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豪商生まれのただの平民士官【帝国改革記】  作者: 橘秀斗
帝都・改革編

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第112話 皇帝の退位

 改革の法案が、一つ、また一つと、議会を通過していく中、帝都に、一つの噂が、静かに、広がり始めていた。


「陛下が、退位を、お考えだそうだ」


 その噂を、最初に耳にしたとき、レオンは、思わず、手を止めた。


「……本当か」


「確かな筋からの、話だ」アレクシスは、いつになく、慎重な口調で、言った。「宮廷内でも、一部の者しか、知らない」


「なぜ、今になって」


「分からない。だが——」アレクシスは、少し、間を置いた。「陛下は、改革を、自ら、始められた。その改革が、軌道に乗り始めた今、ご自身の存在が、かえって、その妨げになると、お考えなのかもしれない」


 レオンは、その言葉の意味を、しばらく、考え込んでいた。


 数日後、レオンのもとに、再び、内密の召し出しが、届いた。


 案内されたのは、以前と同じ、宮殿の、奥まった一室だった。そこには、簡素な服装の皇帝が、窓辺に、一人、立っていた。


「来たか」


「陛下」


 レオンは、深く、頭を下げた。


「噂は、耳に、入っているだろう」皇帝は、窓の外に、視線を向けたまま、言った。「私は、退位する」


 レオンは、言葉を、探した。


「……なぜ、でしょうか」


「改革を、始めたのは、私だ」皇帝は、静かに、言った。「だが、私は、この国の、古い仕組みの、頂点に、いる人間でもある。その私が、玉座に、居続ける限り、人々は、どこかで、『陛下のお考え次第で、また、元に戻るかもしれない』と、考え続ける」


「ですが、陛下が、おられなければ——」


「私が、いなくても、動く仕組みを、作る」皇帝は、レオンの方を、振り返った。「それが、お前たちに、託した、改革の、本当の意味ではないのか」


 レオンは、その言葉に、かつて、士官学校で、アレクシスが語った言葉を、思い出していた。「自分がいなくても組織が動く仕組みを作る」——それは、確かに、あの頃から、アレクシスが、大切にしてきた、考え方だった。


「次の、皇帝は」


「私の、孫にあたる者が、継ぐ」皇帝は、言った。「まだ、若いが、聡明な子だ。そして、新しい制度の下では、その権力は、これまでよりも、はるかに、小さくなる」


「それは、陛下ご自身の、権力を、手放されるということでも、あります」


「そうだ」皇帝は、小さく、頷いた。「それが、私にできる、最後の、務めだと、思っている」


 しばらくの間、二人は、無言のまま、向かい合っていた。


「一つ、お前に、聞いておきたいことがある」皇帝は、やがて、口を開いた。


「何なりと」


「私は——間違っていたのだろうか」


 その問いは、これまで、レオンが、聞いたことのない、静かな声で、発せられた。そこには、威厳も、命令の響きも、なかった。ただ、長い年月を、一つの国の重責と共に、生きてきた、一人の、老いた人間の、素直な問いだけが、あった。


 レオンは、しばらく、答えを、探した。慰めの言葉は、いくらでも、思いついた。だが、それは、この人に対する、誠実な答えでは、ないように、思えた。


「分かりません」レオンは、正直に、答えた。


 皇帝は、その答えを、予想していたかのように、静かに、頷いた。


「陛下が、守ろうとされたものは、確かに、ありました」レオンは、言葉を、慎重に、選びながら、続けた。「この帝国は、陛下の、お考えの下で、長い間、周辺の国々から、守られてきました。それは、事実だと、思います」


「だが」


「ただ——」レオンは、続けた。「これ以上、同じやり方を、続けていたら、誰も、この帝国を、守れなくなっていたと、思います。それも、また、事実です」


 皇帝は、目を、閉じた。


「……そうか」


 長い、沈黙の後、皇帝は、小さく、笑った。それは、自嘲でも、諦めでもない、どこか、肩の荷が、下りたような、穏やかな、笑みだった。


「お前は、最後まで、『分かりません』と、言うのだな」


「分からないことを、分かると言うのは、不誠実だと、思いますので」


「それで、いい」皇帝は、言った。「私の、周りには、長い間、『正しゅうございます』と、言う者しか、いなかった。お前のように、『分かりません』と、言う者の、言葉の方が、どれほど、信じられるか」


 レオンは、深く、頭を下げた。


「お前の、父親に、会ってみたいと、言ったな」皇帝は、ふと、思い出したように、言った。


「はい」


「退位した後、私は、静かに、暮らすつもりだ。いつか、お前の父が、帝都に、来ることがあれば——一杯、付き合ってもらいたい」


 レオンは、思わず、小さく、笑った。


「父に、伝えておきます。きっと、緊張して、数字の話ばかり、してしまうと思いますが」


「それも、悪くない」


 皇帝は、窓の外に、再び、視線を、向けた。帝都の、夕暮れの空が、淡い、橙色に、染まっていた。


「レオン」


「はい」


「この国を、頼む」


 その言葉は、命令では、なかった。一人の人間から、もう一人の人間への、静かな、しかし、重い、願いだった。


「微力ですが、全力を、尽くします」レオンは、深く、頭を下げた。


 宮殿を、後にしたレオンは、夕暮れの帝都を、しばらく、歩いていた。


 皇帝の、退位。それは、この帝国の、一つの時代の、終わりを、意味していた。


 (長い、戦いだった)


 士官学校の、入学式の日。南方戦線の、乾いた風。母の、死の真相。帝都の、書類の山。東方の、険しい山々。そのすべてが、今、一つの、終わりに、向かおうとしていた。


 だが、それは、同時に、新しい時代の、始まりでもあった。


 レオンは、足を止め、夕空を、見上げた。


 (さて。ここからが、本番だな)


 小さく、苦笑しながら、レオンは、再び、歩き始めた。

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