはない。代わりに心地良さを感じるようになった。

 だから、こうして私から彼女に体を近付けることもできる。


「んー、よしよし」


 そうすると彼女の手が回され、私の背中が軽く叩かれる。何度か一緒に眠ってわかったのだが、彼女はこうしないと眠れないようだ。私がいない時は、適当な布団を抱いて眠っていたらしい。それを見せてもらったことがあるのだが、確かに愛用していることがわかるような証があった。

 こうして彼女のためになるのなら、私は喜んで自分の体を差し出そう。こんなことを思えるなんて、自分がどうにかなってしまったようだ。密着した体は、夏だというのに暑苦しさを感じさせない。冷房が動いているから──というわけではないだろう。


 顔を横に向ける。そこには目を開いたままの彼女がいた。暗い部屋で、互いの瞳を見つめ合う。時に逸らし、時に微笑む。

 今日は、私も横向きで眠ってみよう。一日の終わりと始まりを彼女の姿にするのも悪くない。

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