第0話 帝国の兵站屋
雨が降っていた。
地面を叩く雨音に混じって、遠くから怒号が聞こえる。
「敵騎兵、来ます!」
「数は!」
「およそ三千!」
天幕の中に緊張が走った。
帝国軍はすでに三日間、後退を続けている。
兵士は疲れ果て、馬の数も減った。矢は残り少なく、食料も底をつきかけていた。
誰が見ても、状況は最悪だった。
その中で、一人だけ。
地図を眺めながら、妙に落ち着いている男がいた。
泥で汚れた外套。
年齢に似合わない、冷静な目。
「……三千か」
男――レオン・ヴァイスは、地図の上の駒をひとつ動かした。
「レオン殿、敵はすぐそこまで来ています!」
「知ってる」
「ならば、なぜそんなに落ち着いていられるのです!」
「落ち着いてるんじゃない」
レオンは顔を上げた。
「もう逃げる必要がないだけだ」
「……何?」
周囲の兵士たちが顔を見合わせる。
レオンは地図の一点を指で叩いた。
「敵は三日前から俺たちを追ってる。雨は昨日から降り続いてる。街道はぬかるんで、重い荷車はまともに動かない」
「だからこそ、敵も速度を落としているのでは?」
「そう。でも問題はそこじゃない」
レオンは地図を滑らせる。
「限界が来るのは、敵のほうだ」
「……根拠は?」
「簡単だ」
小さく笑った。
「敵の補給車が、昨日から一度も見えてない」
天幕の中が静まり返る。
「偵察隊の報告だと、敵の本隊はおよそ二万。二万人が三日間、雨の中を歩いてるんだぞ」
レオンは呆れたように言った。
「その二万人分の食料を、誰が運んでる?」
「…………」
「馬の飼料は?」
「…………」
「矢は? 予備の武器は? 負傷兵を運ぶ荷車は?」
次々と問いを重ねる。答えられる者はいない。
「戦場にいる兵士だけ見れば、敵は二万人だ」
レオンは地図の後方を指した。
「でも、戦争をしてるのは二万人だけじゃない」
兵士たちが息を呑む。
「兵士を食わせる奴がいる。武器を作る奴がいる。馬を育てる奴がいる。荷車を動かす奴がいる。道を整える奴がいる」
指先が、敵軍の補給線をなぞっていく。
「そいつらが止まれば、二万人はただの腹を空かせた集団になる」
その瞬間だった。
外から伝令が駆け込んでくる。
「報告!」
「何だ」
「敵軍の後方で混乱が起きています!」
「原因は?」
「補給車が……泥にはまって動けなくなっているとのことです!」
レオンは小さく息を吐いた。
「やっぱりな」
「まさか……」
視線が集まる中、レオンは立ち上がる。
「全軍に伝えろ。これより帝国軍は、退却をやめる」
「しかし、敵は三千の騎兵を――」
「正面から戦うなんて言ってない」
天幕の外へ歩き出す。
雨はまだ降っていた。遠くで、敵軍の角笛が鳴っている。
「補給車が止まったなら、次は道を止める」
「道を……?」
「それから橋を落とす」
レオンは振り返った。
「三日も追いかけてきたんだ。敵はもう、勝てると思ってる」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「そういう奴ほど、足元を見るのを忘れる」
兵士たちが動き出した。
荷車が動く。
工兵が呼ばれる。
偵察隊が走る。
さっきまで敗走していた帝国軍が、少しずつ形を変えていく。
その様子を見ながら、レオンは雨の向こうを見つめていた。
「……戦争ってのは、本当に面倒だ」
剣だけでは勝てない。
兵の数だけでも勝てない。
勇気だけでも、名誉だけでも足りない。
飯がいる。
金がいる。
馬がいる。
道がいる。
そして、人がいる。
そのすべてが噛み合って、ようやく軍隊は戦える。
*
――このときの俺は、まだ知らなかった。
戦争を知れば知るほど。
帝国軍を知れば知るほど。
俺が戦う相手は、敵国だけではなくなっていくことを。
帝国を守るために軍人になったはずの俺が、やがて――
この国そのものと戦うことになるなんて。
*
数年前。
俺はただの平民だった。
これは、そんな俺が士官学校の門をくぐるところから始まる物語だ。




